ナヒチェヴァン自治共和国
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- この記述は自治区に関するものである。その首都に関する記述は ナヒチェヴァン市 を参照。
| 行政区画 | アゼルバイジャンの自治共和国 |
| 首都 及び 最大都市 | ナヒチェヴァン |
| 公用語 | アゼルバイジャン語 |
| 国会議長 | ヴァジフ・タリボフ |
| 面積 - 総計 - 水面積 |
5,500 km² - |
| 人口 - 総計 |
365,000人 |
| 標準時 - 夏時間 |
UTC+4 UTC+5 |
ナヒチェヴァン自治共和国(ナヒチェヴァンじちきょうわこく、アゼルバイジャン語: Naxçıvan Muxtar Respublikası, トルコ語: Nahcivan Özerk Cumhuriyeti, ロシア語: Нахичеванская Автономная Республика)は、アゼルバイジャンの飛地である。
ナヒチェヴァンは過去に、王国、帝国、イスラム教国、ハン国(汗国)等になったので名前は何度も変更された。
(Nakshijahan、Nuhchikhan(ノアが降りた場所)、Nesheva、Nakhijevan等。)
1991年までは、アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国の一部だった。
5,500 km²のこの地域はアルメニア(221km)、トルコ(9km)、イラン(179km)に接している。 首都はナヒチェヴァン市である。(ナヒチェヴァン州立大学がある)
目次 |
[編集] 歴史
ナヒチェヴァン市は、ナクスアナ(Naksuana)という名前でプトレマイオスの天動説の中で最初に言及された。 [1] (古代ギリシャ語で「甘水の土地」の意。)
ナヒチェヴァンで見つかった最も古いアーティファクトは新石器時代に遡る。
この地域は紀元前8~7世紀の間、マンナイ(Mannae)、ウラルトゥ(Urartu)およびメディア(Media)に属し、紀元前6世紀にはアケメネス朝に属した。そしてその後、大アルメニア王国の一部になった。 5世紀にはサーサーン朝ペルシア、623年にはビザンチン帝国、7世紀半ばにアラブ人に征服され、11世紀に、セルジューク朝の管理下になった。12世紀、セルジューク朝の第10代スルターン・マスウードによって兄弟スライマーン・シャーのアタベクとなったシャムスッディーン・イルデニズ(:en)は、1136年に現在のクラ川流域であるアッラーン地方とイラン高原のアーザルバーイジャーンの両地方をイクターとして分封され、以降ナヒチェヴァン市は四代89年に渡ってアゼルバイジャンのアタベク政権イルデニズ朝(:en)の中心地として、アーザルバーイジャーン地方の州都タブリーズやマラーゲと並び発展した。[2]
モミネ・ハトゥン(イルデニズ朝の当主でシャムスッディーン・イルデニズの長男、大アタベクのジャハーン・パフラヴァーンの妻)の壮大な12世紀の霊廟は、現代のナヒチェヴァンの主な魅力である。イルデニズ朝の宮廷では文芸運動が活発化し、『ライラとマジュヌーン』などペルシア語文芸の巨匠として有名なニザーミー・ギャンジャビーらが同王朝の庇護のもと活躍している。
13~14世紀、この領域はモンゴル帝国によって征服されてイルハン朝の領土となり、さらにティムールによって侵略され、15世紀には、黒羊朝や白羊朝の一部になった。
16世紀はテュルク諸語を使うイスラム王朝のサファヴィー朝に管理された。14~18世紀は、この地理的位置のためにペルシアとオスマン帝国の間の戦争が絶えなかった。1604年、サファヴィー朝のアッバース1世はナヒチェヴァンとその周辺地域に焦土作戦を決心し、民族性または宗教にかかわらずほとんどの地元住民に対して家を捨てペルシアへ移動する事を強要した。[3]
ほとんどの居住者が、もとのジュルファ(略奪され焼かれたアルメニアの町)の出身だったので、エスファハーンの近隣にニュー・ジュルファと命名された町に住み着いた。
ナヒチェヴァン・ハン国は、ペルシアの統治者であったナーディル・シャーの1747年の死後に出現した。 しかし、2つのイラン・ロシア戦争(Russo-Persian Wars)を経て、トルコマンチャーイ条約(Turkmanchai Treaty)後の1828年にロシアの所有となり、ナヒチェヴァン・ハン国は消滅した。 その後エレバン・ハン国の領域と融合され新しいアルメニアの地域の一部となり、1849年にロシア帝国のエレバン行政区と改名された。 ナヒチェヴァンは、ロシア帝国のエレバン行政区のナヒチェヴァン・ウイェスト(郡)となった。
1917年の二月革命後は、ロシア臨時政府(Russian Provisional Government)のザカフカス特別委員会の権力下にあった。 1918年にムサヴァト党は、アゼルバイジャン民主共和国を宣言した。 1918年後期、英国の軍隊によってナヒチェヴァンは占領されたが、 1920年に赤軍に占められた後、7月28日にアゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国は宣言され、その支配下になった。
1991年8月30日、アゼルバイジャン共和国の独立宣言後は、その国の一部としてナヒチェヴァン自治共和国として現在に至る。
[編集] 地方行政区分
ナヒチェヴァンは首都のナヒチェヴァン市と7つのラヨンの計8つの行政区画がある。
[編集] 地理
ナヒチェヴァンは、アルメニアによってアゼルバイジャンの主要地域から離れた飛地にある、半不毛の地域である。
イランとの境界にはアラクス川があり、その反対側の山脈によってアルメニアと境界を構成する。それは非常に乾燥した山地であり、多くの塩埋蔵を含んでいる。
地域の主要産業は、塩、モリブデンや鉛等の採鉱、綿産業、絹糸紡績、果物瓶詰製造業、精肉業、タバコ製造、穀物、菜園の製作、より乾燥した地方では牧羊も行っている。
[編集] 国民
1990年時点で、ナヒチェヴァンの人口は350,000人であると推定された。人口の98%はアゼルバイジャン人である。残る少数民族はロシア人などである。アルメニア人は、ナゴルノ・カラバフ戦争によってこの地域から追放されている。
[編集] 有名な出身者
- ヘイダル・アリエフ
- Hindushah ibn Nakhchivani
- Abdurrakhman en Neshevi
- Ekmouladdin Nakhchivani
- Ajami Nakhchivani
- Ehsan Khan Nakhchivanski
- Kelbali Khan Nakhchivanski
- Ismail Khan Nakhchivanski
- Hussein Khan Nakhchivanski
- Jamshid khan Nakhchivanski
- Abulfaz Elchibey
[編集] 論争
- アルメニア革命連合は、ナヒチェヴァンはアルメニアの所有と主張している。
[編集] 脚注
- ^ Encyclopedia of Brokgauz and Efron, "Nakhichevan" "NAKHICHEVAN", Volume V19, Page 156 of the 1911 Encyclopedia Britannica
- ^ Encyclopedia Iranica, "Atabakan-e Adarbayjan", Saljuq rulers of Azerbaijan, 12th–13th, Luther, K. pp. 890-894.
- ^ Encyclopedia Iranica. Kangarlu.

