カロリング朝ルネサンス
カロリング朝ルネサンス(Carolingian Renaissance, Renaissance carolingienne )とは、フランク王国(カロリング朝)のカール大帝の頃(8世紀~9世紀)に見られる古典復興、文化の隆盛を指す言葉である。
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解説[編集]
ピピン3世(小ピピン)の後、カロリング朝を継いだカール大帝(フランク王 768年 - 814年、西ローマ皇帝 800年 - 814年)は、西ヨーロッパの大部分を支配し、一大帝国を築き上げた。800年にローマ教皇から戴冠を受け、ここに形式的に西ローマ帝国が復興したとされる。
カールはキリスト教に基づく統治を進めるには、聖職者の資質を高めることが必要と考え、各地からアーヘンの宮廷に人材を集めるとともに、教育を振興した。特に古典研究を進め、俗語化していたラテン語が純化され、ラテン語教育が盛んになった。また、各地に教会付属の学校が開かれた。こうした文化の隆盛を「カロリング朝ルネサンス」と呼ぶことがある。イングランドから招かれた神学者のアルクィンがカロリング朝ルネサンスの中心人物として有名である。
カール大帝の後も文化振興は継続され、西フランク王国のシャルル2世(西フランク王840年-877年、西ローマ皇帝875年-877年)までに大成された。ギリシャ語文献のラテン語訳などで活躍したエリウゲナ、歴史家のヒンクマールなどがよく知られている。この頃になると、文化活動は王宮のみでなく各地の修道院に広まっていった。各地の修道院でラテン語文献の筆写が行われ、その過程で文字を統一する必要からカロリング小字体が作成された。だが、その後はノルマン人の侵入にともなう混乱などにより文化活動は停滞期に入った。
カロリング朝において初めて、古代ギリシャ・ローマの文化、キリスト教、ゲルマン民族の精神が融合したと評される。ヨーロッパ統合が進む今日、カロリング朝ルネサンスがヨーロッパ文化の原点という評価もされている。
なお、世界遺産のアーヘン大聖堂は、カール大帝が建てた八角形の宮廷礼拝堂(805年)に、ゴシック様式の聖堂(1414年)を併設したものである。
意義[編集]
カロリング・ルネサンスの意義については、文献についての基本的な2つの要素、書記法と記憶媒体の変質が特に中世文化の成立に大きな意義を持った。カール大帝は従来の大文字によるラテン書記法を改革して、カロリング小字体を新たに定めた。この統一された字体を用いて、さまざまな文献を新たにコデックス[1]に書き直され、著述と筆写が活発になされた。書物の形態の変化とともに、書写材料はパピルスから羊皮紙に変化した。
関連項目[編集]
脚注[編集]