ハンス・ウルリッヒ・ルーデル
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| ハンス=ウルリッヒ・ルーデル Hans-Ulrich Rudel |
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|---|---|
| 1916年7月2日 -1982年12月18日 | |
ハンス=ウルリッヒ・ルーデル
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| 渾名 | ソ連人民最大の敵・シュトゥーカ大佐 |
| 生誕地 | |
| 死没地 | |
| 所属政体 | |
| 所属組織 | |
| 軍歴 | 1936-1945 |
| 最終階級 | 大佐 |
| 指揮 | 第2急降下爆撃航空団(StG 2) 第2地上攻撃航空団(SG 2) |
| 部隊 | 第121長距離偵察隊 第3急降下爆撃航空団(StG 3) 第2急降下爆撃航空団(StG 2) 第2地上攻撃航空団(SG 2) |
| 戦闘/作戦 | 第二次世界大戦 *東部戦線 |
| 戦功 | 戦車519輌 装甲車・トラック800台以上 火砲150門以上 上陸用舟艇70隻以上 航空機撃墜数 9機 合計2,000の目標[1] |
| 賞罰 | 黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字勲章 |
| 除隊後 | 実業家、ドイツ帝国党党員、ロビイスト |
ハンス=ウルリッヒ・ルーデル(Hans-Ulrich Rudel, 1916年7月2日 – 1982年12月18日)は、第二次世界大戦中のドイツ空軍の軍人。急降下爆撃機Ju 87 シュトゥーカで歴史上で最も多くの戦車を撃破した撃墜王ならぬ「戦車撃破王」である。フォッケウルフ Fw190での地上支援や空戦もかなりの回数があり、エースの条件とされる「敵機を5機以上撃墜」も満たしている為、第二次世界大戦のドイツ空軍を代表するエース・パイロットの一人にも数えられる。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 生い立ち
ルーデルはドイツ東部・ニーダーシュレージエンのコンラーツヴァルダウで生まれた。8歳の頃に母親からもらったパラシュートの玩具で遊んでいる内に空を飛ぶことに興味を持ちパイロットを目指す[2]。1936年12月に士官候補生としてビルトパーク・ウェルターのドイツ空軍学校に入学。戦闘機乗りを目指していたが卒業前に学内で流れた「卒業生は全員爆撃隊に編入されることになる」という噂と、卒業間近に学校を訪れたゲーリングの「われわれは、新編成のシュトゥーカ爆撃隊のため、多くの青年将校を必要としている」という演説を聞かされたことですっかり噂を信じ込んでしまい、観念して急降下爆撃隊に志願する。しかし、実際はそうではなかった(卒業生のほとんどは戦闘機隊に配属された)ため、不本意ながら1938年6月に第168急降下爆撃航空団第I飛行隊(I./Stuka-Geschwader 168、I./StG 168)に配属されることとなった[3]。しかし、学歴や周りと打ち解けない性格などが原因で偵察隊に転属することになり、偵察機のパイロットとしての訓練を受け1939年1月に第121長距離偵察隊(Fernaufklärungsgruppe 121)に転属する。
[編集] 第二次世界大戦
第二次世界大戦には少尉としてプレンツラウの第121軍第2軍地区偵察中隊に所属し、ポーランド戦役に遠距離偵察隊員として従軍した。1939年10月11日に二級鉄十字章を受章。1940年5月、フランス侵攻が開始されるも、このときはウィーンのスタンメルスにある訓練航空部隊に副官として配属されていたため戦闘には参加できずにいた。フランス戦が終わる頃になってようやくカーンの急降下爆撃隊への転属が実現したが、バトル・オブ・ブリテンには急降下爆撃機パイロットとしての転換訓練の最中であったため作戦には参加していない。1941年4月のバルカン侵攻、さらにその後のクレタ島侵攻に参加したときも、上官との折り合いが悪く技量未熟だと決めつけられ、度重なる意見具申にも関わらず戦闘には参加させてもらえなかった。この境遇を自書『急降下爆撃』では「出撃命令でエンジンが唸り出すたびに、拳を耳につめこみたくなる。シュトゥーカ隊は、クレタで歴史を作っている。そう思って、私は口惜しさに男泣きに泣いた。」と述べている。
ルーデルはバルバロッサ作戦において1941年6月23日に急降下爆撃隊員として初の戦闘を経験し、1941年7月18日に一級鉄十字章を受章、急降下爆撃機Ju 87を駆って、終戦まで東部戦線で戦い抜いた(戦績は後述)。
- 「何度も乗機を撃墜され、捕虜になりかけた(当時彼の首にはソ連軍によって賞金が懸けられていた)」
- 「出来る限り休暇を減らして出撃回数を増やすよう上司に嘆願し、その為に書類を偽造した」
- 「撃墜されて満身創痍で基地に帰ったのに、そのまま再出撃しようとしたりした」
といった強烈な逸話が数多く残っている。1945年2月9日、ルーデル5回目の負傷の時にはソ連軍の40mm高射機関砲により右足を失う。しかしルーデルは、治療期間中にソ連軍を攻撃出来ない事の方が悔しいと涙ながらに訴えている。彼は負傷が完治する前に病院を抜け出して部隊に戻り、特注した義足をつけて再び戦線に復帰した。
その戦績が余りにも突出しているので、スターリンが演説の中で「ソ連人民最大の敵」と名指しで攻撃した事さえある。また、全国防軍将兵の中で唯一「黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字勲章」を授与された人物でもある[4]。最終階級は大佐。部下からは「シュトゥーカ大佐」と呼び慕われた。ヒトラーは英雄であるルーデルの戦死を恐れ、再三地上勤務に移るように要請したが、本人は全て断っている[5]。また彼は前述の勲章を授与される際、条件として地上勤務を二度と要請されない事を挙げた。
ドイツの敗戦後は、連合軍に捕虜として投降した後[6]、戦犯として裁かれる事も無く、無事に戦後を迎える。
[編集] 記録
- 1939年 10月11日:二級鉄十字章を受章。
- 1940年 春:第3急降下爆撃航空団第I飛行中隊(I./Stuka-Geschwader 3、I./StG 3)に転属する。
- 1941年 4月:第2急降下爆撃航空団第I飛行中隊(I./Stuka-Geschwader 2、I./StG 2)に転属。
- 1941年 6月23日:Ju87で急降下爆撃隊として初出撃。
- 1941年 7月18日:一級鉄十字章を受章。
- 1941年 8月1日:第2急降下爆撃航空団第III飛行中隊(III./Stuka-Geschwader 2、III./StG 2)に転属。
- 1941年 9月23日:後部機銃手アルフレッド・シャルノブスキー伍長戦死。その後エルヴィン・ヘンシェル兵長が後部機銃手に着任。
- 1941年 12月7日:ドイツ黄金十字章を受章。
- 1941年 12月末:出撃回数が400回を突破。
- 1942年 1月6日:騎士鉄十字章を受章。
- 1942年 春:オーストリア、グラーツの補給中隊に一時転属。このとき牧師として村の教区長を務めていた父の勧めにより、同郷の幼馴染の女性と結婚。翌年には子供が生まれる。
- 1942年 11月:出撃回数が650回を突破。
- 1943年 2月10日:ドイツ空軍パイロットで初めて出撃回数が1000回を突破。
- 1943年 4月1日:大尉に昇進。乗機をJu87Gに変更。
- 1943年 5月10日:柏葉付騎士鉄十字章を受章。
- 1943年 7月19日:第2急降下爆撃航空団第III飛行中隊(III./Stuka-Geschwader 2、III./StG 2)の指揮官に任命される。
- 1943年 9月:戦車撃破数が100輌を突破。
- 1943年 11月25日:柏葉・剣付騎士鉄十字章を受章。同じくして、エルヴィン・ヘンシェルも出撃回数が1000回を突破したことにより騎士鉄十字章を授与される。
- 1944年 3月1日:少佐に昇進。
- 1944年 3月13日:ドニエステル河近郊でLa-5を撃墜。この日交戦した相手はソ連軍エース・パイロットでソ連邦英雄の内の一人である、レフ・リボービチ・シェスタコフ大佐(Lev Shestakov、最終撃墜数23機(共同撃墜数42機))であったとされる。後部機銃手エルンスト・ガーデルマンが撃墜したか、ルーデル機が急旋回した際の余波に煽られ墜落したと考えられている。
- 1944年 3月20日:後部機銃手エルヴィン・ヘンシェル兵長戦死。
- 1944年 3月22日:ロースマン准尉が後部機銃手に着任。
- 1944年 3月26日:この日17輌の戦車を破壊。このとき出撃回数は1800回を超え、戦車撃破数は202輌となる。
- 1944年 3月29日:アドルフ・ヒトラーより柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章を受章。
- 1944年 5月:エルンスト・ガーデルマン曹長(当時)が後部機銃手に着任。
- 1944年 6月1日:出撃回数が2000回を突破。
- 1944年 8月1日:第2地上攻撃航空団(Schlachtgeschwader 2、SG 2)司令に着任。
- 1944年 9月1日:中佐に昇進。スターリンから10万ルーブルの賞金をかけられる。
- 1944年 11月:撃墜され太腿部を負傷、ガーデルマンも肋骨3本を折る重傷を負う。帰還後、ギプスをつけたまま二人で任務に復帰。
- 1944年 12月29日:ヒトラーより黄金柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章を受章。大佐に昇進。
- 1945年 2月:出撃回数が2400回を記録し、戦車撃破数も505輌となる。
- 1945年 2月9日:ソ連軍の40mm対空砲弾が右脚に直撃し切断。以後義足を装着。
- 1945年 3月25日:退院し戦線に復帰。
- 1945年 5月1日:2530回目の最後の出撃。
- 1945年 5月7日:ドイツの無条件降伏を知る。その後部隊を率いてソ連軍の包囲網をJu87で脱出し、バイエルン州キッチンゲンにあるアメリカ陸軍航空軍第405戦闘大隊の基地に着陸して投降。
[編集] 大戦後
戦後はスイス、イタリアに逃れる。ローマで国際赤十字の発行する渡航文書を入手して1948年に南米アルゼンチンに渡った。アルゼンチンの独裁者フアン・ペロンやパラグアイの独裁者アルフレド・ストロエスネルの親友になった[要出典]。両者の間を取りもち、両国の経済開発計画にも関与している。また、草創期のアルゼンチン空軍の士官学校において、ルーデルは教官として幹部候補生に操縦法や低空飛行による航空戦闘技法を教え込んでいる[7]。1955年にパラグアイに移住。1965年、ルーデル49歳のときに28歳年下のドイツ人女性ウルスラ(Ursula. 1944年生誕、当時21歳)と再婚し、のちに息子クリストフ(Christoph)をもうけた。1973年にチリでアウグスト・ピノチェト率いる軍部のクーデターが起きると、チリにあるドイツ人入植地「コロニア・ディグニダード」に移住した。
戦後の人生は実業家(武器販売・コンサルタントやシーメンス社のロビイスト、フォッケウルフ社のアドバイザー)の傍ら、アンデス山脈で登山を嗜み、戦時中に片足を失ったにも関わらずテニスや水泳、スキーの競技会などで好成績を収めたスポーツ愛好家であった。極右政党DRP (en:Deutsche Reichspartei)の幹部でもあり、1953年にはドイツ連邦議会選挙にも出馬している。彼の戦友互助会組織はドイツで獄中にあったルドルフ・ヘスやカール・デーニッツに援助物資を送り、弁護費用を負担した。また秘密裏にヨーゼフ・メンゲレらナチス戦犯の国外逃亡を手助けしている[要出典]。この為か、アイラ・レビンの小説『ブラジルから来た少年』では、メンゲレが所属するネオナチ組織の頭目として名前だけ登場している。アメリカのフェアチャイルド社はA-10サンダーボルトII攻撃機を設計する際、対地攻撃の第一人者であるルーデルを顧問に迎えている。A-10の設計思想の一部はルーデルの助言に基づくものだと言われている。
ルーデルは戦後に回想録『急降下爆撃』Trotzdem を執筆している。戦闘の記録ではあるが、ナチスを礼賛する内容が散見される(ただし、ルーデル自身はナチ党員ではなかった)。Wir Frontsoldaten zur Wiederaufrüstung, Dürer-Verlag, Dolchstoß oder Legende? ではヒトラー暗殺計画を非難し、先の大戦はドイツの生存権の為の戦争だったと擁護している。1976年にはルーデルがドイツ連邦軍の集会に招かれ、その講演の内容が物議を醸し、招いた将軍二人が退役に追い込まれた(ルーデルスキャンダル)。
1982年12月18日に旧西ドイツのローゼンハイムで死去。葬儀の際には西ドイツ空軍機2機が追悼飛行した[8]。また、多くの退役軍人が参列した他、故人が大戦の英雄であり、ナチズムの信奉者と見做されていた為、ネオナチも押しかけ、公然とドイツの国歌の1番や戦時中の軍歌が高歌放唱されたり、ナチス式敬礼が行われるなど騒然となった。
[編集] 戦績
- 出撃回数2530回(内、Fw190FやFw190D-9での出撃も100回以上ある)
- 被撃墜回数30回
- 戦闘による負傷5回
- ソ連軍によってかけられた賞金10万ルーブル(当時のレートで換算すると、およそ5000万~1億円)
戦果:
- 戦車519輌(この数は戦車部隊一個軍団を撃滅したのに相当する)
- 装甲車・トラック800台以上
- 火砲(100mm口径以上)150門以上
- 装甲列車4両
- 戦艦1隻(マラート)(船体前半着底。マラートはこの後も砲台として戦闘に参加している)
- 嚮導駆逐艦1隻
- 駆逐艦1隻
- 上陸用舟艇70隻以上
- 航空機9機(戦闘機2、爆撃機5、その他2。9機のうち2機はIl-2であったとする資料もある)
もちろん、艦艇の撃沈記録については、彼一人の戦果ではなく協同戦果である。
第二次世界大戦史や軍事関係に造詣の深い者にとってすら常識的な水準から外れて高い戦績である為、時間を経た現代ではもはや伝説めいて語られる事もあるが、これらの戦績はあくまで公式記録に基づくものである。
しかも、戦友らの証言によれば、ルーデルは仲間たちの評価を上げる為に、自らの戦果を他人の戦果として申告させていたという。この証言に従えば、実際の戦果は公式記録より多い事になる。また彼は、負傷した際も病院からこっそり抜け出しては出撃し戦列に紛れていた為、更に戦果は多かったものと思われる[9]。 また、右足を切断するというパイロット生命に関わる事態が起こったことで、退院後、部隊に戻ってからは航空団司令として地上勤務に就いていると上層部には思われていた。そのため、部隊を率い4月から終戦までに30輌以上の戦車を確実に破壊したと言われる戦果も、公式戦果として認められているのは3輌のみである。
[編集] 著作
- Trotzdem. Kriegs- und Nachkriegszeit, Schütz, 1950 (mehrere Neuauflagen, darunter ISBN 3877250475)
- 『爆撃行』 高木真太郎訳、日本出版共同株式会社、1953年
- 『急降下爆撃』 高木真太郎訳、朝日ソノラマ、1982年
- 『急降下爆撃』 高木真太郎訳、学習研究社、2002年、ISBN 4059011541
- Wir Frontsoldaten zur Wiederaufrüstung, Dürer-Verlag, 1951
- Dolchstoß oder Legende?, Dürer-Verlag, 1951
[編集] 余談「ルーデルの相棒」
Ju87は複座で後部座席は機銃席となっているが、著書「急降下爆撃」によるとルーデルのJu87でそこに座った機銃手は全員で4人いる。(もちろん他にも何人かいることは間違いないが、ここでは固定メンバーという意味合いで説明する)
[編集] アルフレッド・シャルノブスキー
アルフレッド・シャルノブスキーは1941年9月23日のマラート攻撃時まで座っていた機銃手。ルーデル所属部隊では最年少であったが非常に冷静沈着な性格の持ち主で、彼を怒らせる事は不可能なことだと仲間内で言われるほどであった。ソ連軍の巡洋艦キーロフの攻撃命令が出された時、出撃準備中に中隊長機が故障したため、代わりにルーデルの乗機を譲ることになった。中隊長ステーン大尉はルーデルの恩師でもあり、緊急を要する事態であったので、中隊長機の後部機銃をシャルノブスキーが担当した。しかし攻撃中、二人の乗る機体は方向舵に直撃弾を受け操縦不能となり、キーロフに体当たり攻撃を仕掛けるも墜落、戦死する。最終階級は伍長。
[編集] エルヴィン・ヘンシェル
エルヴィン・ヘンシェル(Erwin Henstchel)はシャルノブスキーの後任の機銃手。最終出撃回数も1200回を超えるなどルーデルとの付き合いは最も長い。後部機銃でソ連軍の戦闘機を撃墜、騎士鉄十字章を受章するなど卓越した腕前でルーデルからの信頼が篤く、現存するヘンシェルとルーデルの写真からもその関係がわかる。1944年3月20日、ヤンポール橋の破壊の際に攻撃を受けて不時着した新米の遼機乗員2人を救出するために着陸し、ルーデル機に載せて離陸しようとしたものの車輪が泥にはまったため機体を捨てて4人で逃走。氷点下に近い水温のドニエスプル川を泳いでの横断中に体力が持たずに沈み、ルーデルの救出も虚しく溺死する。彼はヘンシェルの死に相当ショックを受けた[10]。最終階級は兵長。
[編集] ロースマン
ロースマンはヘンシェルの後任の機銃手。フルネームは不明。機銃手となった当時の階級は准尉。戦場では多数の敵機に囲まれたことで落ち着きを失い、ルーデルに叱責されている。経緯は不明(少なくとも3月末まではルーデルと共に行動していたことは確認できる)だが、後に機銃手から外された。
[編集] エルンスト・ガーデルマン
エルンスト・ガーデルマン(Dr. med. Ernst Gadermann)はロースマンの後任の機銃手。1913年12月25日生まれ、ドイツ・ヴッパータール出身。部隊では軍医として勤務していたが1944年5月にルーデル機に着任。ルーデルが右脚を失う1945年2月9日まで850回の出撃をこなした。専門は循環器で撃墜されて負傷したルーデルに応急処置をすることもあったという(ルーデルが右脚を吹き飛ばされた時には止血を施し、その命を救った)。軍医出身のため「シュトゥーカ・ドクトル」の異名を持つ。最終階級は少佐。二級鉄十字章、一級鉄十字章、ドイツ黄金十字章(1943年10月17日受章)、騎士鉄十字章(1944年8月17日受章)を受章。戦後は医師として活動し1972年のミュンヘンオリンピックでは医学教授陣のチーフを務める。1973年11月26日のハンブルクでの公演中に心臓発作を起こし死去。享年59歳。ソ連軍エース・パイロットであるレフ・シェスタコフ大佐を後部機銃で撃墜した人物として挙げられるが、シェスタコフが行方不明になった1944年3月13日はガーデルマンの着任(1944年5月)の2ヶ月前の出来事であり、その時はまだヘンシェルが着任していた時期である。ただし、ルーデルの伝記にはこの日はガーデルマンが座っていたという記述があり、訳あってヘンシェルと交代していたと思われる[11]。
[編集] 上官
[編集] エルンスト・ステーン
エルンスト=ジークフリート・ステーン(Ernst-Siegfried Steen)はルーデルにとって恩師に当たる人物である。彼はラパロ条約によりソ連で航空訓練を受け1935年の再軍備とともにルフトヴァッフェに入隊した古参パイロットの内の一人であり、フランス戦では中尉として第2急降下爆撃航空団に所属・戦闘に参加。急降下爆撃に非凡な才能を持ち、バトル・オブ・ブリテンでは15,240トンのイギリス艦船を撃沈する戦果を挙げる。1941年8月1日、第2急降下爆撃航空団第III飛行中隊(III./Stuka-Geschwader 2、III./StG 2)指揮官に着任。この日、以前から何かと目にかけてきたルーデルも一緒に第III飛行中隊に転属してくることで、それ以来、戦闘経験の少ない彼に急降下爆撃の秘訣を教え込んでいる。しかし9月23日、彼にとって第300回目の出撃であるこの日、二番機のルーデルが特訓の成果をみせ見事マラートを撃沈するものの、ステーンは同日のキーロフ攻撃でシャルノブスキーと共に戦死する。ステーンは戦死後、東部戦線に従軍したシュトゥーカパイロットとして初の騎士鉄十字章を授与されることとなった(1941年10月17日)。最終階級は大尉。
ステーンは経験豊富な同僚たちに引け目を感じていたルーデルにも分け隔てなく接し、隊でも人徳者として有名であった。ルーデルは常にステーンにつき従い、一緒に森を散歩するなど気心の通じ合った仲だったため、その死にはひどいショックを受けたという。彼はステーンについて「真に偉大な人間である」と述べ、「のちの私の功績は、ステーンに負うところが多い」と尊敬の念を交えて著書に記述している。
[編集] 発言一覧
著書より
- 「休んでなどいられない。すぐに出撃だ」(ルーデルの代名詞的発言。例え上官や医者に止められてもこの一言で出撃)
- 「それにしても勘のにぶい軍用犬だ」(1944年3月20日、撃墜されてソ連軍から逃亡中、ソ連軍の軍用犬に対して)
- 「今、このまま帰国する気持ちにはなれない」(1944年3月22日~24日、満身創痍の状態にて)
- 「すべてが静かに、まるで死んだように見える」(1944年、2日でソ連軍機甲部隊の4分の1を一人で撃滅した後の偵察飛行中にて)
- 「ガーデルマンは肋骨を三本折っていたが、休養などはとっていられない。すぐに出撃だ」(1944年11月、撃墜され自分も重傷を負った状態で帰還したときにて)
- 「受章によって前線に出られなくなるのなら、その勲章を受け取ることはできません」(1944年12月29日、黄金柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章の授章式でアドルフ・ヒトラーに対して)
- 「イワンめ、また新型を造りおったか」(1944年10月末、発見したソ連軍の新型戦車に対して)
- 「よし行こう。すぐに退院だ」(1945年、入院先の軍医に対して)
- 「全機一斉に突っ込み攻撃を仕掛けたからでしょう」(1945年、無断出撃について問い詰めてくる上官に対して)
- 「ただ一つ大事なことは、この現在の危急存亡の時に際して、私が少なくとも数週間飛べないということだ」(1945年2月9日、右脚を失い入院中にて)
- 「昨日と今日で、そう急に変わってたまるものか」(1945年5月7日、航空機でソ連軍包囲網を脱出中に襲ってきたソ連軍戦闘機に対して)
- 「私には別にこれといった秘訣もなかったのだが……」(1945年、敗戦後Ju87Gについて「こんなもので無事でいられるはずがない」と尋問をするアメリカ軍将校に対して)
[編集] 関連項目
- エーリヒ・ハルトマン - 撃墜数352機
- ルーデルスキャンダル
[編集] 脚注
- ^ Stuka Pilot Hans-Ulrich Rudel, Just Gunther, p. 43. ISBN 0-88740-252-6
- ^ この時に一度自宅の屋根からパラシュート代わりにした傘を持って飛び降り、文字通り「急降下」して地面に墜落したことがある。
- ^ ただし、後に実際に操縦してみることでシュトゥーカの優秀性を知ると、急降下爆撃隊にとどまることが幸福以上に感じられるようになったと、作家のピーター・C・スミスに『爆撃王列伝』(ピーター・C・スミス著)の中で語っている。
- ^ これは12使徒になぞらえて12人の軍人に与えられる予定であったが、実際に授与されたのはルーデルだけであった。また、メルダースに授与した勲章より一段高い位にするため、柏葉飾りを金色にしている。
- ^ もっとも、ルーデルとヒトラーの関係は極めて高い信頼関係の上で成り立っていた。事実、ルーデルは『急降下爆撃』の中でヒトラーと会うたびに深い感銘を受けたと何度となく記述している。これは、ヒトラーが前線の将兵には親身に接したこと(ルーデルが黄金宝剣付柏葉騎士鉄十字章を受章した時も、ルーデルの妻と子供・両親や姉妹の安否を気遣う発言をしたり、授章式に参列していた各軍将官らを差し置いて一佐官のルーデルに作戦の見解を求めている)や日ごろ命令ばかり押し付けてくるゲーリングら空軍高官と違い、自分の意見をはっきりと述べれば承諾するヒトラーの態度が好印象を与えていたからだとされる。また、ヒトラー自身もルーデルという英雄の存在を相当に頼りにしており、大戦末期の45年4月14日にヒトラー自ら「全ジェット部隊の指揮を取ってくれ」と頼み込み(ルーデルは「私の経験は急降下爆撃と戦車攻撃くらいのものです」と断っている。19日にも繰り返し要請があったが、第2地上攻撃航空団司令という責任からこれも拒み通している)、自殺をするわずか3日前の27日にもベルリンに召喚する(これは着陸場所に指定された広場がソ連軍に占領されたため実現しなかった)など、死ぬ間際までルーデルを頼みの綱としていた様子であった。
- ^ この時の堂々とした言動は語り草になっており、しばしば戦記や雑誌などで引用されている。 (捕虜となり、すでに多数のドイツ将校が収容されている部屋に連行された時、ルーデルが来たことに気づいた将校達が一斉にナチス式の敬礼を行った。それを見た米軍通訳は「英語が話せるか。それからナチ式敬礼をするのはもうやめてもらいたいとのことだ」とルーデルに要求している。これに対しルーデルは「ここはドイツだ。英語が話せたって、ドイツ語以外はしゃべろうと思わない。どんな敬礼をしようと君らの知ったことではあるまい。われわれはドイツ軍人としての敬礼法を教わり、それをそのままやっているだけの話だ。シュトゥーカ隊は空の戦いで敗れはせぬ。われわれは囚人ではない。ドイツ兵はすべての戦闘に負けたものではなく、ただ物量の重圧に屈したに過ぎない。われわれがここに来たのも、ソ連軍地域にとどまるのを欲しなかったからだ。ま、そんなことはどうでもいい、身体を洗わせてもらいたい。それから何か食べ物が欲しい」と思うがままに言い切り、通訳を辟易させている。)
- ^ この幹部候補生の中に、フォークランド紛争当時の空軍司令官であるバリジオ・ラミドソがおり、低空侵入からのミサイル攻撃などにルーデルの経験が生かされたとされている。
- ^ 西ドイツ軍はドイツ国防軍と関係を決別しており、元国防軍軍人の葬儀などには例え功績のある軍人であっても公に出席できないという立場があった。しかし、それを押しのけて追悼飛行をしたことで西ドイツはもちろんのこと、周辺国でも大問題となった。ルーデルの葬儀で何故追悼飛行をしたのかというマスコミの質問に対して軍関係者は「あれは訓練飛行である。下で国防軍軍人の葬儀をしていたことは知らなかった」と答え、訓練飛行がたまたま下で行われていたルーデルの葬儀に対する追悼飛行のように見えただけあり、そのような意図はなかったとしている[要出典]。
- ^ 「誰が破壊したのかわからない戦車」が多過ぎた事から、ルーデルが病院を抜け出している事が発覚、軍医に怒られた、と自伝の中に著している。
- ^ この事件の後、ルーデルには敵地への着陸を禁ずる異例の命令が出されたが、その後、アクロバットそのものの手法で敵地に不時着した遼機乗員を救出している。
- ^ 英語版Wikipedia「Hans-Ulrich Rudel」のCombat duty during World War IIに伝記から抜粋した文章がある。
- ガーデルマンが撃墜したのか、私が急旋回したときにエンジンから発生した女波で墜落したのか。それは重要なことではない。私が装着しているヘッドフォンに混乱と悲鳴が混じったソ連軍の無線が突然入ってきた。ソ連軍に何が起きたのかを考えたが、それはとても重大なことではないかと思えた。そして、ソ連軍の無線から我々と交戦したのはソ連の英雄で有名な戦闘機パイロットであることがわかった。私は彼に名誉を与えるべきであろう。彼は優秀なパイロットであった。
[編集] 外部リンク
- Achtung Panzer! - Hans-Ulrich Rudel!
- Stuka-Oberst Hans-Ulrich Rudel-der »Adler der Ostfront«:ルーデルとウルスラ、息子クリストフの写真などがある。
- Hitler's Stuka Squadrons
- アンサイクロペディアのルーデルの項目
- ルーデルのあまりに常識はずれの戦果・行動に「嘘すらつけない」内容となっている。
- ヘンシェルが写っている写真(上から二段目の右側にある写真の右側に写っている人物がヘンシェル。左側の人物はルーデル)
- ガーデルマンが写っている写真

