アーガー・モハンマド・シャー
アーガー・モハンマド・シャー(Agaa Muhammad Khan、1742年? - 1797年6月16日)は、イランのカージャール朝の初代皇帝(在位:1796年 - 1797年6月16日)。
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[編集] 生涯
[編集] 去勢された少年
父はトルコ系カージャール族の族長として勢力を誇ったムハンマド・ハサンである。生年は1734年頃ともいわれている。
カージャール族は11世紀にイランに進出し、サファヴィー朝の支配下で過ごしたが、王朝崩壊後はアフシャール朝のナーディル・シャーに従った。1747年にナーディル・シャーが部下の反乱で暗殺されると、ムハンマド・ハサンはカスピ海南岸一帯に独立勢力を築いた。
だが、ナーディル・シャーの跡を継いだアーディル・シャーがカージャール族の勢力拡大を憂いて鎮圧に乗り出す。このときにアーガー・モハンマド・シャーは捕らえられ、アーディルの命令で去勢されてしまった。時に数えで14歳(もしくは6歳)の時である。
[編集] 父の死と人質生活
アフシャール朝はその後、アーディル・シャーが処刑されるなどして衰退した。代わって勢力を強めたのがザンド朝のカリム・ハーンとカージャール族のムハンマド・ハサンであった。両者はイランの覇権をめぐって激突し一時はムハンマドが優勢だったが、1757年にシーラーズの戦いで敗退するとムハンマドは急速に衰退し、1759年にカリムによって殺害された。このとき、アーガー・モハンマド・シャーはカリムに捕らえられ、人質としてシーラーズの宮廷に連れてこられた。
アーガー・モハンマド・シャーはカリム・ハーンに大変寵愛され、厚遇を受けた。またカリムの養育を受けて学問に励んだといわれる。
[編集] 覇権争い
1779年にカリムが死ぬと、ザンド朝で後継者争いが起こった。アーガー・モハンマド・シャーはこうなることを察知していたのか、カリム没後の翌日にはシーラーズから逃亡する。そしてカージャール族をまとめ上げてイランの覇権争いに加わった。
1785年までには父時代のカスピ海南岸からエルブルズ山脈の一帯に勢力を確立した。そしてイラン中央部の制圧を目論み、2年後にはイスファハーンとテヘランを奪い、テヘランを都にした。1794年にはファールスとケルマーンを制圧し、ロトフ・アリー・ハーンを捕らえて処刑し、ザンド朝を滅ぼした。
その後、イランの北西部に進出。またイランの北東部にある要衝のマシュハドにも進出する。だが、この頃はロシア帝国による南下政策が脅威になっており、アーガーは1795年にロシアと関係の深かったグルジアに攻め込んでロシア帝国の脅威を排除した。
1796年にはマシュハド一帯を支配していたアフシャール朝のシャー・ルク(ナーディル・シャーの孫)を捕らえて殺し、アフシャール朝をも滅ぼした。そしてイランのほぼ全土を制圧したことを背景にして、ムガン平原で戴冠式を行ない、カージャール朝を創始した。
[編集] 最期
1797年、アーガーはロシア帝国の南下を抑えるため、コーカサスに遠征した。ところがこのとき、アーガーは2人の召使が自分の居室で喧嘩をしているのを目撃する。アーガーは激怒して召使を処刑するように命じたが、部下の取り成しでその召使を許してしまい、さらにその召使にそのまま自分の身の回りの世話まで任せてしまった。
だが、召使はアーガーの気が変わることを恐れた。そして6月16日、召使はアーガーが寝ていたところを刺殺したという。享年64あるいは56。
少年時代に去勢されていたためにアーガーには実子が無かった。このため、弟のフサイン・クリー(フサイン・クリーは1777年に早世)の息子であるファトフ・アリー・シャーが跡を継いだ。
[編集] 人物・逸話
- アーガーは残虐な一面があったと伝わる。いや、恐らくは復讐の怨念であろう。自らを去勢したアフシャール朝と父を殺したザンド朝の最後の君主をいずれも捕らえて拷問にかけた後に処刑している。また、チフリスやケルマーンで市民を虐殺したり大量に奴隷にしたりしている。
- ジョン・マルコムの評によると、アーガーは少年時代に去勢されていたため、身体がすらりとしていたという。また王位を世襲する立場にあったこの人物は、離れてみるとわずか14歳か15歳の若者に見え、顔には髭は無く、皺が多く、年をとった女の様だった。表情は常に陰気で、顔が曇っている時、といってもほとんどの時がそうなのであるが、恐ろしく威厳に満ちていたという。
- ジョン・マルコムがアーガーの宰相に主君の器量を訊ねると、「王は勇敢である。ですが、思い出せる限りで、その勇敢さを示す機会はありませんでした。頭を常に働かせているので、手がするべき仕事が残っていないのです」と答えたという。
- アーガーが1796年に即位するとき、述べたとされる言葉が残っている。
- 「お前達(有力者)の望みに従って、私が即位したなら、お前達は初めのうちは、苦痛と困難を背負うことになるだろう。私がペルシアの最も偉大な王で無い以上は、王の称号を得ても何の喜びも無い。お前達の誓願を苦しみと疲労と共に受けるだけだ」
[編集] 参考文献
- 「ムガル帝国歴代誌」(創元社)
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