マリー・ジョゼフィーヌ・ド・サヴォワ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ルイ18世妃マリー・ジョゼフィーヌ

マリー・ジョゼフィーヌ・ルイーズ・ド・サヴォワ: Marie Joséphine Louise de Savoie, 1753年9月2日 - 1810年11月13日)は、フランスルイ18世の妃である。夫が正式に戴冠する以前に死去したため、正式には王妃になっていない。イタリア語名はマリーア・ジュゼッピーナ・ルイーザ・ディ・サヴォイア(Maria Giuseppina Luisa di Savoia)。

略歴[編集]

1758年、マリー・ジョゼフィーヌはサルデーニャヴィットーリオ・アメデーオ3世スペイン・ブルボン家出身の王妃マリーア・アントーニアの次女として、トリノで生まれた。ルイ18世らの祖父ルイ15世の母であるマリー・アデライード・ド・サヴォワはマリー・ジョゼフィーヌの大伯母にあたる。

1771年4月、同盟国フランスの王弟プロヴァンス伯ルイ・スタニスラスと結婚した。のち、1773年に妹マリーア・テレーザが夫の弟アルトワ伯シャルル・フィリップ(のちのシャルル10世)と、1775年に兄カルロ・エマヌエーレ4世が夫の妹クロティルドと結婚している。

当初、兄王ルイ16世と同じ理由[1]で性的に無関心だったという夫は、その後性に目覚めて、1774年1781年にマリー・ジョゼフィーヌを妊娠させたが、共に流産した。夫は漁色を始め、愛人のバルビ伯爵夫人(Anne Jacobé Nompar de Caumont La Force, comtesse de Balbi)に熱を上げたので、次第に夫人はないがしろにされ、結局、2人の間に子供はできなかった[2]

フランス革命のため、夫妻は1791年のヴァレンヌ事件と同じ日にコブレンツへ亡命したが、夫の愛人同伴であった。その後、亡命先を転々とした間に、夫ルイ・スタニスラスは、兄ルイ16世の刑死で摂政に就任し、マリー・アントワネットの次男ルイ・シャルル(ルイ17世)が1795年にタンプル塔で獄死していたことが判明すると、亡命フランス王家は夫の「ルイ18世」としての即位を宣言したため、マリー・ジョゼフィーヌは名目上の王妃となった。

しかし1810年11月、マリー・ジョゼフィーヌは亡命先イギリスのハートウェル・ハウス(Hartwell House, Buckinghamshire)で死去した。彼女の遺体は、まずイギリスの王族が眠るウェストミンスター寺院のヘンリー7世礼拝堂に葬られたが、戴冠式を行えなかったことを理由に、フランス王妃として葬ることはできなかった。ルイ18世は王政復古を果たして正式に即位すると、マリー・ジョゼフィーヌの遺体をパリのサン=ドニ大聖堂には引き取らず、サルデーニャ島に送り、当時サルデーニャ王国の宮廷が置かれたカリャリの大聖堂に葬られるように取りはからった[3]。弟のサルデーニャ王カルロ・フェリーチェはせめてもと、姉の墓碑に「ガリア人の王妃」(ラテン語:Galliarum Regina)[4]と刻ませた。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ つまり真性包茎。ルイ・スタニスラスの場合は成長とともに自然治癒した。
  2. ^ ルイ18世には不能者という噂もあったが、それは事実無根で、もともと三男で王位継承の可能性が低く、若い頃には世継ぎをもうける義務に不熱心であったことを世間が邪推したもの。しかし、王位継承の可能性が高まって本当に子供が必要になった後では、健康上の理由(痛風)で不可能になっていた。庶子も生まれていない。
  3. ^ 元はイタリア本土のトリノにサルデーニャ王国の事実上の首都は置かれていたが、イタリア本土の領土がフランスの占領下にあった時期にはカリャリが名実ともに首都となっていた。
  4. ^ ガリアはフランスの古称、また雅称である。