コンスタンティーヌ

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コンスタンティーヌ
قسنطينة
Constantine
Constantine10.JPG
Sidi M'Cid bridge
位置
アルジェリアにおけるコンスタンティーヌの位置の位置図
アルジェリアにおけるコンスタンティーヌの位置
コンスタンティーヌの位置の位置図
コンスタンティーヌの位置
座標 : 北緯36度21分 東経6度36分 / 北緯36.350度 東経6.600度 / 36.350; 6.600
行政
アルジェリアの旗 アルジェリア
  コンスタンティーヌ県
 郡 コンスタンティーヌ郡
 市 コンスタンティーヌ
地理
面積  
  市域  ?km2
標高 626m
人口
人口 (2007年現在)
  市域 442,862人
その他
等時帯 中央ヨーロッパ時間UTC+1
夏時間 なし
郵便番号 25000-25020
市外局番 +213 31
公式ウェブサイト : http://www.wilaya-constantine.dz/

コンスタンティーヌアラビア語: قسنطينة‎、フランス語: Constantine)はアルジェリア北東部に位置する同国3番目の規模の都市である。アラビア語読みではクサンティーナ地中海の沿岸からおよそ80km南に位置しており、人口は544,700人で、コンスタンティーヌ県の県都である。

概要[編集]

コンスタンティーヌは東部アルジェリアの中心都市である。また、アルジェリアの商業の中心地で、アルジェリアの他都市やチュニジアなどがその主な市場である。

革製品や羊毛、リンネルなどが産業の中心である。また、穀物取引も盛んである。

アルジェリアの国民的英雄、アブド・アル=カダルの墓がある。

歴史[編集]

コンスタンティーヌには元々ヌミディア人が住んでおり、「Sarim Batim」と呼ばれていた。その後フェニキア語で「都市」を意味する「キルタ」(Cirta)と呼ばれるようになった[1]。キルタ(コンスタンティーヌ)はその後紀元前3世紀頃に建国されたヌミディア王国の首都となり、紀元前203年、ギリシアの入植民の助けを借りて、ミキプサ王によって都市が建設された。その後キルタは北アフリカでも有数の大都市となり、1万人以上の騎兵隊を持つまでになった。ミキプサの死後、ヌミディアはミキプサの養子のユグルタによって支配されたが、ユグルタとアドヘルバルがヌミディア王位の継承権をめぐって争いがおき、ユグルタがアドヘルバルを殺害すると、ローマ帝国の元老院はユグルタへの戦争をキルタで開始した。(ユグルタ戦争)結局ユグルタ側は敗れ、その後事実上ローマ帝国にキルタを含むヌミディア王国は支配されるようになった。その後ユリウス・カエサルはキルタに特別な市民権を与え、ローマ帝国の北アフリカの諸州の中でも非常に重要な都市となった。311年、マクセンティウスドミティウス・アレキサンダーの間でアフリカ諸州をめぐって争いが起きた。キルタは戦争によって甚大な被害を受けたため、313年に新しく再建され、皇帝コンスタンティヌス1世の名をとって「コンスタンティナ・キルテンシウム」(Civitas Constantina Cirtensium)という名になった。これが現在の地名コンスタンティーヌの由来である[1]

432年、ヴァンダル族に征服され、ヴァンダル王国の一部となる。その後ヴァンダルを滅ぼした東ローマ帝国の支配下に入るが、7世紀にはアラブ人に征服され、クサンティーナと呼ばれるようになる。これは現在のコンスタンティーヌのアラビア語名である。その後、ピサジェノヴァヴェネツィアなどとの貿易が盛んになり、12世紀には再び繁栄するようになった。

1592年以降はオスマン帝国に支配され、コンスタンティーヌは日本の知事にあたるベイ(ベグ)が統治していた。1770年から1792年に統治したサラ・ベイは、コンスタンティーヌにモスクをはじめとした多くの建造物をたて、コンスタンティーヌを繁栄させた。

1840年のコンスタンティーヌ

第二次世界大戦では、北アフリカの諸戦線の戦略上の拠点として連合軍に使用された。

地理[編集]

海抜640mの台地の深い峡谷にある。峡谷を横断している橋や高架橋は数多く、コンスタンティーヌの景観を特徴付けている。しかし、峡谷はごみや油によって汚染されている場所があり、少なからず景観を損なっている。

文化[編集]

1969年に創立されたコンスタンティーヌ大学がある。また、都市の郊外に大部分の博物館及び歴史的建造物が存在する。

姉妹都市[編集]

コンスタンティーヌ出身の著名人[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b General View, Constantine, Algeria” (1899年). 2013年9月26日閲覧。