ドレヴリャーネ族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
8-9世紀の東スラブ人

デレヴリャーネ族またはドレヴリャーネ族(古ルーシ語:Деревлѧне、デレヴリャーネ、或いはДревлѧне、ドレヴリャーネ;ウクライナ語Деревляни、デレヴリャーヌィ;ロシア語Древляне、ドレヴリャーネ)は6世紀から10世紀にかけて現代の北ウクライナ・南ベラルーシの辺りに居住していた東スラブ人部族。デレヴリャーという名前はスラブ語деревоデレヴォ、「樹木」の意)から来ており、それは彼らが茂った森に生息していたことに由来する。

概要[編集]

デレヴリャー族については多くの痕跡を残されており、木で出来た地下壕がある農業集落、盛り土がない墓地とクルガン、ヴルチイ(今日のオーヴルチ)やゴロドスクといった要塞化した町、マリン近くにある集落の遺跡(ドレヴリャーネのマール公の居住地の一つと思われる)などがある。デレヴリャー族の首都はイースコロステニ(今日のスコロステニ)で、そこでは今でもいくつかの小型集落跡を見ることができる。紀元1千年ごろまでには、デレヴリャー族は農業及び手工業がすでにかなり発達した状態にあったと思われる。

デレヴリャー族は彼らをキエフ・ルーシの支配下に置こうとする外部からのいかなる企てにも反抗した。いくつかの年代記によれば、クィイ, シチェクとホルィーヴキエフの創設者と思われる)の時代に、デレヴリャー族は自分達の公を持ち、頻繁にポリャーネ族と争っていた。883年キエフ大公オレグはデレヴリャー族に貢物を支払わせた。907年、デレヴリャー族はルーシ側としてルーシ・ビザンツ戦争に参加した。

夫を暗殺したデレヴリャー族へのオリガの復讐。

912年にオレグが死に、デレヴリャー族はそれを境にキエフ・ルーシへの貢物の支払いをやめた。ヴァリャーグの軍閥スヴェネーリドはかわりに自分へとデレヴリャー族に貢物を支払わせた。945年、オレグの後継者であるイーゴリはスヴェネーリドの後を追いデレヴリャー族に貢物を課そうとしたが、 デレヴリャー族はその際に反乱を起こし、イーゴリを暗殺した。イーゴリの妻オリガは夫のためにデレヴリャー族へ徹底した復讐を行い、ドレヴリャーネ族の使節や貴族達を皆殺しにし、首都イースコロステニを焼き払い、ほかを町を平らにした。デレヴリャー族を従属させた後、オリガは彼らの土地をキエフ・ルーシの領地に編入し、ヴルチイをその中心とした。

年代記でデレヴリャー族が最後に言及されたのは1136年で、ヤロポルク2世によってデレヴリャー族の土地が贈り物として聖母マリアの教会 (十分の一税の教会)に送られた。

参考文献[編集]

  • Гайдай Л. Історія України в особах, термінах, назвах і поняттях. (L.ハイダイ『ウクライナの歴史:人物・用語・地名・概念』)- Луцьк: Вежа, 2000. (ウクライナ語)
  • В. Б. Антонович, «Древности Юго-Западного края. Раскопки в стране древлян» («Материалы для археологии России», (V.アヌトノーヴィチ「南西の地方の古代物。ドレヴリャーネ族の国においての発掘」『ロシア考古学の資料』) № 11, СПб., 1893). (ロシア語)

リンク[編集]