聖ソフィア大聖堂 (キエフ)

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聖ソフィア大聖堂

座標: 北緯50度27分10秒 東経30度30分52秒 / 北緯50.45278度 東経30.51444度 / 50.45278; 30.51444 聖ソフィア大聖堂ウクライナ語Собор святої Софії[1])はウクライナの首都、キエフの真中心にあるキリスト教大聖堂である。ウクライナ最初の中央政権国家キエフ・ルーシ最大の聖堂として1037年に建立された。現代において、11世紀から18世紀までのウクライナ建築史上最も名立たる教会であるとされる。1990年に「キエフの聖ソフィア大聖堂と関連する修道院群及びキエフ・ペチェールシク大修道院」の一部として世界遺産リストに登録された。

歴史[編集]

ルーシ時代の大聖堂の模型。
マザッパの時代に立てられた大聖堂前の塔。

ルーシ年代記によれば、聖ソフィア大聖堂は1017年ないし1037年にキエフ大公国のヤロスラウ大公によって建立されたのである。また、同じの年代記の伝説によれば、その大聖堂はヤロスラウがペチェニーヒの大軍を破り、大勝利を得た場所に建てられたという。

聖ソフィア大聖堂は、キリスト教と国家の権威を主張するために造られた。その大聖堂は11世紀から13世紀半ばまでに、ルーシの大司教の座、大公たちの即位儀式結婚式葬式の場所、それに、異国使節団の接待の場所として多面的に利用されてきたのである。大聖堂ではルーシ初の図書館と大学が存在し、国家の歴史編纂作業も行われていた。

キエフの聖ソフィア大聖堂は中世ヨーロッパの建築の中で最も大きい建物の一つであった。その広さは54.6メートル、長さは41.7メートル、床から中央ドームまでの高さは28.6メートルほどであった。大聖堂は5つのネーヴ、5つのアプスと13のドームを有していた。大聖堂内では色彩に富んだモザイクフレスコイコンがあった。全体として、大聖堂はビザンツ様式でたてられ、レンガ色の壁と鉛色のドームを持っていた。その名称は、ビザンツ帝国コンスタンティノポリスにあった聖ソフィア大聖堂にちなんで名付けられたといわれている。

1169年にキエフは、現在のロシアの故郷とよばれるウラジーミル・スーズダリ大公国の軍勢によって略奪された。そのときは、聖ソフィア大聖堂は初めて大きな被害を受けた。その後、1240年、キエフはルーシに侵入したモンゴル帝国の大軍によって包囲されて占領され、キエフ・ルーシが亡び、大聖堂は部分的に荒れ果てた。

1569年に聖ソフィア大聖堂はウクライナ・カトリック教会の司教座となり、大聖堂内では本格的に修理が行われた。1633年になると、その大聖堂はウクライナ正教会の手に渡され、イタリアの建築家、オクタヴィーノ・マンチーニが修理作業を指導した。イヴァン・マゼーパによって始められた作業はようやく1740年に終わった。大聖堂は内部の古来の装飾が保存され、外部だけはウクライナ・バロック様式で造りかえられた。現存している聖ソフィア大聖堂は当時の姿のままである。

聖ソフィア大聖堂は、東ヨーロッパの諸国にとっては最も重要なキリスト教の故地のひとつである。

現在、聖ソフィア大聖堂は、ウクライナの複雑な宗教事情を反映して特定の教派が管理しない博物館となっており、ウクライナ正教会ウクライナ東方カトリック教会などが、日時をずらして使用する事となっている。

モザイク[編集]

壁画[編集]

世界遺産[編集]

聖ソフィア大聖堂は、キエフ・ペチェールシク大修道院などとともに「キエフの聖ソフィア大聖堂と関連する修道院群及びキエフ・ペチェールシク大修道院」として、1990年に世界遺産に登録された。

国立歴史的建築保存物[編集]

  • 聖ソフィア大聖堂
  • 鐘楼
  • 府主教の家
  • 教会食堂
  • 共済組合
  • 神学校
  • 教区司法機関 (хлібня)
  • 南門屋敷
  • ザボロフスカハ門
  • 修道士部屋
  • 聖堂宿泊施設
  • ヤロスラフ1世記念図書館

脚注[編集]

  1. ^ [ソボール・スヴャトーイィ・ソフィーイィ];単にСофійський Собор、[ソフィーイスィクィイ・ソボール]とも。ソフィアはキリスト教で神の知恵を意味しており、「叡智」(出典:岩隈直著『新約ギリシヤ語辞典』 432頁山本書店、2006年5月11日 増訂7版 ISBN 4841400303)や「上智」などとも訳される。また、『奉事経』34頁ほか、日本正教会においては「叡智」ではなく「睿智」の漢字が用いられている。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]