エドヴァルド・ムンク

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エドヴァルド・ムンク
Edvard Munch
1933年
生誕 1863年12月12日
ノルウェーの旗 ノルウェー ヘードマルク県 ロイテン
死没 1944年1月23日(80歳)
ノルウェーの旗 ノルウェー オスロ
国籍 ノルウェーの旗 ノルウェー
教育 王立美術工芸学校
著名な実績 油絵版画
代表作 叫び』、『マドンナ
運動・動向 表現主義

エドヴァルド・ムンクEdvard Munch (ノルウェー語: [ˈɛdvɑʈ muŋk] ( 聞く), 1863年12月12日 - 1944年1月23日)は、19世紀20世紀ノルウェー出身の画家。『叫び』の作者として有名で、ノルウェーでは国民的な画家である。現行の1000ノルウェー・クローネの紙幣にも彼の肖像が描かれている。生と死の問題、そして、人間存在の根幹に存在する、孤独、嫉妬、不安などを見つめ、人物画に表現した。表現主義的な作風の画家として知られる。また、数多くの浮名を流したことでも知られ、恋を「昔の人が愛を炎に例えたのは正しい。愛は炎と同じように山ほどの灰を残すだけだからね」と語っている。

生涯[編集]

子供時代[編集]

エドヴァルド・ムンクは、1863年12月12日、ノルウェーのヘードマルク県ロイテン英語版に生まれた。父クリスティアン・ムンク(1817年 - 1889年)は医者であり、1843年から船医、1849年からは陸軍軍医を務めノルウェー各地の駐屯地を転々としていたが、1861年、ラウラ・カトリーネ・ビョルスタと出会い、間もなく結婚した。2人の間には、エドヴァルドの前に、長女ヨハンネ・ソフィーエ(1862年生)が生まれていた[1]。エドヴァルドが生まれた直後の1864年早々、一家はクリスチャニア(現オスロ)に移り住んだ。ここで次男ペーテル・アンドレアース(1865年生)、次女ラウラ・カトリーネ(1867年生)が生まれた。しかし、母ラウラ・カトリーネが結核に冒され、いったん持ちこたえて三女インゲル・マリーエ(1868年生)を産んだものの、1868年12月29日に亡くなった。以後、母の妹カーレン・マリーエがムンク家の世話をすることになった[2]

1875年、一家はクリスチャニア市内のグリューネル・ルッケン地区に引っ越したが、その後エドヴァルドが慢性気管支炎を患い、姉ヨハンネ・ソフィーエが結核に感染し、1877年11月15日に彼女が15歳で亡くなった[3]。こうして身近に「死」を実感したことは後のムンクの芸術に生涯影響を与え続け、特に『病室での死』(1893頃)、『病める子』(1886)といった彼の初期の諸作品では直接のモチーフになっている。自己の個人的体験に基づく「愛」「死」「不安」を芸術表現に昇華し、世紀末の人々の孤独や不安を表現したことがムンクが高く評価されるゆえんである。

エドヴァルドは、通っていた学校を1879年に中退している。この頃から彼は画家になりたいという希望を持っていたが、父の反対に遭い、技師になるため工業学校に通うことになった。しかし、彼はリューマチ熱のため欠席が続き、1880年11月8日、退学した。その日、彼は日記に「僕の運命は今や――まさに画家になることだ」と書いている[4]

それまでも水彩画や鉛筆画で風景や家屋のスケッチをしていたが、彼の日記によれば、1880年5月22日に油絵用の画材一式を買い、5月25日に古アーケル教会を写生している[5]

王立画学校[編集]

エドヴァルドは、父を説得し、同年(1880年)12月16日、王立画学校(現・国立工芸美術産業学校)の夜間コースに入学した。1881年8月にフリーハンド・クラス、1882年夏頃モデル・クラスに編入した。彼はこの学校で健康を取り戻し、教官の彫刻家ユーリウス・ミッデルトゥーン英語版の指導を受けた。また、1882年初め頃、友人6名とともに、国会広場に面して建つ「プルトステン」ビルの屋根裏にアトリエを借り、そこで画家クリスチャン・クローグの指導を受けた[6]

1882年夏、ヘードマルク県に滞在し、同年秋にはクリスチャニア西郊をスケッチして回った。1883年秋、親類の画家フリッツ・タウロウ英語版が主催するモードゥム野外アカデミーに参加して制作や討論を行った。これがきっかけで、「クリスチャニア・ボヘミアン」という、当時の前衛作家・芸術家のグループと交際するようになる[7]。この年、彼は産業及び芸術展覧会に油絵『習作・若い女の頭部』、第2回芸術家秋季展に『ストーブに火をつける少女』を出品し、さらに1884年に芸術家秋季展が官立秋季展と改称されると、そこに『朝(ベッドの端に腰掛ける少女)』を出品した。しかし、特に『朝』は、ノルウェー国内で酷評された[8]

一方、タウロウはエドヴァルドの才能を認めており、彼にパリのサロンを見学する機会を提供したいと、1884年3月、父クリスティアンに支援を申し出ている。エドヴァルドの病気のためパリ行きは延期され、1885年5月に友人の画家エイヨルフ・ソートとともにパリに向かった。そしてサロンとルーヴル美術館に通い詰め、エドゥアール・マネの多くの作品に接して、色彩の表現や、画面の中の一点を強調する技法を学んだ[9]。この年の官立秋季展には『画家カール・イェンセン=イェル像』を出品したが、これも酷評された[10]

1885年4月、ムンク一家はスカウ広場に面した建物に移り、エドヴァルドはここで『春』、『思春期』(第1作)、『病める子』、『その翌朝』を描いた[11]。亡くなった母や姉を重ね合わせた『病める子』は、1年近くかけて描き上げたもので、1886年の官立秋季展に出展したが、これも、保守系日刊紙『モルゲンブラーデ』に「当然必要な下塗りさえしていない」、「近づけば近づくほど、何が何やら分からなくなり、しまいには雑多な色の斑点だけになってしまう」と書かれるなど、激しく攻撃された[12]

1888年秋、オースゴールストラン英語版を訪れ、『郵便船の到着』などの写生的な油絵を描いた[13]1889年初頭、重病を患い、回復途中に『春』を描いた。これはこの時期の最高傑作とされる[14]。同年5月9日から、カール・ヨハン通りの学生協会の小ホールに、『ハンス・イェーゲル像』、『春』など自作110点を並べる個展を開催した。当時のノルウェーでは個展というものが開催されること自体が初めての試みであった[15]

パリ留学(1889年10月-1892年3月)[編集]

1889年10月、1500クローネの政府奨学金が与えられた。それと同時に、パリで1年間デッサンを学ぶことが命じられ、彼はパリに赴いた[16]。ところが、その年の12月に、突然、父クリスティアンが亡くなったことが叔母カーレンから伝えられ、エドヴァルドは衝撃を受けた。その直後、パリ郊外のサン=クルーに移ってデンマークの詩人エマヌエル・ゴルスタインと同居したが、1890年にゴルスタインをモデルにして描いた『サン=クルーの夜』には孤独と不安が表れている[17]。この頃、エドヴァルドは手帳に次のような走り書きを残しており、後の「生命のフリーズ」の構想の端緒となったものとして、「サン=クルー宣言」と呼ばれている[18]

〔……〕私は、そのような作品をこれから数多く制作しなければならぬ。もうこれからは、室内画や、本を読んでいる人物、また編み物をしている女などを描いてはならない。息づき、感じ、苦しみ、愛する、生き生きとした人間を描くのだ。〔……〕

1890年、1891年にも政府奨学金の継続が認められ、1892年3月までパリに滞在することになった。その間に、印象派の画家たち、特にクロード・モネカミーユ・ピサロから大きな影響を受けた。それに加え、エミール・ベルナールエドゥアール・ヴュイヤールフェリックス・ヴァロットンフィンセント・ファン・ゴッホアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックなどの作品から技法を学んだ[19]。『カール・ヨハンの春の日』(1890年)、『ラファイエット街』(1891年)など、印象派の影響を受けた点描風の油絵作品も多い[20]。これに対し、当初デッサンを学ぶために師事したレオン・ボナとは、色彩の使い方について相容れず、対立した[21]

帰国、ベルリン(1892年3月-1896年2月)[編集]

1892年3月、パリ留学からノルウェーに帰国した頃から、「生命のフリーズ」という構想を固め始めた。これは、フリーズの装飾のように、自分の作品をいくつかのテーマによって結び合わせていこうというものである[22]。また、この頃から、彼の画風は大きく変わり、ナビ派のような形態の単純化・平面的色彩に加え、強いデフォルメを行うようになった[23]。『メランコリー/黄色いボート』、『幻想』、『絶望』、大作『妹インゲルの肖像』といった作品を制作していった[24]。同年10月4日からはカール・ヨハン通りで再び個展を開き、この時はそれほどの悪評にはさらされなかった[25]

同年11月5日から、ベルリン芸術家協会の招きにより個展が開かれ、ムンクは『朝』、『接吻』、『不安』、『メランコリー』、『春』、『病める子』、『その翌朝』、『カール・ヨハンの春の日』、『雨のカール・ヨハン街』といった重要な作品を含む55点を送った。「生命のフリーズ」の最初の展示といえるものであったが、これがベルリンの各新聞で激しく攻撃され、わずか1週間で打ち切りとなってしまった[26]。それでも、個展はその後デュッセルドルフケルン、再びベルリンと巡回し、次いで1893年にはコペンハーゲンヴロツワフドレスデンミュンヘン、ベルリンと開催され、賛否両論の中にも愛好者を増やしていった[27]

彼はベルリンに落ち着くことにし、カフェ「黒子豚亭」に集まってスウェーデン人作家ヨハン・アウグスト・ストリンドベリやポーランド人学生スタニスワウ・プシュビシェウスキ英語版など、北欧の芸術家らと親交を深めた[28]。ベルリン市内外の安宿を転々としながら、『吸血鬼』、『マドンナ』シリーズ、『星月夜』、『死んだ母親』、『病室での死』シリーズといった多くの代表作を制作していった。『叫び』や『不安』を制作したのもこの時期である[29]1894年頃にはエッチングリトグラフ木版の技法を身につけ、表現の可能性を広げることになった[30]

1895年ユリウス・マイヤー=グラーフェがベルリンでムンクのエッチング作品集を出版し、これがムンクの最初の画集となった[31]。また、同年10月、クリスチャニアのカール・ヨハン通りのブロムクヴィスト画廊で大規模な作品展が開催され、『マドンナ』、『手』、『灰』、『嫉妬』など、ベルリン時代に制作した「生命のフリーズ」の重要な作品が展示された[32]

他方、家族の中では、医者になっていた弟ペーテル・アンドレアースが1895年12月半ばに亡くなり、また妹ラウラ・カトリーネが1894年から精神分裂病で入院した。こうした不幸は、改めてエドヴァルドに死と生の不安を呼び起こした[33]

パリ(1896年2月-1897年7月)[編集]

1895年6月と9月にそれぞれ短期間パリを訪れた後、1896年2月にベルリンを離れてパリに移り住んだ[34]。そして、同年春のアンデパンダン展に出品したほか、サミュエル・ビング画廊のアール・ヌーヴォー展にも出展した。ここでも否定的反応が多かったが、『ラ・プレス英語版』紙のエドワール・ジェラールは次のような好意的評価を書いている[35]

〔……〕彼の作品の中に、我々はともすれば恐怖に満ちた幻想を見るが、それは、それは、常に苦悩に溢れているものである。ムンクが自己の内面から創造した奇妙な顔つきをした暗い影を持つ人物は、彼の魂の悲しみの子なのであり、決して外面的なモデルとしてコピーされたものではない。我々は、そのことに感銘を受けるのだ。〔……〕

この時期には、版画の技術をますます完成させ、シャルル・ボードレールの詩集『悪の華』のために挿絵を描いたりした[36]。他方、版画のテーマの多くは旧作の油絵に基づくものであり、新たな油絵の創作はされなかった[37]

生命のフリーズの完成[編集]

ムンクがオースゴールストランで暮らしたサマー・ハウス。

1897年7月、オースゴールストランにサマー・ハウスを買い、油絵の制作を再開した[38]。同年9月、カール・ヨハン通りのディオラマ館で個展を開き、油絵85点、リトグラフ30点、木版9点、エッチング25点、亜鉛板5点、デッサンとスケッチ30点という大規模な展示を行った。この頃にはクリスチャニアの新聞でも好意的な批評が現れるようになってきた[39]

1898年、トゥラ・ラーセンという女性と出会い、交際を始めた。1899年4月、トゥラとともに北イタリアからローマに旅をし、ラファエロの作品に感銘を受けた。この旅に触発されて、生涯唯一の宗教画『ゴルゴタ』を描いている[40]

それ以降、イタリア、ドイツ、フランスとオースゴールストランを行き来しながら、『赤いつたかずら』、『メランコリー/ラウラ』、『生命の踊り』といった作品を制作し、「生命のフリーズ」の終結に向かった[41]

しかし、トゥラとの関係は、結婚を迫る彼女をムンクが次第に避けるようになっていった。1902年6月、友人たちの計らいで久しぶりに会う機会が設けられたが、自殺すると言ってピストルを持ち出したトゥラと、ムンクがもみ合ううちに、ピストルが暴発し、ムンクは左手中指の第2関節を撃ち砕くけがを負うという事件が起こった[42]

リンデ・フリーズ、ラインハルト・フリーズ [編集]

1903年1月、ベルリンで個展が行われ、同年4月、パリのアンデパンダン展に何点かの新作を出品し、好評を得た。1904年にはベルリン分離派の正会員となった[43]。同年9月にはコペンハーゲンのデンマーク分離派展で全作品の回顧展示を行い、成功を収めた[44]

この頃、ムンクは、リューベックの眼科医で美術愛好家のマックス・リンデ英語版と交友するようになり、1902年末頃から、リンデの子供部屋に飾るための絵の依頼を受けて制作に取りかかった。1903年にエッチング集『リンデ博士の家庭から』を完成させ、同じ年に次いで油絵『リンデ博士の4人の息子』を制作した。これらの一連の作品は「リンデ・フリーズ」と呼ばれ、1904年末に全作品が完成した。もっとも、リンデは、子供部屋にはふさわしくないと考えたためか、その引取りを拒否したが、2人の交友関係はその後も続いた[45]1906年には、ベルリンの演出家マックス・ラインハルトの依頼で、ヘンリック・イプセンの『幽霊』と『ヘッダ・ガーブレル』の舞台装置の下絵を描いた。1907年には、室内劇場の休憩所の装飾を依頼され、「ラインハルト・フリーズ」を完成させていった[46]。この1907年と翌1908年の夏には避暑先をオースゴールストランからドイツ北部の保養地ヴァーネミュンデに変えつつ、「水浴トリプティーク」と「マラーの死」の油絵シリーズを手がけた[47]

精神病院への入院(1908年-1909年)[編集]

ムンクは、1908年10月、アルコール依存症を治すため、コペンハーゲンのダニエル・ヤーコブソン教授の精神病院に自発的に入院した。同年秋には、ノルウェー王国政府から聖オラヴ騎士章を与えられ、1909年春にはノルウェー国立美術館英語版の館長であり旧友でもあるイェンス・ティース英語版とヤッペ・ニルソンが協力してブロムクヴィスト画廊で油絵100点、版画200点の大ムンク展を開いた[48]。ノルウェー国立美術館が油絵5点を買い上げ、ベルゲンの著名なコレクターであるラスムス・メイエルがムンクの作品を多量に購入したことで、ムンクに対するノルウェーでの評価は決定的になった[49]。1909年には、精神療法も兼ねて、詩文集『アルファとオメガ』を執筆し[50]、健康を取り戻して退院した[51]

晩年(1909年-1944年)[編集]

1909年に退院するとノルウェーに戻り、クラーゲリョーの小さな町に住み始めた。親類から勧められて、クリスチャニア大学講堂壁画コンテストに応募するための下絵を描き始めた。正面の大壁に『太陽』、その向かい側に『人間の山』、左右の横長の壁に『歴史』と『アルマ・マーテル(母校)』を配する構想を提出し、1911年のコンテストでは第1位を得たが、大学当局に拒絶された。しかし、その後、ムンク支持の運動が起き、1914年、大学学部長会がムンク案の採用を決議し、1916年除幕式が行われた[52]

この時期、ムンクは『労働者とその子』(1907年-08年)、『左官屋と機械工』(1908年)、 『木こり』(1913年)、『雪かき人夫(雪の中の労働者)』(1913年-14年)、『家路につく労働者』(1913年-15年)などの200点にのぼる「労働者シリーズ」に取り組んだ。また、『クラーゲリョーの冬』(1912年)のような風景画も制作した[53]

1916年から没年まではオスロ郊外のエーケリーに邸宅を買って定住した[54]。1920年頃からはアトリエでの人体習作に比重を置き始めたほか、風景画『星月夜』(1923年-24年)も制作している。また、フレイア・チョコレート工場の食堂の壁画(1922年)や、1925年にクリスチャニアから改名したオスロの新庁舎大ホール正面壁画(1928年)も手がけた[55]。1930年から数年間は眼病で仕事が進まなかったが、回復し、1933年、聖オラヴ大十字章を授けられた[56]

ドイツでナチスが台頭すると、ムンクの作品は1937年退廃芸術としてドイツ国内の美術館から一斉に外された[57]1940年4月9日、ドイツがノルウェーに侵攻するとノルウェーの元陸軍大臣ヴィドクン・クヴィスリングが内応して親ドイツクヴィスリング政権を立ち上げたが、ムンクは政権の懐柔に応じずアトリエに引きこもった[58]。この時期には、『窓側の自画像』(1940年)、『自画像/深夜2時15分』(1940年-44年)、最後の自画像『自画像/時計とベッドの間』(1940年-44年)などを制作した[59]。1943年12月12日、エーケリーで80歳の誕生日を祝ったが、その1週間後、自宅の近くでレジスタンスによる破壊工作があり、自宅の窓ガラスが爆発で吹き飛ばされた。凍える夜気に彼は気管支炎を起こし、翌1944年1月23日に亡くなった。ナチス・ドイツの降伏で戦争が終結したのは、その後の1945年5月7日であった[60]

作品[編集]

有名な作品が19世紀末の1890年代に集中しており、「世紀末の画家」のイメージがあるが、晩年まで作品があり、没したのは第二次世界大戦中の1944年である。気に入った作品は売らずに手元に残しており、死後は遺言によって、手元に残していた全作品がオスロ市に寄贈された。このため代表作の多くは1963年にオープンしたオスロ市立ムンク美術館に収蔵されている[61]

「生命のフリーズ」と装飾壁画[編集]

おもに1890年代に制作した『叫び』、『接吻』、『吸血鬼』、『マドンナ』、『灰』などの一連の作品を、ムンクは「生命のフリーズ」と称し、連作と位置付けている。「フリーズ」とは、西洋の古典様式建築の柱列の上方にある横長の帯状装飾部分のことで、ここでは「シリーズ」に近い意味で使われている。これらの作品に共通するテーマは「愛」「死」そして愛と死がもたらす「不安」である。

1902年3月、第5回ベルリン分離派展に出品した際、「生命のフリーズ」の一連の作品(22点)を横一列に並べて展示した。その時の展示状況は写真に残されていないが、翌1903年3月、ライプツィヒで開催した展覧会の展示状況は写真が現存している。それによると、展示室の壁の高い位置に白い水平の帯状の区画が設けられ、その区画内に作品が連続して展示されている。ムンクの意図は、これらを個別の作品ではなく、全体として一つの作品として見てほしいということであった。前述のベルリンの展覧会では、作品は「愛の芽生え」「愛の開花と移ろい」「生の不安」「死」という4つのセクションに分けられ、「愛の芽生え」のセクションには『接吻』『マドンナ』、「愛の開花と移ろい」には『吸血鬼』『生命のダンス』、「生の不安」には『不安』『叫び』、「死」には『病室での死』『メタボリズム』などの作品が展示された。1918年、クリスチャニア(オスロ)のブロンクヴィスト画廊での個展で「生命のフリーズ」の諸作品が展示された際、新聞に「生命のフリーズ」という文章を寄せ、その中でこれらの作品を「一連の装飾的な絵画」であると明言している。

1916年に完成したオスロ大学講堂壁画をはじめ、1906年から翌年にかけて制作した、ベルリンの小劇場のための「ラインハルト・フリーズ」、オスロ郊外のフレイア・チョコレート工場の社員食堂のために制作した「フレイア・フリーズ」(1922年完成)など、建築内部装飾のための大作をたびたび手がけている。このことから、「装飾画家」という視点から見直すべきであるということが指摘されている。

『叫び』[編集]

『叫び』

『叫び』は、その遠近法を強調した構図、血のような空の色、フィヨルドの不気味な形、極度にデフォルメされた人物などが印象的な作品でもっともよく知られ、ムンクの代名詞となっている。そのため、構図をまねたパロディが制作されたり、ビニール製の『叫び』人形が売り出されるなど、美術愛好家以外にも広く知られる作品である。

ある日、フィヨルドの近くを歩いている時に「自然をつらぬく、けたたましい、終わりのない叫びを聞いた」と言っており、その経験を絵画化したものである。すなわち、しばしば勘違いされるが、この絵は「橋の上の男が叫んでいる」のではなく「橋の上の男が叫びに耐えかねて耳を押さえている」様子を描いた絵である。前述のとおり、この作品も「生命のフリーズ」の中の一作品であり、単独の絵画としてではなく、連作として鑑賞されることがムンクの本来の意図であった。

アメリカの美術史家であるロバート・ゼンブラムは、パリの人類史博物館に展示されていたペルーのミイラが『叫び』中央の人物のモデルであるという説を唱えた。実際このミイラは丸く落ちくぼんだ目、開いた口、頬に当てられた手、痩せた体など、『叫び』の人物と共通点が多い。

『叫び』は4点制作され、ムンク美術館に2点所蔵されているほか、オスロ国立美術館所蔵と個人所蔵のものが1点ずつあることが知られている。このうちオスロのムンク美術館に所蔵されていた1点が、『マドンナ』とともに2004年8月に盗み出されたが、2点とも2006年8月31日にオスロ市内で発見された。『叫び』は、1994年2月にもオスロ国立美術館所蔵の1点が盗難に遭い、同年5月の犯人逮捕時に発見されている。

2012年5月2日、唯一個人所有(ノルウェーの実業家ペッター・オルセン所蔵)であった1点、唯一背景の1人の人物が横を向いた構図になっている絵画が、ニューヨークで競売にかけられ、1億1990万ドル(約96億円、手数料含)で落札された。絵画の競売落札価格としては史上最高額。落札者は非公表。

代表作[編集]

  • 叫び (1893)(オスロ、ムンク美術館)→2004年8月22日、武装した覆面の2人組により略奪されたが2年後にオスロ市内で発見。
  • マドンナ (1893-94) (ムンク美術館)→同上
  • 思春期 (1894)(オスロ国立美術館
  • 別離(1896)
  • 接吻(1897)

その他[編集]

日本への紹介[編集]

日本に紹介されたのは、1912年(明治45年)4月号の『白樺』に、武者小路実篤が記事を書いたのが初めである[62]

脚注[編集]

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  1. ^ 三木 (1992: 41-42)。
  2. ^ 三木 (1992: 45-49)。
  3. ^ 三木 (1992: 54-56)。
  4. ^ 三木 (1992: 59-60)。
  5. ^ 三木 (1992: 64)。
  6. ^ 三木 (1992: 61-63)。
  7. ^ 三木 (1992: 73-74)。
  8. ^ 三木 (1992: 78-79)。
  9. ^ 三木 (1992: 79-83)。
  10. ^ 三木 (1992: 84)。
  11. ^ 三木 (1992: 84-85)。
  12. ^ 三木 (1992: 85, 90-92)。
  13. ^ 三木 (1992: 94)。
  14. ^ ビショフ (2002: 16)。
  15. ^ 三木 (1992: 94-95)。
  16. ^ 三木 (1992: 96)。
  17. ^ 三木 (1992: 98-103)。
  18. ^ 三木 (1992: 103-04)。
  19. ^ 三木 (1992: 96-97)。
  20. ^ 三木 (1992: 106-07)。
  21. ^ 三木 (1992: 97)。
  22. ^ 三木 (1992: 112-13)。
  23. ^ 三木 (1992: 117)。
  24. ^ 三木 (1992: 119-122)。
  25. ^ 三木 (1992: 124)。
  26. ^ 三木 (1992: 125-29)。
  27. ^ 三木 (1992: 132)。
  28. ^ 三木 (1992: 134-40)。
  29. ^ 三木 (1992: 143-54)。
  30. ^ 三木 (1992: 154-55)。
  31. ^ 三木 (1992: 158)。
  32. ^ 三木 (1992: 168)。
  33. ^ 三木 (1992: 170-72)。
  34. ^ 三木 (1992: 159)。
  35. ^ 三木 (1992: 160)。
  36. ^ 三木 (1992: 158)。
  37. ^ 三木 (1992: 163)。
  38. ^ 三木 (1992: 164)。
  39. ^ 三木 (1992: 175-76)。
  40. ^ 三木 (1992: 176-77)。
  41. ^ 三木 (1992: 177)。
  42. ^ 三木 (1992: 177-85)。
  43. ^ 三木 (1992: 187-88)。
  44. ^ 三木 (1992: 198)。
  45. ^ 三木 (1992: 187-89)。
  46. ^ 三木 (1992: 192-94)。
  47. ^ 三木 (1992: 194-98)。
  48. ^ 三木 (1992: 203)。
  49. ^ 三木 (1992: 176, 203)。
  50. ^ 三木 (1992: 204)。
  51. ^ 三木 (1992: 206)。
  52. ^ 三木 (1992: 208-10)。
  53. ^ 三木 (1992: 210-12)。
  54. ^ 三木 (1992: 231)。
  55. ^ 三木 (1992: 210)。
  56. ^ 三木 (1992: 231)。
  57. ^ 三木 (1992: 244-45)。
  58. ^ 三木 (1992: 251)。
  59. ^ 三木 (1992: 252)。
  60. ^ 三木 (1992: 254-55)。
  61. ^ 三木 (1992: 257)。
  62. ^ 三木 (1992: 232-33)。

参考文献[編集]

  • ウルリヒ・ビショフ 『エドヴァール・ムンク』 タッシェン・ジャパン、2002年
  • 三木宮彦 『ムンクの時代』 東海大学出版会、1992年
  • 「ムンク展」カタログ、国立西洋美術館、兵庫県立美術館、東京新聞編、東京新聞発行、2007

外部リンク[編集]