パリの歴史

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パリの歴史は、2,500年以上に及ぶ。その起源はガリア人の小集落であるが、ヨーロッパ近代国家における多文化都市、かつ最も代表的な世界都市の1つに発展を遂げた。

古代[編集]

パリシイ族の硬貨(メトロポリタン美術館所蔵)

少なくとも紀元前4世紀から、現在のパリの場所には人が居住していた。この時期の出土品によると、セーヌ右岸のベルシー付近に集落があり、シャセ文化 (Chasséen culture) の特徴を有している。現在のパリの場所には、紀元前250年頃にケルト系部族のパリシイ族(Parisii) が集落を形成し、セーヌ川の河畔に漁村が作られていたとされる。以前、当時の集落はシテ島にあったとされていたが、最近の研究では疑問が呈され、近年の出土品によると、ローマ時代以前のパリ地域最大の集落は現在のパリ郊外のナンテールにあった可能性が示されている。

シテ島にあるローマ時代の壁の遺跡(ラ・コロンブ通り)
1898年の発掘に関する表示

パリは繁栄し、河川の航行や交易上の拠点として戦略的な位置を占めた。この地域では、紀元前52年、ウェルキンゲトリクスがケルト人を率い、カエサルのもとのローマ帝国に対し反乱を起こしたが、これを鎮圧され、ローマ人の支配下に入った。紀元前1世紀末、パリのシテ島とセーヌ川左岸のサント・ジュヌヴィエーヴの丘は、ルテティアと呼ばれた新しいローマ人集落の中心となった。

パリ中心部のローマ風呂遺跡(クリュニー浴場

ローマ人の支配下で、パリはローマ化が進んで発展したが、この地方の首都ではなかった。3世紀にサン・ドニが町で最初の司教となり、パリはキリスト教の都市となった。これは必ずしも平和裏に行われたのではなく、250年頃、サン・ドニと2人の同胞は捕えられ、現在のモンマルトルの丘で斬首刑に処せられた。

ルテティアは212年、この地方の先住民パリシイ族(Parisii) の名称をとってパリに改称されたが、3世紀、4世紀は戦乱が多く安定しなかった。異民族の攻撃を受け、防御のための城壁が建設された。357年コンスタンティヌス1世の甥であるユリアヌスがパリの新しい長として着任した。コンスタンティヌス1世はキリスト教をローマ帝国の正式な宗教としたことで有名であるが、ユリアヌスは「背教者」でありキリスト教の優遇を廃した。彼は361年にローマ皇帝となったが、そのわずか2年後に戦死した。

ローマ帝国による北ガリアの支配は、5世紀に崩壊した。451年にこの地方はフン族アッティラ王に侵略され、パリも攻撃される危機に直面した。伝説によると、聖女サン・ジュヌビエーブ(en:Genevieve)とその信者の敬虔な行為によってこの町は救われ、祈りにより、アッティラの部隊はパリから南に去って行ったとされる。サン・ジュヌビエーブは今日でも、パリの守護聖人とされている。

中世初期[編集]

最初のフランク王の頃のパリ

パリがアッティラから逃れたのもつかの間のことで、464年、フランク王国メロヴィング朝のキルデリク1世 (en:Childeric I) により攻撃される。彼の息子のクロヴィス1世は、506年にパリをメロヴィング朝の首都とし、511年の死後はサン・ジュヌビエーブのそばに埋葬された。

この時期までに、パリは木造の建物が密集して並び、ローマ帝国時代の遺構も残る典型的な中世初期の都市となっていた。歴史家のサン・グレゴリウスによると、585年に大火があったとされる。都市はシテ島の範囲を超えて成長し、セーヌの両岸に郊外が形成された。

751年メロヴィング朝カロリング朝に替わり、同年に最初に即位したピピン3世の次のカール大帝は、神聖ローマ帝国の首都をパリからアーヘンに移した。パリは帝国に顧みられなくなり、セーヌ川をさかのぼってくるヴァイキングの襲撃をたびたび受けた。カロリング朝は次第に弱体化し、パリ伯の力が増大した。

885年、パリはデンマークのヴァイキングによる700隻の船と30,000人の兵による大軍に直面し、人々はアンジュー伯のロバートと、その息子であるパリ伯ウード1世に助けを求めた。ウード1世は、ヴァイキングによる10ヶ月間の包囲攻撃に対抗して街を防衛し、西フランク王国シャルル3世と共に、帝国の共同統治者となった。987年、彼の大甥であるユーグ・カペーはフランス(FranceまたはFrancia:語源は「フランク人の土地」)の国王に選ばれた。ユーグ・カペーはパリを首都とし、カペー朝を創始した。


中世と近代初期[編集]

カペー朝[編集]

パリ周辺に建てられたフィリップ2世の壁の遺跡(現在のジャルダン-サン-ポール通り)
1422年から1589年までの発展

当初、フランス国王は、パリとその周辺のイル=ド=フランス地方のみを統治していたが、次第にその領土と力を拡大した。パリは帝国の首都、学術の拠点、そして教会の拠点として重要性を増した。

12世紀にはすでに、パリの特徴が明白に現れていた。1163年ノートルダム大聖堂が作られたシテ島は政治と宗教生活の中心、左岸(セーヌ川の南側)は教会が運営する様々な学校が置かれた学術の中心であり、右岸(セーヌ川の北側)は商業と経済の中心であった。また、ハンス・パリジャン (Hanse parisienne) と呼ばれた商業組合が設立され、急速に力を持つようになった。

1180年からの フィリップ2世の治世下で、多くの建築事業が行われた。新たな市壁が建設され、ルーブル宮殿の建設が始まり、道路の舗装、パリ中心部のレ・アールへの中央市場の建設(この市場はその後、1969年まで存続)がなされた。

彼の孫のルイ9世は、その信仰の深さで知られるが、13世紀にパリを巡礼の拠点とし、シテ島へのサント・シャペル教会堂を建設し、ノートルダム大聖堂サン=ドニ大聖堂を完成させた。このサン=ドニ大聖堂は、中世ゴシック建築の中でも見事なものの1つである。

ヴァロア朝[編集]

1328年カペー朝の直系は断絶し、同年、ヴァロワ家フィリップ6世がフランス王に即位した。しかし、フィリップ4世の孫にあたるイングランド王エドワード3世は、自らこそフランスの王位継承者であると主張し、両国の間で百年戦争が勃発した。その後、ペストの大流行が起こった。

パリの14世紀の歴史は、このような疫病や政争、さらに大衆の反乱が断続した。1357年、パリの商人頭であったエティエンヌ・マルセルは、君主の力を抑え、都市と1347年に初めてパリで開かれた三部会が特権を得られるように、商人の反乱を主導した。当初、君主の側は譲歩したが、1358年、パリは王の軍によって奪還され、エティエンヌ・マルセルとその支持者は殺害された。

この後、シャルル5世は反乱に備えた防御を行い、外敵に備えた新たな市壁が建設され、またパリ市民を統制するためバスティーユ牢獄が作られた。1382年、シャルル6世の時代に、重税に対する反乱が起こったが、すぐに暴力的に鎮圧された。これに伴いパリは、それまで有していた特権を失うことになった。

1407年ブルゴーニュ公ジャン1世によってオルレアン公 ルイ・ド・ヴァロワが暗殺されると、フランスでは市民戦争が勃発した。パリの支配と王位をめぐり、ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立が激化した。ジャン1世の支配は、1409年に反乱を受けて終了したが、1417年ジャン1世はパリを奪還、1419年に暗殺された。

1420年、この混乱に乗じて、イングランドはパリを支配した。1422年にイングランド王ヘンリー5世がパリ市外のヴァンセンヌ城で逝去した。ヴァロア朝シャルル7世は、1429年にパリの奪還を試みるが、ジャンヌ・ダルクの活躍にも関わらず、失敗に終わった。翌年、イングランド王ヘンリー6世がフランス王の称号を受けた。1437年、シャルル7世は、数度の攻撃の失敗を経ながらもパリを奪還した。

パリの奪還に伴い、ヴァロア朝の君主とフランスの貴族は、様々な教会や記念建造物、大邸宅を建設し、その権威を誇示しようとした。しかしその効果も乏しく、後期のヴァロア朝政権はパリに居住せず、ロワール渓谷沿いやパリ周辺の地方部にあるルネサンス様式の城館を好むようになった。この後の1世紀で、パリの人口は3倍以上に増加した。フランソワ1世はヴァロア朝の君主の中でも最も影響力が大きく、ルーブル宮殿を改築し、レオナルド・ダ・ヴィンチベンヴェヌート・チェッリーニの作品を含む壮麗なルネサンス様式の宮殿とした。

カトリックからの厳しい弾圧を受けながらプロテスタントが勃興したことにより、フランス国内の各地域で宗教戦争が勃発していたが、パリもこれに巻き込まれた。パリはカトリックを主流とする都市だったが、プロテスタントの信仰者も増えており、宗教対立によって残忍な抗争が生じた。

その頂点となるのが、1572年8月23日サン・バルテルミの虐殺で、カトリックが推定で3,000人のプロテスタントを殺害した。

シャルル9世を継いだアンリ3世は平和的な解決を模索したが、民衆は反乱し、バリケードの日と呼ばれる1588年5月12日アンリ3世を強制追放した。このときからパリは、16区総代会 (Seize) という組織によって統治されるようになった。16区総代会の委員は、パリの当時の16区それぞれを代表していた。この会は数年前から秘密裏に作られ、主に、職業の発展を阻害する政府の既存構造への不満と、ヴァロア朝の君主とりわけアンリ3世が奪ってきたパリの伝統的特権を守りたいという欲求から、反乱を起こそうとしていた。貴族階級、特にギーズ公は、バリケードを築いたパリの民衆とともに、王を追放する反乱において重要な役割を果たした。

1588年12月23日アンリ3世ギーズ公と弟のルイ・ド・ロレーヌを暗殺させると、パリでのアンリ3世への反発はさらに大きくなった。このときパリの印刷業者は、王とその政策に関する大量の反対ビラを作成した。1589年8月1日アンリ3世ドミニコ会の狂信的な修道士ジャック・クレマンによって暗殺され、ヴァロア朝は終焉を迎えた。

しかしパリは、次のブルボン朝初代の王であるアンリ4世に、カトリック同盟の他都市と同様、1594年まで反対する。1590年3月14日イヴリーの戦いでアンリ4世カトリック同盟に勝利すると、アンリ4世はパリを攻撃した。パリでは貧困が広がり、賃金が固定され、物価が急上昇し、聖職者や慈善団体によってパリの救済への祈りが行われた。こうした活動は、パリでの初期のカトリック改革ということもできよう。1590年8月30日、攻撃はついに終わったが、1590年代を通じてパリの経済状態は困窮し、人々の反乱が生じた。例えば、「パンか平和か ('Pain ou Paix') 」として、安いパンか、市政府とアンリ4世との講和のどちらかを要求した。

総代会 (Seize) の力は次第に弱体化し、カトリック同盟とくにマイエンヌ公、ネムール公がパリで力を持った。1593年に彼らは三部会を招集して、王の継承についての解決策を見いだし、アンリ4世が王位に就くのを防ごうとしたが、他の後継者がいなかったためこの試みはうまくいかなかった。

1594年5月14日アンリ4世は市政府との連座のもとパリに入り、すぐにフランス王に即位した。

ブルボン朝[編集]

1589年から1643年にかけての発展
1607年のパリ鳥瞰図
1750年のパリと郊外

ヴァロア朝後期の王と異なり、アンリ4世はパリを主な居住場所とし、都市での多くの公共事業を行った。例えばルーブル宮殿の拡張、ポンヌフ、ヴォージュ広場、ドーフィン広場、サンルイ病院の建設を行った。アンリ4世は、特にナントの勅令によってプロテスタントの権利を認めた後、両派の宗教的な狂信者からの危険に頻繁にさらされた。少なくとも23回の暗殺の危機を回避した後、1610年5月14日、カトリックの狂信者の犠牲によって殺害された。

次のルイ13世はわずか8歳で王に即位し、母のマリー・ド・メディシス摂政として政治を補佐した。成年の15歳になってから、実際の権力は有能だが冷酷なリシュリューが行使して、大きく王権を拡大した。ルイ13世の治世下にパリは大きく変化し、母のマリー・ド・メディシスリュクサンブール宮殿リシュリューパレ・ロワイヤルの建設や、ソルボンヌ大学の改築を行った。ルイ13世はまた、カトリック改革の表現として、多くのバロック様式の教会を建設した。

1643年ルイ13世は死去し、王位は5歳のルイ14世に継承された。1648年、新しい王とその家族は、フロンドの乱によってパリを追放された。フロンドの乱は、富裕層の王権への反発と重税の2つを原因としており、貴族はリシュリューのもとで失われた政治力を回復するために反乱を起こした。しかし乱は1653年に鎮圧され、その後はルイ14世は安定した治世であった。

フランスの威信は太陽王ルイ14世のもとで最高に達した。財務総監のジャン=バティスト・コルベールはパリでの豪華な建設事業を行い、太陽王にふさわしい「新たなローマ」を作り上げようとした。しかし王自身はパリを好まず、広大なヴェルサイユ宮殿にて執政を行うことを好んだ。このときまでにパリは中世の市域を大きく越えて成長し、17世紀半ばには人口約500,000人、建物約25,000棟であった。

ルイ14世のひ孫であるルイ15世はわずか5歳で国王となり、オルレアン公フィリップが摂政を務めた。フィリップはすぐに汚職と放蕩で悪名高くなり、1720年南海泡沫事件での汚職によって大きく信頼を失った。

18世紀後半、パリは西洋の学術・文化の中心となった。啓蒙時代の中心、「理性の時代」の新しい思想の中心となった。ルイ15世の公妾のポンパドゥール夫人がパリの知識人を支援し、王に新しい建造物を作るよう促すなど、国家によっても積極的に奨励された。

ルイ16世の下で、パリは芸術、科学、哲学の中心としての威信を得るようになった。1783年モンゴルフィエ兄弟は歴史的な熱気球での有人飛行をパリで行った。しかしフランスの国家財政はもはや破綻しており、七年戦争と、アメリカ独立戦争への干渉により、資金が枯渇していた。1784年から1791年までの間に、新たな市壁がパリの周辺に建設され、徴税のための税関も設けられたが、これは非常に不評であった。1788年の不作により、フランス全土での飢餓、疫病と、パリでの食糧反乱が勃発した。

フランス革命[編集]

フランス革命はパリで勃発し、国王は反乱を鎮めるために兵を駐屯させた。1789年7月13日、無名だった弁護士のカミーユ・デムーランは、当時政府で唯一正直であると人々に認知されていたジャック・ネッケル大臣がルイ16世に罷免された際、パレ・ロワイヤル広場で「武器を取れ Aux armes! 」という演説をして、パリ市民の蜂起を促した。

7月14日、暴徒化した人々はアンヴァリッドの武器庫を制圧し、多くの銃を得て、バスティーユ牢獄を襲撃した。バスティーユが陥落するまでの戦いで、87人が殺害された。これはフランス革命で最初の事件で、フランスでは今でも7月14日はバスティーユの日として記憶されている。

パリは革命の混乱に陥り、政治団体が建物を制圧して拠点とした。しかしこれにより食糧供給が悪化し、10月には怒った人々が抗議のためにヴェルサイユまで行進した。パンがない人々に対して、マリー・アントワネットが「ケーキを食べればいいじゃない」と言ったというのは有名だが、これは事実ではない。怒り狂った人々が宮殿を襲撃し、ルイ16世自身が現れてパリに家族と戻ることに同意してから、ようやく静まった。王家はテュイルリー宮殿で囚われの身となり、1791年6月20日に脱出を試みるが、捕らえられてパリに戻った。

ヨーロッパの他国の軍は、自国の王権を脅かすと考えてフランス革命の鎮圧に向かったが、外国の侵攻と占領がなされるとの噂によって、パリでの政治状況は悪化した。ルイ16世は、外国の敵と内通しているとして急進的なジャコバン派によって批判され、1792年8月10日、民衆は王の退位を国民議会に要求した。この要求が退けられると、人々はテュイルリー宮殿を攻撃し、大家を捕らえた。ロベスピエールマラーダントンが主導する急進派が実権を握った。翌月、新体制に反対すると見なされた人々の虐殺が行われ、2,000人以上が殺害された。1792年9月22日、王権は公式に失われ、フランス第一共和政が開始された。パリ侵略を目指したプロイセン軍は、この直後に敗北している。 現在のコンコルド広場ギロチンが設置され、1793年1月21日ルイ16世、同年10月にマリー・アントワネットが処刑された。

革命は徐々に急進化して、内部紛争に移行した。その対象は王俗だけでなく、革命に反対する人々も含まれた。1794年、1,300人以上が6週間のうちに処刑されたが、1794年7月には穏健派が主導権を握り、ついに急進派は基盤を失い、ロベスピエールとその一派は処刑された。

1795年、貴族の反乱が発生したが、若い軍人ナポレオン・ボナパルトの働きにより、反乱するパリの大衆を散乱弾で鎮圧した。この後、ナポレオンはイタリア方面軍の司令官に抜擢され、当時、フランスを脅かしていた諸国軍からの防衛を行った。この際の成功により、エジプト遠征を命じられ、エジプトをほぼ征服した。ナポレオンは名声を得て帰国し、1799年11月に独裁権を握った。翌年、ナポレオンは政権の第一統領となった。

19世紀[編集]

ナポレオンの治世下で、パリは帝国の首都となり、強大な軍事力を有した。1804年5月18日にノートルダム寺院で行った儀式により、ナポレオンは自らを皇帝として即位した。かつての王族と同様、パリを「新しいローマ」として、公共建造物の建築に着手した。例えばマドレーヌ寺院は、ローマ建築の様式を複製したものである。

ナポレオンは当初、イギリス、オーストリア、ロシアとの間に軍事的な成功を収めたが、ロシア遠征の際、1813年のロシアの厳冬で軍を壊滅させてしまった。ロシアとオーストリアはフランスを攻撃し、1814年3月31日、パリはロシアに敗れ、400年ぶりに他国による支配を受けた。

19世紀の革命[編集]

1815年のナポレオンの百日天下の時に、ナポレオンは同年6月18日に運命的な敗北を喫したワーテルローの戦いに向かう途中、パリを通過していた。ナポレオンの後のルイ18世シャルル10世は、ブルボン朝は「(フランス革命から)何も学ばずすべてを忘れた」という言葉のとおり反動的な治世を行い、再びパリでの革命を引き起こした。

君主の権力は、理論上は戴冠憲章によって定められたが、実際はルイ18世シャルル10世とも、教会の支持に頼った専制政治を行った。1830年6月25日シャルル10世は、抑圧的なサン・クラウド法を実施して、報道の自由を廃し、下院議会を解散し、投票権を土地所有貴族のみに限定した。その3日後、貴族と大衆の間の争乱が勃発し、パリに駐屯する全軍隊を巻き込む7月革命となった。シャルル10世は退位を強いられ、ルイ・フィリップに交替した。

この時期、産業革命の波が訪れ、新たに建設された鉄道により地方部から移住してきた労働者によって、パリは急成長を遂げた。人口は90万人を越えヨーロッパではロンドンに次ぐ規模であり、世界でも3番目に大きく、フランスで圧倒的に大きな都市となった(パリに次ぐリヨンマルセイユの人口はそれぞれ115,000人程度であった)。このようなパリの地位の高まりは、新たに建設されたエトワール凱旋門やナポレオンの墓であるオテル・デ・ザンヴァリッドなどの壮麗な記念建造物にも表れている。しかし人口の多くはひどく住環境の悪いスラムに居住しており、1831年コレラの流行では19,000人以上が死亡した。

パリ市民の不満により革命の機が熟し、1848年2月22日、軍隊が市民に発砲したことをきっかけに1848年革命が起きた。ルイ・フィリップは退位し、第二共和政に移行した。全国選挙によって、改革に反対する保守的な政権が戻った。パリの労働者は再び蜂起したが、戦いによって5,000人以上が殺害された。1848年末に新たな選挙が行われた。

選挙の結果、多くの予想に反し、ナポレオン・ボナパルトの甥であるルイ=ナポレオン・ボナパルトが勝利した。75%の票を得る大勝利であったが、ナポレオンは大統領の地位には満足せず、1851年12月2日にクーデターを起こし権力を掌握して、自らを皇帝ナポレオン3世と称し、テュイルリー宮殿に居を構えた。

ジョルジュ・オスマンパリ改造による広く直線的な大通り

ナポレオン3世のもとで、近代のパリが作られた。1853年にナポレオン3世はジョルジュ・オスマンセーヌ県知事に任命し、パリの近代化を行わせた。ジョルジュ・オスマンは抜本的なパリ改造を行い、旧市街の大半を解体し、広く直線的な大通り(ブールバール)や放射状に広がる大通りのネットワークに置き換えた。ブローニュの森ヴァンセンヌの森は、大きな公園に変わった。1869年ジョルジュ・オスマンは不祥事により辞任したが、オスマンの計画は今日のパリの都市構造、景観の多くを形作っている。

パリ攻撃とコミューン[編集]

1870年ナポレオン3世プロシアに宣戦し、敗北して、スダンで捕虜となった。これにより1870年9月4日にナポレオン3世は退位し、同日、第三共和政がパリで発足した。1870年9月19日、プロシア軍はパリを包囲し、攻撃を開始した。パリの主要な建物はフランス軍に接収され、ルーブル宮は軍事工場に、オルレアン駅は気球工場、リヨン駅は大砲工場となった。

パリは1871年1月28日に降服し、フランスは敗戦後、領土割譲や賠償金による懲罰的な扱いとなった。これはパリ市民の多くにとって受け入れがたいもので、アドルフ・ティエールが結んだ講和は市民にとって裏切りに映った。同年3月18日、反乱が起き、政府軍はモンマルトルから退却した。政府はヴェルサイユで再結成したが、3月26日に社会主義共和政のパリ・コミューンがパリで樹立された。数日後、政府軍との間で激しい戦乱が勃発し、政府側はパリを少しずつ奪還していった。戦いは5月28日に終わり、双方で約4,000人〜5,000人の死者を出した。その後、パリ・コミューン側の10,000人が銃殺され、40,000人が逮捕、5,000人が国外追放された。

ベル・エポック期[編集]

第三共和政は、政治的に安定せず混乱を招いたため不人気であったが、ベル・エポックと呼ばれるパリの黄金時代を築いた。新たに立派な記念建造物や公共建築が作られ、特にパリ万国博覧会 (1889年) のために建設されたエッフェル塔はその代表的なものである。パリは芸術の中心としての名声を高め、印象派の芸術家はパリの新しい景観に着想を得た。同時に、売春宿や、有名なムーラン・ルージュなどのキャバレーが多く、「ヨーロッパの罪の都」の評も得た。1900年には、パリにメトロが開業した。

大戦期[編集]

パリの繁栄は、1914年8月2日第一次世界大戦勃発まで続いた。他のフランスの都市と同様、パリは最初は、この戦争を1870年の敗戦の報復の好機として歓迎した。しかし1ヶ月以内に、街は難民であふれ、ドイツ軍はパリからわずか15マイルの距離まで迫っていた。政府は、パリが再びドイツ軍に陥落するとの予想から、ボルドーに逃れていた。

しかしパリは、フランス軍が前線を守る決死の努力とドイツ軍の攻撃の失敗によって救われた。最も有名な「マルヌ川の奇跡」では、多くのパリのタクシーが、兵士を前線に送るために徴発された。ドイツは、パリから75マイルほどのオワーズまで押し戻された。

この境界線はその後の4年間、ほぼ膠着し、パリは時々、敵機からの爆撃やディッケ・ベルタ長距離砲による攻撃を受けた。パリはつかの間の快楽主義的な日々を送ったが、その後、前線からの負傷兵であふれ、1916年には疫病が大流行した。1918年11月11日、パリ北東部のコンピエーニュで調印された停戦条約によって、戦争はついに終わった。

パリは賑やかだが不安定な戦間期に入り、ジャズ歌手ジョセフィン・ベーカーなどの魅力的な移民によって活気づいた。しかし政治的には、特に世界恐慌の際において、混乱の時期であった。極右政党、極左政党の双方が台頭し、1934年2月5日にはファシストと極右政治家が国民議会をクーデターにより攻撃しようとした。15人が死亡し、1,500人が負傷した。これに対し、社会主義者と共産主義者は反ファシズムの人民戦線を形成し、1936年に政権をとったが、わずか1年後に失った。

1939年9月3日第二次世界大戦開戦の際、フランスは政治的に分裂していたことが主因で、備えが十分でなかった。カトリックの右派の一部は議会民主主義、社会主義、共産主義に対して公然と反対し、独裁体制の可能性を歓迎した。1940年5月10日ドイツ軍がフランスに侵攻した際、フランス軍が手厚く防衛していたマジノ線を迂回し中立国のベルギーを経由して、わずか1ヶ月でパリに到達した。7月14日、パリはほぼ無抵抗で降伏した。5月から6月にかけてパリの人口350万人のうち160万人は避難しており、政府はドイツと休戦条約を結んで南方のヴィシーに逃れ、パリとフランス国土の3分の2はドイツ占領下に置かれた。

この後の4年間のパリでは、過酷な占領体制が敷かれた。ドイツの30,000人の行政官と軍が500のホテルを接収し、公共建築や記念碑に鍵十字を掲げた。秘密警察ゲシュタポナチス親衛隊SSは、「分割して統治せよ」の戦略から、パリの人々の間に恐怖と疑惑の念を作り出し、ウェイター、コンシェルジュを雇って密告の情報網を作り、敵対的な行動や態度を報告した場合に報酬を支払った。この機会に、商売敵や元恋人への恨みを晴らそうとした者もいた。日々、大量の匿名の告発がゲシュタポの本部に流れ込み、多くの人々が逮捕された。逮捕者の一部は拷問された後に解放されたが、多くは収容所に送られ、帰ってくることはなかった。多くの人々は、恐怖から逃れるために感情を抑圧されて本当の意見を隠し、ドイツ軍の眼を逃れた。それでも活発な抵抗活動をした人々もいたが、ゲシュタポと国民軍による拷問と死の脅威に常に直面していた。

ドイツの占領軍は屈辱と脅しの広報を行い、パリ市民の意欲を減退させ、強力な抵抗を避けようとした。フランスの国旗や国歌「ラ・マルセイエーズ」は禁止された。プロパガンダのポスターをはがしたりドイツ軍への侮辱、イギリスBBCのラジオの聴取を行えば、逮捕・投獄された。集会や抗議行動は、ドイツ軍のパリ本部によって制限され、夜間外出禁止令が出させた。ドイツ軍はパリの人々に対して丁重に対応するように指導され、買い物の際も大抵きちんと支払いをしていた。独仏会話帳を持ち、親しく会話できるようにしていたほどだった。しかし友人や家族をSSに連れ去られたり、恋人を戦場で失ったパリの人々にはそうした努力も意味をなさなかった。

ユダヤ人の迫害はパリ陥落後48時間以内に開始され、ユダヤ人を警察に登録するよう求められた。1941年5月14日、ヴィシー警察はパリのユダヤ人の強制移送を始めた。パリ郊外のドランシーに収容所が設けられ、アウシュヴィッツ強制収容所に移送するまでの経由地とされた。約70,000人がこの収容所を経由した。1943年7月まで、ナチスを代行してフランス当局が運営し、ユダヤ人の検挙はフランスヴィシー警察が行った。パリのユダヤ人16万人は反ユダヤ主義のドイツ警察にひどく悩まされた。ユダヤ人の事業は差し押さえられて禁止され、自宅からは貴重品を略奪され、レストラン、公園、市場、公衆電話の使用を禁止された。ユダヤ人と書かれた黄色い星を付けることを求められた。

1944年7月、連合軍はノルマンディーに上陸し、2ヶ月後、ドイツ戦線を破ってフランスを進攻した。同年8月19日、抵抗運動をする市民と、パリ警視庁によって、反乱が起きた。パリの街中で戦いが起き、ヒトラーはパリの総司令官だったフォン・コルティッツに、パリを破壊するよう命じた。しかしコルティッツは、パリを破壊した男として名が残ることを恐れて、実行しなかった。フィリップ・ルクレールの第2部隊とアメリカの第4部隊がパリ郊外に達したとき、コルティッツは軍に退却を命じ、自身は降伏し、パリはほとんど無傷で解放された。シャルル・ド・ゴールルクレールは歓喜する市民に迎えられてパリに入り、ド・ゴール1946年までの臨時政府を樹立した。

現代[編集]

市民政治の再建と、1946年第四共和政の成立後、パリは、戦中の物的損害が比較的少なかったこともあり、急速に復興した。しかし、1950年代、60年代には、フランスの他地域同様、フランス領インドシナアルジェリアの国家主義者のゲリラによる争乱に巻き込まれる。アルジェリア戦争の間、独立主義者はパリで爆弾爆破を起こした。緊張が高まり、パリで大戦後最大の虐殺事件が起きた。1961年8月17日、パリ市警察が、警官が独立主義者によって殺害されたという根拠のない情報に基づいて、300人と推定される独立主義者を殺害した。この事件は1990年代まで、ほとんど知られることはなかった。

1962年にアルジェリアは独立し、70万人以上のフランス人、アルジェリア人がフランスとくにパリに移住した。これに応えて、政府は巨大な郊外住宅を建設した。今では悪名高いバンリュー(フランス語で郊外の意)と呼ばれる地帯で、無機質な建築、治安の悪化、人種的緊張で有名になる。

社会不安の増大と、ド・ゴールの権威主義的な政治が、爆発的な結末を迎えた。1968年5月初め、パリの学生と工場労働者による反乱が勃発した。反乱はすぐに収束に向かったものの、ド・ゴールの退陣と、社会民主主義的な政策の長期間にわたる実行につながった。1968年5月の抗議行動の主導者の多くは、国や地方の政治で重要な役割を果たした。

ド・ゴール政権の後、ジョルジュ・ポンピドゥーヴァレリー・ジスカール・デスタンの両政権下で、パリでは大きな開発が行われた。斬新なポンピドゥー・センターや、超近代的な設計のラ・ヴィレット公園が建設された。また、レ・アールの歴史的な中央市場は廃止され、跡地は悪名高い地下ショッピングモールとなった。高さ209メートルのモンパルナスタワーが建設されたが、パリの景観をアメリカ式の超高層ビルが圧倒してしまうことへの懸念が引き起こされ、それ以来、反対運動が強い。

1981年フランソワ・ミッテラン大統領就任により、パリの景観と政治は大きく変化した。社会党のミッテランは、1977年以来のパリ市長であったジャック・シラクとしばしば対立した。ミッテランは多くの大事業を実施した。ルーブル美術館は再開発され、ガラスのピラミッドが作られた。また、市域のすぐ外に新しく未来的なラ・デファンスが建設された。オペラ・バスティーユ、フランス国立図書館は、大幅な支出超過や技術的な問題によって、成功度は低いとされた。

ジャック・シラクは多くの課題に直面したが、特に1995年5月に大統領に選出されてから最悪の問題が現れた。市長時代に親族や支持者に便宜を図ったという政治資金問題が表面化した。

2001年3月、パリでは1871年以来の左派の市長が選出された。ベルトラン・ドラノエは、130年振りの左派の市長というだけでなく、フランスの高い社会的地位にゲイの男性が就いたことも歴史的であった。ベルトラン・ドラノエは、パリ市の行政の汚職と非効率を正すこと、また、増税をせずに犯罪の減少と教育の改善を行うことを公約したが、実際の変化はなく、貧困・移民問題の停滞により長期の抗議行動が起きた。

ベルトラン・ドラノエの政策としては、パリでの自動車交通を削減して、代わりにバス、自転車などの利便性を増すことがあり、バスレーンの整備、貸し自転車システムヴェリブの導入、南部の環状線でのトラムの開業などが行われた。

出典・参考文献[編集]

関連項目[編集]