コンシェルジュリー
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コンシェルジュリー
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| 英名 | Paris, Banks of the Seine | ||
| 仏名 | Paris, rives de la Seine | ||
| 登録区分 | 文化遺産 | ||
| 登録基準 | 文化遺産(ⅰ),(ⅱ),(ⅳ) | ||
| 登録年 | 1991年 | ||
| 公式サイト | ユネスコ本部(英語) | ||
| 地図 | |||
| 使用方法・表示 | |||
コンシェルジュリー(Conciergerie)は、フランスのパリ1区、シテ島西側にあるかつての牢獄。もともとフィリップ4世の宮殿であったが、14世紀後半に牢獄として使われ始める。18世紀のフランス革命の際には、多くの王族、貴族などの旧体制派が収容され、当時はその牢獄に入るとかならず死刑になるというので「死の牢獄」「ギロチン控えの間」とよばれた。しかし1914年に廃止、現在は観光名所となっている。
目次 |
[編集] 概要
元は14世紀後半にシャルル5世がサン・ポール館へ移動する時に王室司令部を置き、その際に特権を得た門衛(コンシェルジュ)のことを指していたが、いつしか活動拠点としていた建物自体がコンシェルジュリーと呼ばれるようになった。フランス革命の後は国民公会により革命裁判所が置かれ、1793年から2年間の間、2700名を死刑判決にしたという。その多くは一般市民・貴族・学者などだった。設備は悪かったらしいが、監視は比較的手薄だったという。[1]19世紀になっても使用されていたが、1914年に廃止、歴史資産に指定され、現在はパリのセーヌ河岸として世界遺産の登録対象になっている。なお、未公開の箇所は裁判所と警視庁の一部として現在も使用されている。[2]
また、マリー・アントワネットが処刑される前に2か月半過ごした独房も現在再現され、説明のための掲示板もある。[2][3]
[編集] 実態
当時の牢獄は有料だったため、払った額に応じて設備が変わった。[2]。払える額で囚人は以下の3つに分けられる。
- パイユー
- 別名「わら族」と呼ばれる人たちで、最も貧しい囚人。藁が敷かれた雑居房で寝かされ、非常に不衛生だったので、多くの囚人が病人だったらしい。
- ピストリエ
- ある程度お金を払える中流層の囚人。簡単なベッドがあり、雑居房で4~5人程で生活していた。
- プリゾニエ・ドゥ・マーク
- さらにお金を払える富裕層や著名人の囚人。家具のある独房に入り(家具を持ち込むことも可能。)、読書や仕事をすることもできた。
[編集] 外部
現在では貴重なゴシック建築の建築物で、シーザーの塔、銀の塔、ボンベックの塔、時計の塔の4つの塔で占められている。(なお、時計の塔以外の塔は特記事項がないため省略。)[2]
[編集] 内部
- 衛兵の間
- 約2ha、天井約8.5mほどある大きな部屋。ここでは兵士たちの食堂になっていた。巨大な暖炉も4つ取り付けられており、それぞれ用途が決められていたそうである。余談だが、衛兵の間の格子の向こうはパリ通りがある。[4][2]。
- 警備の間
- 大広間への待合室として1310年に設置、革命法廷にも使われた場所。ここには3本の柱があり、それぞれ違う装飾が施されている。
- パリ通り
- 主にパイユーが集められていた場所。格子と壁で他の部屋と隔離されており、日中も日が当たらない。
また二階は資料館のようになっており、処刑された人の名や受刑者に関する資料も展示されている。[2]。
[編集] 主な囚人
- マリー・アントワネット - 囚人番号280。タンプル塔から移動。2ヵ月半後、コンコルド広場にて処刑。
- マルキ・ド・サド - 1か月過ごした後、別の監獄に移る。
- ルイ・フィリップ2世
[編集] 交通
[編集] 脚注