ヴィルヘルム・フォン・プロイセン (1882-1951)

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ヴィルヘルム・フォン・プロイセン
Kronprinz.jpg
ヴィルヘルム・フォン・プロイセン
全名 Friedrich Wilhelm Victor August Ernst(フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アウグスト・エルンスト)
身位 ドイツ帝国皇太子
出生 1882年5月6日
ドイツの旗 ドイツ帝国ポツダム
死去 1951年7月20日(満69歳没)
西ドイツの旗 西ドイツヘッヒンゲン
配偶者 ツェツィーリエ・フォン・メクレンブルク=シュヴェリーン
子女 ヴィルヘルム・フォン・プロイセン (1906-1940)
父親 ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)
母親 アウグステ・ヴィクトリア・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=アウグステンブルク
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ヒトラーとヴィルヘルム

ヴィルヘルム・フォン・プロイセン(Wilhelm von Preußen, 1882年5月6日 - 1951年7月20日)は、プロイセン王国の王族・軍人。全名はフリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アウグスト・エルンストFriedrich Wilhelm Victor August Ernst)。ドイツ皇帝プロイセン王ヴィルヘルム2世の長男で、最後のドイツ皇太子・プロイセン王太子。

ヴィルヘルムは1882年5月6日、ヴィルヘルム2世(当時皇長孫)とその妃であったシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公フリードリヒ8世の娘アウグステ・ヴィクトリア(1858年 - 1921年)の間に第一子としてポツダム大理石宮殿で生まれた。

第一次世界大戦ではヴィルヘルムは第5軍の司令官に任じられ、西部戦線で戦った。1918年ドイツ革命が発生すると父ヴィルヘルム2世とともにオランダに亡命し、退位宣言に署名した。1923年に政治活動をしないことを条件に帰国が認められ、元皇太子はドイツへ戻った。しかし政治への野望もいくつか持ち、1932年の大統領選挙には右翼的立場でヒンデンブルク大統領に反対する候補として出馬を考えたというが、オランダに亡命中の父から反対があり、中止したという。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の党首ヒトラーをしばらく支持し、ナチ党とゆるやかに関係を保っていた。ナチ党政権誕生後もしばしば党の宣伝に使用された。

しかし長いナイフの夜事件で彼の友人であったクルト・フォン・シュライヒャーが殺害され、以降政界から引退した。第二次世界大戦中は一市民としてすごした。1951年7月20日、ヴィルヘルムは心臓発作のためヘッヒンゲンバーデン=ヴュルテンベルク州テュービンゲン県)で死去した。

子女[編集]

ヴィルヘルムは1905年6月5日メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ3世の娘ツェツィーリエ(1886年 - 1954年)と結婚した。彼女との間には以下の四男二女をもうけた。


先代:
ヴィルヘルム2世
プロイセン王家家長
1941年 - 1951年
次代:
ルイ・フェルディナント