アブド・アルカーディル

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アブド・アルカーディル(写真)
投獄されていたアブド・アルカーディルを引見するナポレオン3世
1860年のレバノン紛争で、逃れてきたキリスト教徒を保護するアルカーディルを描いた絵

アブド・アルカーディル1807年 - 1883年、عبدالقادر الجزائري)は、フランスによるアルジェリアの植民地化に抵抗した人物。アルジェリア民族運動の父とも評価される。アブデルカーデルと表記されることもある。

生涯[編集]

1807年、アルジェリアのゲトナ村で生まれた。祖父・父親マフィ=エディンの代からのスーフィー教団の指導者であった。1830年よりフランスによるアルジェリア侵略が始まると、フランスに対するジハードを宣言し、16年間の長期にわたる抵抗を続けた。一時はアルジェリアの三分の二を制圧し、軍事・財政面での近代化も図られた。1847年に降伏すると、その後1852年までフランスのポー城に幽閉された。ルイ・ナポレオン政権のもとで釈放され、一時小アジアのブルサにとどまったあと、シリアダマスクスで暮らした。一部のアルジェリア人は、アブド・アルカーディルの教えを求めて、ダマスクスへと移った。シリアに移った後、アルジェリアの「アラブ王国」化構想を抱いていたナポレオン3世に協力し、1860年にレジオン・ドヌール勲章を授けられた。1883年に死去。

闘争[編集]

1831年5月、アルジェ東方のメゾンカレーの戦い以降その名を知られるようになった。この戦いにおいて、偵察行動中の外人部隊兵27名全員を戦死させる戦果を収めたのである。やがて彼は、アルジェからオランにかけて縦横無尽に行動し、その年の末ごろにはオラン近郊に侵入、フランス軍を数度にわたり打ち破りその実力は確かなものになりつつあった。当時の外人部隊の装備編成はヨーロッパにおいての活動に向いたのもであって、彼に指揮された軽快機敏なスパッヒ(北アフリカ民騎兵)に打ち負かされることしばしばであった。外人部隊司令官ストッフェル大佐は直ちに装備の更新と部隊改編に着手、1833年にはイベリア半島においてゲリラ戦を経験してきたスペイン人部隊を投入し、同じゲリラ戦を行うアルカーディルの軍隊を駆逐しつつあった。

しかし、翌1834年にフランスの政治方針が変わり、アルカーディルの懐柔に向かった。これによりマスカラの族長に認められ西部アルジェリアの全部族の指揮権を得た。これ以降、武器弾薬の密輸に頼っていた彼は独自に生産する計画を立てた。直ちにヨーロッパ人技術者が招かれ、本格的な武器製造が始まる。この状態を放置しているフランスを弱気になっている証拠と考え、1835年アルジェリア全土からフランス勢力を一掃すべく8000の騎兵と4000の近代的な歩兵をもって蜂起した。だが、スパッヒ達との戦いに習熟しつつある外人部隊に行動を制圧された。

1838年、彼は軍隊の再建に取り掛かり、5000の歩兵と1000の騎兵、更に外人部隊から脱走したハンガリー人を指揮官とし、同じく脱走兵を中核とする150名の砲兵隊が組織された。各地でフランス軍を翻弄したが、外人部隊との正面衝突はアルカーディルの軍隊を撃破、次第に圧倒されアルジェリア南部に追い込まれ、遂に1842年モロッコに駆逐された。しかし彼はあきらめず、翌1843年に戻り11月にはいくつかの部族を集め蜂起したが、またもや敗北した。モロッコに逃れた彼は、反仏的な現地のスルタンを利用し、軍隊の再建に着手し、続く3年間は手薄なフランス軍陳地を散発的に襲撃し、脅威を与え続けつつ力を蓄えていった。

1847年12月、モロッコとの国境地帯にて外人部隊第1連隊と交戦、アルカーディルの軍隊は壊滅的な損害を受けた。長年の闘争につかれていた彼に、追い討ちをかける様に各部族の離反が続出。モロッコにて再起を図ろうとするも、現地ムーア人同士の内紛が致命的なものとなり、彼は降伏を決意した。一族郎党を長年の宿敵の外人部隊に虐殺されることを恐れた彼は、アルジェリア南部辺境地帯からサハラ砂漠に入り、そこに駐屯するフランス正規軍に投降し、16年に渡る闘争に幕を閉じたのであった。当初、外人部隊は彼を憎悪の対象とみていたが、飽くなきその闘争心からやがて敬意と畏怖を持たれるようになっていた。なお、パリにある廃兵院には彼の肖像絵が飾られ、その扱いが歴代フランス陸軍将軍と同列であることは、彼の評価の高さを物語っている。

画像[編集]

関連項目[編集]