ステパナケルト

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ステパナケルト / ハンケンディ
Ստեփանակերտ
Xankəndi
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ステパナケルト
位置
アゼルバイジャンの国土(赤)とナゴルノ・カラバフ(青)。ナゴルノ・カラバフの中心がステパナケルトの位置図
アゼルバイジャンの国土(赤)とナゴルノ・カラバフ(青)。ナゴルノ・カラバフの中心がステパナケルト
座標 : 北緯39度48分55秒 東経46度45分7秒 / 北緯39.81528度 東経46.75194度 / 39.81528; 46.75194
歴史
ヴァララクンとして建都 18世紀後半
ハンケンディに改名 1847年
ステパナケルトに改名 1923年
旧名 ハンケンディ
創設者 カラバフ・ハーン
行政
ナゴルノ・カラバフ共和国の旗 ナゴルノ・カラバフ
 市 ステパナケルト / ハンケンディ
市長 エドゥアルド・アガベキアン
地理
面積  
  市域 25 km2
標高 813 m
人口
人口 (2013年現在)
  市域 53,000[1]
    人口密度   2120人/km2
  備考 推計
その他
等時帯 UTC+4 (UTC+4)
夏時間 UTC+5 (UTC+2)
市外局番 +374 47 (9)

ステパナケルトアルメニア語:Ստեփանակերտ / Stepanakert)、またはハンケンディアゼルバイジャン語:Xankəndi)は、国際的にはアゼルバイジャンの領土とされていながら、事実上、同国から独立しているナゴルノ・カラバフ共和国の首都である[2]。町には5万人程度のアルメニア人が居住しており、他方でアゼルバイジャン人の住民は、ナゴルノ・カラバフ戦争の時に全て町を脱出している。

歴史[編集]

町の起こりとソビエト連邦時代[編集]

ソビエト連邦時代に建てられた集合住宅。ナイリ・ホテルより撮影

中世アルメニアに文献に現れるこの町の最古の呼称はヴァララクンՎարարակն / Vararakn、「速い川」)であり、1847年ハンケンディに改称されるまでこの名称であった[3]。アゼルバイジャンの文献では、この町の起源は18世紀後半にアゼルバイジャン人のカラバフ・ハーンが築いたとしており、「ハンケンディ」(ハーンの村)の呼称はこれに由来するとしている。

現代の町は十月革命の後の1917年に、ハンケンディと呼ばれていたこのアゼルバイジャン領の村に築かれた。1923年バクー出身のアルメニア人共産主義指導者・ステパン・シャウミャンにちなんでステパナケルトと改称され、アゼルバイジャン領のナゴルノ・カラバフ自治州の首都とされた。ソビエト連邦時代、ステパナケルトはこの地域の拠点都市へと発展した。

1926年、ソビエト連邦の当局は著名なアルメニア人の建築家・アレクサンドル・タマニアンによる新しい都市デザインを採用し、その後1930年代1960年代に、タマニアンによる初期の計画に沿う形であわせて2度の拡張計画が認められた[3]1980年代半ばまでステパナケルトは町の経済拠点として機能し、町には19の製造施設があった[3]

独立[編集]

ナゴルノ・カラバフ戦争でアゼルバイジャン領に侵攻した戦車。ステパナケルト郊外に記念碑として残されている。

1985年に始まったソビエト連邦書記長ミハイル・ゴルバチョフは、連邦の分権化を進めた。アルメニア共和国とナゴルノ・カラバフにまたがって暮らしていたアルメニア人は、ゴルバチョフの改革を両地域の統一の好機と捉えていた。1988年2月20日、数万人のアルメニア人がステパナケルトのレーニン広場に集結し、ナゴルノ・カラバフのアルメニアへの編入を求めた。同じ日に、ナゴルノ・カラバフ最高ソビエトは、同地域のアルメニア共和国への編入を採択し、アゼルバイジャン共和国の当局と真っ向から対立した[4]。その後ステパナケルトに住むアルメニア人とアゼルバイジャン人の関係は悪化し、ほぼ全てのアゼルバイジャン人が町を去ることを余儀なくされた。

アゼルバイジャンが1991年にソビエト連邦からの独立を宣言すると、アゼルバイジャン政府は反共主義・アゼルバイジャン化運動に基づいて、ステパナケルトの名前を古称のハンケンディへと戻した。ナゴルノ・カラバフ地域をめぐって戦争が勃発し、その結果として同地域はアルメニアの支配下となり、同地域とアルメニアを結ぶ回廊が確立された。戦争前、ステパナケルトはナゴルノ・カラバフ地域で最大の都市であり、18万9千人の地域住民(うちアルメニア人が75%)のうち、およそ7万人が居住していた。[5]1992年初期には、町の人口は5万人にまで低下した[6]

戦争中、町はアゼルバイジャンの爆撃によって、特に1992年初期にアゼルバイジャンがシュシャ(Shusha)の町を、ステパナケルトに対するGRADミサイルの砲撃拠点としたときは大きな損害を受けた。激しい損傷は絶え間ない爆撃によるものであり、1992年4月のタイム誌は「ステパナケルトで損害を免れた建物はほぼ皆無である。」と報じている[6]。アゼルバイジャン軍は町に対する地上攻撃も何度か挙行したが、その度に失敗に終わっている。1992年5月9日、アルメニア軍のシュシャ占領Capture of Shusha)によって地上爆撃は止んだ。しかし、その後も戦争中はたびたび空襲を受けた。

その後1994年から非公式の停戦状態に入っている。

経済[編集]

戦争前、ステパナケルトの経済の根幹は食料品加工、絹織り、ワイン製造などであった[3]。町の経済は戦争によって大きく害され、その後アルメニア人ディアスポラの投資やその他の経済活動、ナゴルノ・カラバフへの観光などによって復興した。アルメニア人ディアスポラによって複数のホテルが開業しており、アルメニア系オーストラリア人のジャック・アボラキアン(Jack Abolakian)によって2000年に開業したナイリ・ホテルなどがある[7]

宗教的建造物[編集]

ソビエト連邦時代、ステパナケルトの住民の多くはキリスト教徒であったが、町には古くからの聖堂はなかった。信者たちは「文化の家」の中にある聖堂に参列した。町には18世紀に建てられた聖堂があったが、これは使用されていない。2006年9月15日、石造の聖ヤコブ聖堂基金が設立され、ロサンゼルスのヴァチェ・イェプレミアン(Vache Yepremian)が出資者となり、2007年5月9日にシュシャ占領の15周年を祝して聖ヤコブ聖堂が成聖された[8]

ステパナケルトにはアルツァフ国立博物館(Artsakh State Museum)が置かれている。

教育[編集]

ステパナケルトには5つの高等教育機関(アルツァフ国立大学と4つの私立大学)がある。アルツァフ国立大学は1969年にバクー教育研究所の下部に設置された。1973年にステパナケルト教育研究所に改称され、戦争終結後の1995年に現行名称となった。大学には7つの学部があり、4500人が教育を受けている[9]

気候[編集]

ステパナケルトの目抜き通り

気候は季節によって変動する。1月の平均気温は摂氏0.5度まで低下する一方、8月には22.6度に達する。降水量は比較的すくなく、年間でおよそ560mmである[3]

民族構成[編集]

民族別の人口構成は以下の通りである:

  • アルメニア人: 39,840(99.6%)
  • その他: 160人(0.4%)

姉妹都市[編集]

2005年9月25日アメリカ合衆国カリフォルニア州モンテベロはステパナケルトと姉妹都市提携を結んだ。アメリカ合衆国駐在のアゼルバイジャン大使館はこれに抗議し、ハフィズ・パシャイェフ(Hafiz Pashayev)はこの決定をアゼルバイジャンとアルメニアの和平交渉を阻害するものだとする手紙を送った[10]。手紙はカリフォルニア州知事アーノルド・シュワルツェネッガーに送られたが、問題は地方レベルのものであり州の管轄ではないため、手紙はモンテベロ市長ビル・モリナーリ(Bill Molinari)に転送された。モリナーリはパシャイェフに対し、同市は姉妹都市提携に沿って計画を進めるつもりであることを伝えた[10]

ステパナケルトとモンテベロとの関係は、ステパナケルトの経済インフラストラクチャーの復興、文化・教育的交流、貿易の促進、健康管理を主な柱とするものであった。アゼルバイジャンはこれに対して、ナゴルノ・カラバフ政府とアルメニアによるアゼルバイジャン侵攻を支持するものであり、アメリカ合衆国の外交方針と矛盾するとした[11]

著名な出身者[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Results of 2005 census of the Nagorno-Karabakh Republic
  2. ^ Regions and territories: Nagorno-Karabakh. BBC News. May 13, 2009. Retrieved July 23, 2009.
  3. ^ a b c d e (アルメニア語) Mkrtchyan, Shahen. «Ստեփանակերտ» (Stepanakert). Soviet Armenian Encyclopedia. vol. xi. Yerevan, Armenian SSR: Armenian Academy of Sciences, 1985, pp. 124-125.
  4. ^ Kaufman, Stuart (2001). Modern Hatreds: The Symbolic Politics of Ethnic War. New York: Cornell Studies in Security Affairs. p. 61. ISBN 0-8014-8736-6. 
  5. ^ Lobell, Steven E.; Philip Mauceri (2004). Ethnic Conflict and International Politics: Explaining Diffusion and Escalation. New York: Palgrave MacMillan. p. 58. ISBN 1-4039-6356-8. 
  6. ^ a b Carney, James. "Former Soviet Union: Carnage in Karabakh." TIME Magazine. April 13, 1992. Retrieved August 2, 2007.
  7. ^ Hayrumyan, Nairi. "Recovery and Concern: Regional Unrest Reminds of NKR's Years of Progress While Raising Anxiety." AGBU Magazine. Vol. 18, № 2, November 2008, pp. 34-37.
  8. ^ Grigorian, Laura. "ST JAMES CHURCH WAS OPENED IN STEPANAKERT." Armtown. May 10, 2007.
  9. ^ (アルメニア語) Anon. ԱՐՑԱԽԻ ՊԵՏԱԿԱՆ ՀԱՄԱԼՍԱՐԱՆ (Artsakh State University). Armtown. August 26, 2006. Retrieved September, 4, 2009.
  10. ^ a b Wright, Pam. "Montebello's newest Sister City program has come under fire from an ambassador for the Republic of Azerbaijan." Whittier Daily News. November 19, 2005. Retrieved August 2, 2007.
  11. ^ Wire report to the BBC News. "Azeri pressure group appeals to US envoy over twinning reports." BBC News in BBC Monitoring Central Asia. November 24, 2005. Retrieved August 2, 2007.

外部リンク[編集]