スーパーマリン スピットファイア

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スーパーマリン スピットファイア

スピットファイア Mk XVI

スピットファイア Mk XVI

スーパーマリン スピットファイア (Supermarine Spitfire) は、イギリススーパーマリン製単発レシプロ単座戦闘機である。第二次世界大戦においてイギリス空軍を始めとする連合軍で使用された。バトル・オブ・ブリテンの際、イギリスをドイツ空軍の手より救った救国戦闘機として有名である。

楕円形の特徴的な主翼を持ち、翼断面は高速を発揮するために薄かった。主任設計技師であるR.J.ミッチェル1937年死去)とジョセフ・スミスを始めとする彼の後継者たちによって設計されたスピットファイアは、パイロットたちからの支持は厚く、第二次世界大戦のさまざまな状況で活躍した。基本設計が優秀であったことと、戦況に応じたエンジンの出力向上(しかも排気量はグリフォン・エンジンまで変化していない)によって長期間にわたり活躍し、23,000機あまりが生産され、1950年代まで使用された。

開発経緯[編集]

レジナルド・ジョゼフ・ミッチェル

スーパーマリン社の主任設計技師であったR.J.ミッチェルは、空気抵抗を減らすために非常に流麗な流線形の機体をもった水上機を製作し、ネイピア ライオンロールス・ロイス社製の強力なエンジンを搭載して、「シュナイダー・トロフィー・レース」で3度の優勝を成し遂げている。こうした先進的な設計は、戦闘機にも応用できる部分が大きかった。1931年、ミッチェルはイギリス空軍仕様F7/30に合致する404 km/h以上の速力を持つ戦闘機の開発を始めた。

1934年2月に初飛行した最初の試作機は、風防がなく、空気抵抗の大きい固定脚をもつガルウイングの単葉機で、エンジンにはロールス・ロイス ゴスホークを搭載していた[1]。このタイプ 224は、他社が設計したものと同じく、空軍の期待に添うものではなかった。ミッチェルは、レース機の経験を生かした設計に取り組み、より洗練された機体の設計を進めた。新しく設計されたタイプ 300には、主翼の小型化、主脚引き込み機構を搭載し、1934年7月にイギリス航空省へ提出されたが、採用には至らなかった[2]。このタイプ 300に改良を進め、風防、酸素マスク、そしてより強力なロールス・ロイス社製のマーリンエンジンが搭載された。1934年11月には、スーパーマリンの親会社であるヴィッカース・アームストロングの支援を受け、タイプ 300の細かな設計が進められた[3]

スピットファイア Mk IIa
楕円翼形と主脚引き込みが見られる

1935年1月3日に航空省は正式に契約し、必要な装備の要求を掲載した仕様F10/35を発行した。武装は、ヴィッカース7.7 mm機関銃4丁であったが、1935年4月に航空省のラルフ・ソアビーによる推薦で、ブローニング7.7 mm機関銃8丁へ改められた[4][5]。1936年3月5日に試作機(K5054)がイーストリー・エアロドローム(現サウサンプトン空港)において、初飛行を行った。その後、ジェフリー・クイールとジョージ・ピカリングらによる試験飛行で528 km/hを記録し、より鋭利なプロペラでは、557 km/hに達した[6]1936年6月3日には、航空省から310機のスピットファイアが発注された。

楕円翼の採用は生産性の悪化を招いたものの、捻り下げや戦闘機としては極めて低い翼厚比と併せて、大迎え角での誘導抵抗の減少、翼端失速の防止、翼内武装の充実、高速といった長所をスピットファイアに与えた。のちのスピットファイアの翼は、これよりももっと薄く、まったく異なった構造になっている。

設計[編集]

ミッチェルの狙いは、比較的容易な操縦性を保ちつつ、マーリンエンジンの力を生かして高性能な爆撃機を要撃できるバランスのとれた戦闘機であった[7]。当時、戦闘機は自軍や母国の防空に専念すると考えられ、イギリス上空に進出してくることを想定していなかったことから、要撃には爆撃機を待ち受けるために素早く上昇することが必要だった。

楕円翼形の主翼[編集]

上昇力だけでは戦闘機と渡り合うことはできないという問題を解消するため、1934年に設計陣は楕円翼形を採用した。抗力を生むことを避けるため、主翼の厚みは薄くする必要があったが、巧妙な設計によって薄い翼でも機関銃とその弾薬、そして、格納式の引き込み脚の搭載を可能とした。

この楕円翼形の採用について、ミッチェルは1932年に初飛行したハインケル He 70の翼形をコピーしたと非難されることがあった。設計陣の航空力学担当であったシェンストーンは、戦後、これを否定した。

我々スーパーマリンが、楕円翼形をドイツのハインケル He 70 輸送機から盗用したと示唆された。これは、そうではない。我々の翼形は、ハインケルのそれよりも非常に細く、異なる翼型を持っていた。いずれにせよ、異なる目的のために設計された翼形をそのままコピーすれば、駄作機にしかならない[8]

Beverley Shenstone、Spitfire: A Documentary History

翼付け根で13%、翼端で6%の翼厚・翼弦比率の実現に向いていたため、翼型は、NACA 2200シリーズを使用した[7]。横方向の安定性に対応するため、上反角は6度とされた。

翼端のパーツのみを交換することで、飛行特性の変更が可能。主に高々度用に延長翼、低高度用に切断翼が使用されたが、型式のHF、LF等とは直接関係がない(これらの型式は搭載されたエンジン(スーパーチャージャーの設定高度)による。

  • 標準翼
  • 延長翼:高々度飛行のために翼面積を増やすために主としてMk. VIIで採用された。
  • 切断翼:低高度でのロールレートと速度増加が目的。戦争後期に多く使用された。

主翼の特徴は、革新的な翼桁を延ばした設計であった。5本の角管が翼幅に従って細くなり、翼端に近づくにつれ角管を減らした。そのうちの2本は結合され、軽量でありながら強固な主桁となった[9]。引き込み脚構造は、主桁の内部に軸を設け、真横ではなく、やや後ろ方向へ車輪を収容した。これが着陸時に主桁にかかる曲げ荷重を軽減することから、車輪間の幅の狭さは、許容範囲だと考えられた[9]

武装[編集]

E ウイングのスピットファイア

1934年に.303ブリティッシュ弾を使用する標準口径ライフル機関銃に選定されたブローニング機関銃だが、供給量が不足していたため、初期のスピットファイアには4丁のみ搭載された[10]。この機関銃は地上や低高度での動作に問題が見られない一方で、高高度で凍結する傾向があり、特に翼端に近い機関銃ほど、その傾向が強かった。原因は、弾薬に使用されるコルダイトの過熱を防ぐため、機銃の構造をイギリス向けにオープンボルトへ変更したことであった[11]。根本的な解決策が見出されたのは1938年10月で、翼にラジエーターを据えてダクトを通じて機関銃に暖気を送った。しかし、8丁のブローニングを搭載していても大型機を撃墜するには威力不足であった。事実、戦闘報告において、1機を撃墜するのに平均で4,500発を撃っていたことが示された。1938年11月の装甲標的と非装甲標的に対する射撃試験により、本機には口径20 mmの火器が必要であると結論付けられた[12]

1940年に開発されたスピットファイア Mk. Vは、武装によって主翼が異なった。A ウイングは最初期の翼と同等で、ブローニング機関銃を左右にそれぞれ4挺(弾数各300発)ずつ搭載可能であった。B ウイングは左右にそれぞれイスパノ 20 mm 機関砲を1門(弾数各60発)ずつ、ブローニング機関銃を2挺(弾数各300発)ずつ搭載していた。Aウイングとの外見上の違いは20 mm 機関砲を搭載するためのバルジと翼から前方につきだした銃身保護用フェアリングである。E ウイングは両翼それぞれにイスパノ 20 mm 機関砲を1門(弾数各120発)ずつ、ブローニング M2 12.7 mm (.50) 機関銃を1挺(弾数各250発)ずつ搭載していた。B、C ウイングとの外見上の違いは20 mm 機関砲のフェアリングが外側にあること(外側が20 mm 機関砲の銃口、内側が12.7 mm 機関銃の銃口)である。C ウイングはユニバーサル・ウイングともいい、次の3タイプの武装が可能であった[13]。a タイプでは、両翼それぞれにブローニング機関銃を4挺(弾数各300発)ずつ搭載した。b タイプでは、両翼それぞれにイスパノ20 mm 機関砲を1門(弾数各120発)ずつ、ブローニング機関銃を2挺(弾数各300発)ずつ搭載した。20 mm 砲弾数は、B ウイングのドラム式からベルト給弾に改められたため倍に増えている。Bウイングとの外見上の違いは、20 mm 機関砲用フェアリングの横に小さなフェアリングが付いている点である。c タイプでは、両翼それぞれにイスパノ 20 mm 機関砲を2門(弾数各120発)ずつ搭載した。

照準器に当初、GM-2が使用されていたが、後にジャイロ・ガンサイトのMk. IIが搭載された。

対地攻撃には、Mk. III 爆弾架を使用することで250ポンド爆弾を翼下に、500ポンド爆弾を胴体下に搭載可能であった。ロケット弾は、翼下に3.5インチHEロケット弾を搭載可能。

燃料タンク[編集]

スピットファイアの短所のひとつである短い航続距離を延長するために、内装タンクの増加に加えて様々なタイプの外装式タンクが採用された。内装タンクは、胴体後部へのタンク追加、前部タンクの増量、翼前縁へのタンク追加がなされた。

コンフォーマルタンクを先取りしたとも言える、スリッパー式ドロップ・タンクは30英ガロン、45英ガロンの容量のものが作られた。さらにフェリー用の90英ガロンの容量を持つタンク、170英ガロンの大型スリッパー・タンクまで作られた。スリッパー型ドロップ・タンクの他、一般的な魚雷型ドロップ・タンクも使用された。

標準では、100オクタン燃料(緑色)を使用していたが、一部高速が要求される機種では、バスタとして150オクタン燃料が使用された。

派生型[編集]

マーリン スピットファイア[編集]

Mk. I / Ia(タイプ 300)
スピットファイア Mk.Ia
将来の改良に備えて広いスペースが確保されているこの新型戦闘機は、イギリス空軍においてホーカー ハリケーンに代わる最強の戦闘機となるものであった。ヴィッカーズ社は、この戦闘機の長期にわたる生産を想定したため、既にあったウールストンの生産ラインに加えて、新たにスピットファイアを製造するための巨大な工場をキャッスル・ブロンウィッチに建設した。1938年、予想どおり空軍はスピットファイア Mk. I(マークワン)を1,000機追加発注した。さらに1939年には200機、その数ヶ月後には450機を発注し、Mk. Iの発注は全部で2,160機に達した。
1937年の後半からウールストン工場で生産されたMk. Iの空軍への引渡しが始まり、1938年の8月から作戦で使用されるようになった。Mk. Iの動力は、1,030馬力のマーリンMk. IIエンジンと2翅木製固定ピッチプロペラだった。このタイプは77機製造された。プロペラはその後、ブレード3枚の金属製選択ピッチプロペラ(離陸時・戦闘時の低ピッチと、巡航時の高ピッチが選べた)に換えられ、性能は格段に向上した。プロペラを更新したモデルをMk. Iaと呼ぶ。またこれと前後して可動風防を上や左右に膨らませたもの(マルコムキャノピーと呼ばれる)が用いられるようになった。


Mk. Ib(タイプ 300)
1939年の第二次世界大戦開戦時においてイギリス軍にスピットファイアは少数しか配備されておらず、ヨーロッパ本土(フランス)では、ヒュー・ダウディング司令官の意向もあり、ハリケーンでドイツと戦うしかなかった。1940年7月のバトル・オブ・ブリテン開始時には、19の飛行中隊(Squadron)がスピットファイアを装備しており、27の飛行中隊がハリケーンで構成されるところまで改善されていた。バトル・オブ・ブリテンが終結する10月までに565機のハリケーンと352機のスピットファイアが失われたが、この時点では工場はフル稼働しており、その損失を簡単に回復することができた(パイロットはそうもいかなかった)。また、スピットファイアの生産数がハリケーンの生産数を上回った。
この戦闘中に、19の飛行中隊に20 mm 機関砲2門と7.7 mm 機関銃4丁を装備したスピットファイア Mk. Ibが配備された(これにより、それ以前の、7.7mm機銃を8丁装備するタイプはMk. Iaとされた)。機関砲は地上部隊に対しても効果的であったが、旋回中の射撃による弾詰まり等の故障が深刻な問題となっていた。それでも、改良されたMk. Ibは第92飛行中隊に配備された。発注された2,160機のMk. Iの内、1,583機はMk. IIに改良される前に配備された。
High Speed Spitfire
1937年夏のメッサーシュミットBf109の速度記録に対抗するため、武装を外したMk. I改造の特別仕様スピットファイアが1938年11月11日にジョセフ・Mutt・サマーズによって初飛行した。エンジンはロールス・ロイスの特製マーリンIIスペシャル(1,710hp/3,000rpm、後に2,122hp/3,200rpm)を搭載、450mph(724km/h)を目標としていたが、1939年3月30日にHe100が本機の能力を越えた463mph(745km/h)を記録したため速度記録は中止された。
Mk. II(タイプ 329)
タイプ329のMk. IIを製造できるように生産ラインに変更が加えられた。100オクタン燃料の使用を前提とした、より強力なマーリン XIIV 6気筒(1,175馬力)エンジンを搭載したことで、最大速度が約28 km/h増し、上昇率もいくぶん向上したが、パイロットを保護する装甲板の追加によって約33 kg重量が増加した。
Mk. IIは、8丁の機銃を持つIIAと機関砲を持つIIBの2タイプが生産された。本機はMk. Iに代わって急速に部隊配備が進み、Mk. Iは引き下げられて訓練部隊で使われるようになった。1940年8月から配備が開始され、1941年の4月には、一線部隊はMk. IIのみで構成されるようになった。Mk. IIは全部で920機が生産された。そのうちの170機は、Mk. IIbであった。
Mk. III (タイプ 330/348)と Mk. IV(タイプ 337)
Mk. IIはドイツ空軍の戦闘機と十分に戦えることを証明したが、イギリス空軍は基本設計における意欲的な改良を求めた。その結果、Mk. IIIは設計全体が見直され、尾部の車輪を引き込めるようにし、スペースを遮蔽物で囲ったり、まとめたりして、機体の強度を向上させた。エンジンは改良されたマーリンXXを搭載し、これによりMk. IIIは640 km/h以上で飛行することが可能になった。
Mk. IVはそれをさらに進化させたもので、機体はMk. IIIのものと似ていたが、エンジンは1,500馬力を超える新しいロールス・ロイス製グリフォンを積んでいた。
しかしながら、Mk. IIIもMk. IVも改修部分が多いために問題点も多く、量産には至らなかった。
Mk. V(タイプ 331/349/352)
スピットファイア Mk.Vb
1940年後半、Mk. IIは、ドイツ空軍の新たな戦闘機と遭遇し始めた。バトル・オブ・ブリテンでスピットファイアやハリケーンが撃退したメッサーシュミット社のBf 109の、これをより洗練させたFシリーズは多くの点でMk. IIよりも優位にあった。速度や上昇率で勝っていただけでなく、高度5,500 m以上でスピットファイアよりも高い機動性を示した。
この時点では、Bf 109Fと戦えるMk. IVは準備が整っていなかった。グリフォンエンジンの生産に重大な問題が発生し、解決のめどが立たなかったからである。早急に性能ギャップを埋めなくてはならなかった。その対抗策はMk. Vであった。このタイプは、エンジンを新しいマーリン45シリーズに換え、高速度域での補助翼の効きを良くするため、羽布張りから金属製に改めただけで、他はMk. IIと変わらなかった。離陸時出力は1,440 HPとわずかに増加しただけだったが、スタンリー・フーカー(Stanley Hooker)の設計による改良型1段1速式スーパーチャージャー(過給器)を得て、高高度での出力は大幅に増加した。そのため、Mk. Vは唯一Bf 109Fと同じ高度で戦うことができた。
1940年の冬にかけて、Bf 109Fの尾翼構造に大きな問題のあることが発覚し、生産が完全にストップした。Bf 109Fの改修は春先までかかり、生産再開時にはMk. Vの配備が始まっていた。
グリフォンエンジンの問題は予想よりも深刻であることが判明し、解決までにさらに2年間かかると見積もられた。その間に、非常に使い勝手の良いMk. Vは、7.7 mm 機銃を8挺搭載するMk. Vaが94機、20 mm 機関砲2挺と7.7 mm 機銃4挺搭載のMk. Vbが3,923機、20 mm 機関砲2丁の他、7.7 mm 機関銃4挺か20 mm 機関砲を更に2挺を選択装備可能なユニバーサルタイプのMk. Vcが2,447機と、さまざまなバージョンの機体が数多く生産された。北アフリカ戦線でも使用され、その際には現地で砂塵防護のアブキール・フィルターが取り付けられた。総生産数は6,595機。
Mk. HF VI(タイプ 350)
Mk. Vを高高度飛行用に改造したタイプ。翼端を延長した尖頭翼と、与圧式コクピットと高高度用にチューンされたマーリン47を装備する。ドイツ空軍が高高度爆撃機Ju86を開発中との情報を元に、対抗策として100機がMk. Vbから改造された。
Mk. F/HF VII(タイプ 351)
Mk. VIより更に本格的な高高度型として、マーリン71を装備し、機体にも大幅な改造を加えた型。この型より、2段2速過給器を持つマーリン60系装備の、(グリフォンに対しての)通称「マーリン後期型」となるが、登場はMk. IXが最も早い。97機が生産された。
Mk. F/HF VIII(タイプ 359/360/368/376)
Mk. VIIと同じく、マーリン60系エンジンを装備するが、より汎用性を高め、Mk. Vに続く主力戦闘機を目指した型。過給器設定により、HF(高高度用)、F(中高度用)、LF(低高度型)の3タイプが用意された。機体にも多くの改良が施され、Mk. Vとの主な相違点は、主翼左下のラジエーターが大型化され、左右対称になった点である。また、主翼内に燃料タンクが増設され、尾輪が引き込み式になり、機体の補強も施された(この変更点は、Mk. VIIおよび、Mk. XIVにも共通する)。武装は、全てMk. Vcと同じユニバーサルタイプである。しかし、改良点の多かったことが災いし、生産化に手間取っている間に、フォッケウルフ Fw 190Aへの対抗策として応急的に開発されたMk. IXが先に生産された。Mk. VIIIは1942年11月から生産されていたものの、生産が軌道に乗り始めるのは1943年までずれ込んだ。その結果、主力戦闘機の座はMk. IXに奪われたが、在マルタ島、在イタリアの部隊やインド空軍、オーストラリア空軍などへMk. VIIIが送られた。合計で1658機が生産され、終戦まで運用された。
Mk. VIIIの航続距離は、クリーン状態で1060kmと、スピットファイアの戦闘機型で最も長い(日本の戦闘機に例えれば雷電各型のクリーン状態に匹敵する)ものであったが、このタイプの登場後もMk. IXが生産され続けたという事実は、イギリス空軍が長距離侵攻の出来る戦闘機を持っていなかったのではなく、単座戦闘機を長距離侵攻に使用する意図が端からなかったことを意味する。
F/LF/HF Mk. IX(タイプ 361/378)
スピットファイア Mk. IXc
Fw 190の出現により、早急にマーリン60系エンジンを搭載したスピットファイアが必要となった。イギリス空軍は既存のMk. Vにマーリン60系エンジンへ換装したMk. IXを1942年に部隊配備した。この機体が卓越した性能を発揮したため、大量生産が決定された。当初はMk.Vからの改造機をMk.IXA、元からMk.IXとして生産された機体をMk.IXBと呼んで区別していたこともあった。高性能化に貢献したのは、2段2速過給機付きマーリン60シリーズエンジンと4翅式ロートル・ジャブロ・プロペラの組み合わせによるものだった。エンジンの種類によって、F、LF、HFの各機種があり、また、翼も従来のBタイプ、20 mm イスパノ・スイザ機関砲2門に加え7.7 mm ブローニング機関銃4挺もしくは更に20 mm 機関砲2門を搭載可能なCタイプ(ユニバーサル・ウイング)の他に20 mm 機関砲2門と12.7 mm ブローニング機関銃2挺を搭載したEタイプも使用された。
1943年に機体改修が行われた。この後期型では尾翼の大型化、ジャイロ式照準機の装備、後部胴体への燃料タンク増設、バブル・キャノピーが採用された。生産数は5,663機(ヴィッカースで5,117機、その他557機)といわれている。しかしながら、別のリストによれば5,440機(378機がスーパーマリン、Castle Bromwichで5,062機)となっている。
航続距離については、シリアルML186を用いてジェフリークゥイルが45英ガロンのドロップ・タンクを使用した飛行で、1,000ft以下を5時間飛行(Salisbury Plain - Moray Firth間)しており、護衛戦闘機としての使用にも耐えうることを証明している。
極少数のMk.IXでは、速度を向上させるために、塗装をはがして機体を平滑化した機体が用意された。これらの機体には、特別に150オクタンの燃料が使用され、ブースト圧を25lb/sq.inまで上げることができた(しかし、150オクタン燃料の使用は整備間隔を短縮しなければならなかった)。これは、コードネーム「バスタ(Basta)」と呼ばれ、1944年夏のV-1迎撃に活躍した。
水上機型(タイプ 342/344/355/385)
1943年12月29日、LF IXb(シリアルMJ892、マーリン66搭載)が改造のためロートル・ワークス(Staverton/Gloucestershire)に到着した。対日戦線への投入用としてフォーランド・エアクラフト製フロートを取り付けられたMJ892は1944年6月6日、スーパーマリンのテスト・パイロットFrank C Furlongによって飛行した。水上機型スピットファイアは本機以降開発されることはなかった。
PR Mk. X
スピットファイアMk. VIIを基に製作された写真偵察機 (Photo Reconnaissance) 型である。呼称方法が戦闘機型と重複しないようにとの配慮から既に振られていたMk. IXの次のナンバーであるMk. Xが振られた。高々度写真偵察も考慮されていたため、Mk. VII譲りの与圧装置が付いている。最初の機体がベンソン基地に配備されたのが1944年4月4日であったが、この時既にベンソン基地には独自に改造したPR Mk. XIがあった。結局、与圧装置の必要性が薄れたために僅か16機が生産されたのみである。
PR Mk. XI
ベンソン基地で改造されたPR Mk. XI(タイプ374)の他に、ヘストン航空機がMk. IXを改造したPR MkXI(タイプ 365)を生産、スーパーマリン社でも引き込み式尾輪、大型尾翼のPR Mk. XIが生産された。
Mk. XVI
マーリン60系エンジンの供給に不安を感じたため、米国パッカード社で生産されていたパッカード・マーリン 266エンジン(マーリン 66のライセンス生産)を搭載した機体である。英国と米国との製図法の違いなどから、本エンジンを搭載した機体には、新たにMk. XVIの番号が振られている。性能的にはMk.IXと同等であるが、マーリン266がマーリン66と細部が異なるため、エンジン・カウルの張り出しやフィルターキャップの位置が異なるなどの変更がなされている。しかしながら、本エンジンの供給が遅れたために生産は1944年までずれ込んだ。

グリフォン スピットファイア[編集]

ロールス・ロイス グリフォンを搭載したスピットファイア Mk. XIIは1942年の夏までに配備された。このMk. XIIはわずか8分で高度1万メートルに達することができ、水平飛行で約640km/hの速度に達した。このタイプはマーリンエンジン搭載機に比べれば、速度と武装は向上したが、燃料消費が多く航続距離と搭載量に深刻な欠点をかかえていた。そのため、限定的な航続距離しか必要とされない本土防空戦闘機の役割が与えられ、もう一方のマーリンエンジン搭載機はヤーボとして運用された。総じてグリフォン搭載型は、エンジン出力の向上に機体強度が追いつかず、また、マーリン・エンジンとはプロペラ回転トルクが反対方向になるため、当て舵が逆になることから、「高性能だが操縦が難しい」とされ、これらを失敗作と評価する向きも見られる。

グリフォンエンジンのクランク回転方向はマーリンのそれとは異なり、減速後の軸の回転は左回り(パイロットから見て反時計回り)となるため、プロペラピッチ(ひねり)もマーリンエンジン機とは逆である。また、シリンダーヘッドの張り出しが大きく、排気管上のフェアリングに大きな膨らみがある。これらの相違は搭載エンジンの外観上の識別点となる。

MK. 21以降は、正式にはスーパー・スピットファイアの名称が与えられているが、この名称は一般には浸透せず、単にスピットファイアと呼ばれることが多い。

Mk. XII(タイプ366)
Mk. VIII及びMk. IXのエンジンをマーリンからグリフォンに換装して製作されたのがMk. XII(タイプ 366)である。1号機の完成は1942年10月、第41飛行隊(タングメーア)と第91飛行隊(ホーキンジ)の2個飛行隊にのみ配備された。Mk. VIIIからの改造機が55機、Mk. IXからの改造機が45機である。Mk. VIII、Mk. IXの違いから尾輪が引き込み式と固定式の2種類が存在する。
Mk. XIV(タイプ 369/373/379)
1943年7月、Mk. VIIIにグリフォン60系エンジンを搭載したタイプ369を基に、機首の延長、プロペラ枚数の増加(5翅)、大型化された尾翼などを採用したタイプ379がMk. XIVで1943年12月20日に1号機が完成している。総生産数957機。
F/FR Mk. XVIII(タイプ 394)
スピットファイア Mk. XVIII
1943年暮れから、スーパースピットファイアと称する開発が始まった。スーパーマリン社では、戦訓を活かし、Mk. XIVの燃料タンクの増設を図ったMk. XVIIIを完成させた。Mk.XVIIIは、1944年12月から開発を開始、1号機(シリアルナンバーSM844)の英空軍への引き渡しは1945年5月28日、香港の第28飛行隊に配備された。
FRとして202機が製造され、カメラ非搭載の99機は戦闘攻撃機として、対地攻撃に使用された。中にはRATOGとアレスター・フックを装備されたF XVIIIもあった。スーパーマリンで製造されたタンデム複座のタイプ518はTR XVIIIとして練習機として使用された。
第60飛行隊のMk XVIIIは、1951年1月1日のジョホール戦域Kota Tinggiでテロリストへの攻撃に使用された。


Mk. 21(タイプ 368)
主翼をスピットファイアの特徴のひとつであった楕円翼からマスタング等で採用されていた層流翼(NACA2200シリーズ)に改めた機体である。1号機の完成は1944年1月27日、総生産数は120機。これ以降スピットファイアの型式は、ローマ数字からアラビア数で表記されるようになった。「ヴィクター」の呼称も予定されていたが不採用となっている。
Mk. 22(タイプ 356)
Mk. 21のキャノピーをバブル・ウインドとし、スパイトフルの尾翼を流用、電源を12Vから24Vに変更したのがMk. 22(タイプ 356)であり、278機が生産された。
Mk. 23
Mk. 21を基に高々度用として設計されたのがMk.23(タイプ372)である。Mk. 21からの違いは、垂直尾翼の大型化、尖端翼の採用である。生産はされていない。名称は「ヴァリアント」の予定であった。
Mk. 24
Mk. 22の後部燃料タンクを変更、1946年2月から1948年2月までに81機が生産された。
スパイトフル
スピットファイア Mk. 20シリーズのために用意された新設計主翼は、開発の途中で別系統の主翼が生み出された。翼断面をP-51 マスタングと同様の層流翼型にし、前後縁も直線テーパーにした。この新設計翼をスピットファイア Mk. XIVと組み合わせた機体が、社内タイプ371として1944年半ばに試作された。しかし、新しい主翼は従来の胴体にはうまく合わず、胴体も新設計にするべきという結論に達し、スピットファイアとは別にスパイトフルと名づけられた。

海軍仕様[編集]

イギリス海軍のシーファイアF XVII

第二次大戦勃発時にまともな艦上戦闘機を持たなかったFAA(Fleet Air Arms)は、艦上戦闘機としてハリケーンとスピットファイアのどちらが相応しいか調査を開始した。

1941年、FAAは空軍のスピットファイアMk.Vを100機を借用した。54機を慣熟訓練用として、残りには応急的にカタパルト用フックとアレスティング・フックを取り付けて離着艦テスト用として(この機体をHooked Spitfireと呼んだ)、空母イラストリアスを用いて試験が行われた。

この試験の結果を受けて、最初から陸上型のスピットファイアに空母で運用するために着艦フックや折りたたみ式の主翼などの艦上機用装置が装備すると共に機体構造を強化されたものが生産され、実戦部隊に配備された。スピットファイアは主脚の間隔が狭かったために安定した着艦が難しく、着艦時の事故が頻繁に発生したが、主脚の構造を艦上機として再設計している余裕がなかったため、設計の変更はなされていない。しかし、イギリス海軍にとって新型艦上戦闘機の導入は急務であったため、生産と配備は継続された。真っ先に投入されたのはソビエト連邦に向かう輸送船団で、北極海の戦いアヴェンジャーなどの護衛空母に搭載された。

イギリス海軍向けのスピットファイアはシーファイア (Seafire) と呼称され、これは「海軍向けスピットファイア」を意味する「シースピットファイア (Sea Spitfire)」 を省略したものであるが、Seafire とは日本でいうところの「不知火」を指す言葉でもある。スーパー・スピットファイアの艦上機型(MK. 45~47)を「スーパー・シーファイア」と呼ぶ事もあるが、公式な名称ではない。

Mk. Ib(タイプ 340)
既存のMk.Vにカタパルト用フック、アレスティング・フックを装備して、胴体下部縦通材を補強、各種計器を海軍式に換装したものである。1942年から43年にかけて166機が制作された。
Bウイングが装備され、主翼は折りたためなかった。1942年6月に最初のシーファイアMk.Ibが空母フューリアス所属第807飛行隊に引き渡されている。
Mk. IIc(タイプ 357)
Mk.Ibと同様の機体であるが、最初からシーファイアとして生産された機体である。護衛空母カタパルトの無い空母からも発進できるように主翼上面にRATOを取り付けることができた。極少数の機体にはプロペラが4枚のものもあった。
一部の機体には偵察カメラが搭載され、F.R.Mk.IIcとして使用された。
LF.Mk.III(タイプ 358)
ジョセフ・スミスによって主翼が折りたためるようにした機体である。1943年4月から生産が開始され、1945年7月24日までに1,220機が生産された。
LF.Mk.IIIはシーファイアの主力として、ヨーロッパのみならず北海、地中海、インド洋、太平洋で活躍した。1945年8月15日には関東上空で零戦とも交戦している。
F.Mk.XV
グリフォンエンジン搭載型シーファイアの最初の型。エアフレームはMk.XIIに近く、Mk.XIVのように機首の延長や垂直尾翼の大型化は行っていない。Mk.15とMk.17は空軍のスピットファイアと通しの型番がつけられている。
F.17
F.Mk.XVのキャノピーをバブルトップに変更した型。数あるスピットファイアの各型中、イギリス軍では最も遅く(1954年11月)まで使用され、朝鮮戦争に出撃している。
シーファング
本機はスパイトフルを艦上機化したもの。こちらはスパイトフルとは違い、構造、装備品が大幅に変化している。最初の艦載機型のMk.31ではプロペラ、エンジンの詳細は不明だが着艦フックとその他の装備が違うだけでほとんどスパイトフルと同様の機体である。こちらは主翼折りたたみ機構がないことから、暫定生産型と思われる。一方、本格的な生産型であるMk.32ではグリフォン89エンジンとロートル2重反転プロペラを組み合わせ、主翼折りたたみ機構を持つ。本機もスパイトフルの項目に書いてあるとおり、ジェット化の浸透までのつなぎ機にホーカー シーフューリーが選ばれたため、量産はされていない。

戦歴[編集]

西部戦線[編集]

第41飛行中隊のスピットファイア Mk. XII

スピットファイアは、バトル・オブ・ブリテンにおける勝利の立役者とされ、その設計者のミッチェルとともに、「The First Of The Few(邦題「スピットファイア」)」という映画にもなって、称賛されている。

ドイツのエースパイロットであるアドルフ・ガーランドヘルマン・ゲーリングに対し、「自分の部隊を全てスピットファイアにしていただきたい。」と述べるなど、敵からも称賛されている。

ハリケーンはスピットファイアに対して翼の構造上、重武装を搭載するにあたり幾分か有利であった。それらは爆撃機や対地攻撃に効果を発揮し得たが、そういった火器を増強すると機動性と加速力、上昇力に影響を及ぼした。重くなったハリケーンはドイツの戦闘機との空戦には向かなかった。一方、スピットファイアはBf 109と肩を並べられる存在であった。

ドッグファイト(空中戦)では、その機動性とコックピットの良好な視界という要因によって、ドイツ戦闘機に対してスピットファイアがかなり多く勝利をおさめている。燃料噴射装置を搭載するBf 109は、スピットファイアに追撃されるとマイナスGをかけながら降下して離脱した。スピットファイアがマイナスGでエンジンが停止することを知っていたためである。設計陣は、マイナスGでエンジンが停止するという問題に対して、RAEの女性研究者シリングが、小さな孔をあけたダイヤフラムを追加して、バルブをバイパスする提案をするまで悩まされた。バトル・オブ・ブリテンでは、スピットファイアが護衛戦闘機のBf 109やBf 110を攻撃し、その間にハリケーンが爆撃機を攻撃するといった戦法も用いられた。バトル・オブ・ブリテン全体で見れば、ドイツ軍が撃墜した10機のうち7機はハリケーンであった。

しかしながら、スピットファイアは、ライバルBf 109と全く同じ、主脚の引き込み方式に由来する地上での安定性の不足、そして航続距離の短さという欠陥を抱えていた。防空戦闘機として活躍する際には航続距離は問題とならなかったものの、ドイツ本土に侵攻する爆撃機隊の護衛戦闘機としては致命的であった。ドイツ・フランス上空が主戦場となった戦争の後半において、制空任務を務めたのは米国製のP-51 マスタングであり、イギリス空軍も本国の防空よりも敵地での地上攻撃が主となっていったことなどから、スピットファイアは戦闘爆撃機型と武装偵察機型の活躍が主となる。戦闘爆撃機型のスピットファイアは、米国の戦闘機や、ホーカー タイフーンホーカー テンペスト等と比べれば、搭載量も航続距離も低かったが、これらの戦闘機よりも軽量で、滑走路も短くて済むため、地上部隊の直協任務に適していた。

地中海戦線[編集]

防塵用フィルターのボークス (Vokes) を機首下に装備したスピットファイア Mk. Vが北アフリカ、地中海、中東へ派遣された。最初に派遣されたのは補給が困難となったマルタ島で、1942年に空母イーグルから発艦して直接マルタ島の飛行場に降り立った。この進発を皮切りにスピットファイアが主に空母で送られたが、一時的にイギリス海軍がドイツ空軍の空襲により制海権を失いかけるとジブラルタルからマルタ島まで直接無補給でスピットファイアを送る試みがなされた。この試みで、大型増槽の装備と武装の削減を施されたMk. Vが巡航で1,770 kmを無補給で飛び、17機のうち1機を除いてマルタ島にたどり着いた。その後もイギリス海軍の協力を得て、スピットファイアだけで270機以上がマルタ島に送られ、ドイツ空軍やイタリア空軍との戦闘を繰り広げた。

北アフリカでは、ボークス装備にともなう空気抵抗によって速度の低下及び機動性の劣化が避けられなかったため、小型のアブキール・フィルターが現地部隊によって開発された。これによって、速度の低下、機動性の劣化は多少改善された。また、より高性能なMk. VIIIが送られるとシシリー島やイタリア戦線でアメリカ空軍と連携して戦線を支えた。しかし、イタリア戦線でも制空任務への役割が低下すると、地上攻撃に従事した。

東部戦線[編集]

東部戦線では、ソ連に提供されたスピットファイアがドイツ軍と戦った。最初のスピットファイアはイラン経由でソ連に送られたMk.Vで、その後Mk. IXなどが追加された。

太平洋戦線[編集]

第79飛行隊のスピットファイア(1944年)

1942年(昭和17年)2月にオーストラリア首相ジョン・カーティンからチャーチルに宛ててスピットファイアの派遣が要請された[14]。イギリス空軍(RAF)の戦闘機軍団に所属する第54飛行隊、第452飛行隊、第457飛行隊がリヴァプールを発ち、オーストラリアのメルボルンに着いたのは同年6月であった。第54飛行隊を除き、パイロットはオーストラリア人で構成されており、48機のMk. Vを装備していた。10月になって定数機が全て揃い、翌月にクライヴ・コールドウェル少佐を指揮官に据えてオーストラリア空軍(RAAF)第1戦闘航空団が編成された[14]

年が明けて1943年の1月から各部隊はオーストラリア北部への配置が開始され、3月にクーマリー・クリーク基地へ襲来した日本海軍の第202海軍航空隊と第753海軍航空隊を迎撃したのが初の本格的な空戦であった[15]。5月2日の戦闘では5機のスピットファイアを失ったが、6機から10機の日本海軍機を撃墜した[16]。しかし、その他の5機が燃料不足やエンジン故障で不時着し、このうちの2機だけが戦線へ復帰した[16]

1943年2月からポートダーウィン上空で来襲する日本海軍の零式艦上戦闘機と数次に渡って会戦した。状況は非常な長距離を長時間飛行し来たる零戦をレーダー管制にて待ち伏せ迎撃するという、スピットファイアにとっては極めて有利なものであったが、結果は零戦の5機喪失(未帰還3機)に対しスピットファイアは喪失42機(未帰還機26機)であった[17]。このほか、両軍一次資料による実損害等と照らし合わせたものでは、全9回の日本海軍との空戦で零戦7機喪失に対しスピットファイア34ないし35機喪失となる[18]

RAAFパイロットの多くは欧州戦線で高速のMe109Fw190へスピットファイアの旋回性能を生かした格闘戦で対抗してきた経験から、それまで零戦と対峙していたP-40戦闘機隊の「一撃離脱戦法に徹すべき」という忠告を聞かず、零戦が得意とする格闘戦に正面から挑んでいき多くが撃墜された。対戦した第202海軍航空隊、第753海軍航空隊が搭乗時間1000時間以上の熟練パイロットで構成されていたことも敗因とされる。この結果を受けてRAAFのコールドウェル中佐は、零戦の対策法として「零戦とドッグファイトに入るのは賢明ではない。高速を利用した急降下攻撃を何度も繰り返すべきである」とパイロットに訓示しているが戦況は好転しなかった。

日本海軍による一連の空襲の後の1943年6月20日、日本陸軍第7飛行師団一式戦闘機「隼」以下戦爆連合をもって1度だけダーウィンを攻撃した。本戦にて日本陸軍は爆撃を成功させ、また一式戦「隼」も爆撃機を護りつつ倍の数のスピットファイアとの空戦に勝利している。参加部隊と機体は飛行第59戦隊の一式戦「隼」22機、飛行第61戦隊の一〇〇式重爆撃機「吞龍」18機、飛行第75戦隊の九九式双軽爆撃機9機の3個飛行戦隊計49機(また、これとは別に敵情把握を受け持つ独立飛行第70中隊一〇〇式司令部偵察機「新司偵」2機も出撃)、対するRAAFはレーダーからの報告を受け、指揮官コールドウェル中佐以下3個飛行隊計46機のスピットファイアが迎撃。戦闘の結果は一〇〇式重爆「吞龍」1機被撃墜に対し、スピットファイア2機被撃墜であった[19]。なお、本戦でもまたしてもスピットファイアは格闘戦に終始しており、これには第59戦隊第1中隊長が訝しむほどであった[20]

太平洋戦線においてスピットファイアが奮わなかった主因は環境に阻害されて性能をフルに発揮できなかったためである。これは飛び立っても高空では急激に温度が低くなり、低温の影響で定速装置のオイルが凝固すると制御不能となってエンジンを停止しなければならないという問題があり、出撃しても機体故障のために未帰還となる機体が続出した[21]。いわば常に大きなハンデをつけての戦闘であった。さらに、RAFが対ドイツ戦に集中するため、対日戦に対しては旧式機を用意していたためでもある。また、イギリス本土から遥か遠くという地理条件により予備部品の不足が発生[22]、その上、予備のエンジンを用意していないという重大なミスも犯していた[23]

赤道に近い地域では地上での高温多湿が機体を痛め、徹底的なメンテナンスを必要とさせた。イギリスから送られてきたスピットファイアは、当時の欧州戦線作戦機と比較すると旧式のMk.Vで、さらに防塵用フィルターが装備されていたため速度が30km/hほど低下していた[24]。僻地において、この問題が解決されることはなく、RAAFはMk. VIIIに機種交換するまで悩まされた[21]

1945年の中盤に入り日本の敗北が決定的となった頃、アメリカ海軍空母とともにイギリス海軍の空母が日本近海に展開した際には、艦上から出撃したシーファイアが日本本土の基地に対する攻撃を行い、日本軍の戦闘機と空中戦になることもあった。終戦日の8月15日の午前に行われた空戦では、2機の零戦と2機のシーファイアが交戦し、双方1機損失という記録が残されている。

戦後の使用[編集]

第二次世界大戦後の1960年代になっても、エジプトアイルランドイスラエルシリアトルコチェコスロヴァキアユーゴスラヴィアインドビルマタイなど、世界各国で使用されていた。

中東戦争では、敵味方にわかれてスピットファイア同士が戦う場面も見られた。かつてのライバルBf 109の戦後型であるアヴィア S-199との戦闘も発生している。

余談[編集]

スピットファイアの優秀さと、その優美な機体や先が細い楕円翼は、無数の愛好家を集め、敵側にも惚れ込んだ者がいた。ゲーリングがアドルフ・ガーランド(英空軍に勝つために)何が必要かと聞くと、ガーランドは「英国のスピットファイアを」と答えた[25]。これは当時ゲーリングが爆撃機を援護する戦闘機隊に対し、先回りして敵迎撃機を掃討する制空戦を止め、爆撃隊に寄り添って護衛する直奄方式に専念するよう命令したことへの反論でもある。速度を生かした一撃離脱を得意とする重戦Bf109を速度の遅い爆撃機に張り付かせるということは、必然的に軽戦であるハリケーンやスピットファイアと格闘戦を行う事を意味していた。格闘性能に優れる英軍機と格闘戦をせよと言うのなら、我が軍にも格闘戦向けの軽戦を装備させろという意味を含んだガーランドなりの皮肉であった。

海外の主な運用国[編集]

スピットファイア Mk. XIV

スピットファイア[編集]

  • Mk.V:ギリシア、ユーゴスラヴィア、トルコ、エジプト、アメリカ、オーストラリア、ソ連
  • Mk.VIII:インド、オーストラリア
  • Mk.IX:チェコスロヴァキア、ギリシア、ユーゴスラヴィア、ベルギー、インド、トルコ、エジプト、イスラエル、ビルマ、フランス、オランダ、アメリカ、オーストラリア、ソ連
  • Mk.X:ベルギー、アルゼンチン
  • Mk.XIV:ギリシア、ベルギー、インド、タイ、スウェーデン
  • Mk.XVI:ギリシア
  • Mk.18:ギリシア、インド、香港
  • Mk.22:エジプト、シリア、ローデシア

シーファイア[編集]

  • Mk.III:アイルランド、フランス
  • Mk.XV:ビルマ、カナダ

現存するスピットファイア[編集]

  • MkI
    • K9942 / N4200 / P9306 / P9374 / P9444 / R6915 / X4276 / X4590 / AR213
  • MkV
    • AB910 / AD540 / AR501 / AR614 / BL370 / BL614 / BL628 / BL655 / BM597 / BR108 / BR491 / BR545 / BS199 / BS231 / EE853 / EF545 / EP120 / JG891 / JK808 / LZ844 / MA863 / 41-401
  • MkVII
    • EN474
  • MkVIII
    • JG267 / JG355 / JG484 / JG668 / MD228 / MD338 / MT719 / MT818 / MT928 / MV321 / NH631 / A58-758 / 5501
  • MkIX

スペック(Mk Vb)[編集]

三面図

出典:The Great Book of Fighters[26] and Jane’s Fighting Aircraft of World War II[27]

性能諸元[編集]

武装[編集]

スペック (Mk. IXe)[編集]

出典: Spitfire: The History[28]

諸元

性能

  • 最大速度: 6,400 m 時 650 km/h (404 mph)
  • 戦闘行動半径: 698 km (434 mi)
  • フェリー飛行時航続距離: 1,577 km (980 mi)
  • 実用上昇限度: 12,954 m (42,500 ft)
  • 上昇率: 3,048 m 時 24.1 m/s (4,745 ft/min)
  • 翼面荷重: 149 kg/m² (30.6 lb/ft²)
  • 馬力荷重(プロペラ): 0.39 kW/kg (0.23 hp/lb)

武装

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登場作品[編集]

ドキュメンタリー
ジェームズ・メイが司会を務めるテレビ番組。精巧な実物大の模型を制作し大英博物館に寄贈した。通信販売でDVDが購入できる。
映画
コンピュータゲーム
シューティングゲーム。『1945』、『1945Plus』に自機のひとつとして登場。
フライトシミュレーター。初代の1にスピットファイヤがハリケーンと共に登場。7.7ミリ×8門の猛烈な攻撃を行うことができ、操縦も比較的簡単で初心者向けにしてある。

関連項目[編集]

出典[編集]

  1. ^ Ethell 1997, p. 6. ISBN 0-7603-0300-2
  2. ^ Price 1982, p. 16. ISBN 0-86720-624-1.
  3. ^ Price 1982, p. 17.
  4. ^ Price 1977, p. 32. ISBN 0-354-01077-8
  5. ^ Glancey 2006, pp. 37-38. ISBN 978-1-84354-528-6
  6. ^ Glancey 2006 p. 43.
  7. ^ a b Price 2002, p. 20. ISBN 1-85605-702-X
  8. ^ Price 1977, pp. 33-34.
  9. ^ a b Price 2002, p. 19.
  10. ^ Williams and Gustin 2003, p. 93.
  11. ^ Williams and Gustin 2003, pp. 16, 93—94.
  12. ^ Williams and Gustin 2003, p. 95.
  13. ^ Flintham 1990, pp. 254–263.
  14. ^ a b Price 1997, p. 69. ISBN 9781855326354.
  15. ^ Price 1997, p. 71
  16. ^ a b Alexander 2006, pp. 120–121
  17. ^ 大日本絵画『Scale Aviation』2009年1月号 40~42頁
  18. ^ 渡辺洋二 『異なる爆音』 光人社、2012年、54項
  19. ^ 一式戦「隼」1機が行方不明となっているが、これは戦闘前の巡航中に理由不明の編隊離脱を行った機体でありRAAFの戦果や被撃墜ではない。
  20. ^ 渡辺洋二 『異なる爆音』 光人社、2012年、47~51項
  21. ^ a b Price 1997, p. 69, p. 70.
  22. ^ Alexander 2006, p. 105.
  23. ^ ジョン・ベダー『第二次世界大戦ブックス16 スピットファイア』 サンケイ新聞出版局 1971年
  24. ^ 『Spitfire in action』 squadron signal publications
  25. ^ 「Engineers of Victory」Paul Kennedy p151
  26. ^ Green and Swanborough 2001
  27. ^ Jane 1946, pp. 139–141.
  28. ^ Morgan and Shacklady 2000, ISBN 0-946219-48-6. p.332

参考文献[編集]

  • 『世界の傑作機 No.102 スピットファイア』 文林堂、2003年ISBN 4893191047
  • プライス, アルフレッド、渡辺洋二 『スピットファイア Mk1/2のエース 1939‐1941』 岡崎淳子訳、大日本絵画、2000年ISBN 4499227399
  • プライス, アルフレッド 『スピットファイア Mk5のエース 1941‐1945』 柄沢英一郎訳、大日本絵画、2003年ISBN 4499228107
  • Ethell, Jeffrey L. and Steve Pace. Spitfire. Osceola, Wisconsin: Motorbooks International, 1997. ISBN 0-7603-0300-2.
  • Flintham, Victor. Air Wars and Aircraft: A Detailed Record of Air Combat, 1945 to the Present. New York: Facts on File, 1990. ISBN 0-81602-356-5.
  • Price, Alfred. Spitfire: A Documentary History. London: Macdonald and Jane's, 1977. ISBN 0-354-01077-8.
  • Price, Alfred. The Spitfire Story. London: Jane's Publishing Company Ltd., 1982. ISBN 0-86720-624-1.
  • Price, Alfred. Spitfire Mark V Aces 1941-45. Osprey, 1997. ISBN 9781855326354.
  • Price, Alfred. The Spitfire Story: Revised second edition. Enderby, Leicester, UK: Siverdale Books, 2002. ISBN 1-85605-702-X.
  • Glancey, Jonathan. Spitfire: The Illustrated Biography. London: Atlantic Books, 2006. ISBN 978-1-84354-528-6.
  • Alexander, Kristen. Clive Caldwell, Air Ace. St. Leonards, Allen & Unwin, 2006. ISBN 1741147050.
  • Green, William and Gordon Swanborough. The Great Book of Fighters. St. Paul, Minnesota: MBI Publishing, 2001. ISBN 0-7603-1194-3.
  • Williams, Anthony G. and Dr. Emmanuel Gustin. Flying Guns: World War II. Shrewsbury, UK: Airlife Publishing, 2003. ISBN 1-84037-227-3.
  • Morgan, Eric B. and Edward Shacklady. Spitfire: The History. London: Key Publishing, 1993. ISBN 0-946219-10-9.
  • Morgan, Eric B. and Edward Shacklady. Spitfire: The History (5th rev. edn.). London: Key Publishing, 2000. ISBN 0-946219-48-6.
  • Jane, Fred T. The Supermarine Spitfire. Jane's Fighting Aircraft of World War II. London: Studio, 1946. ISBN 1-85170-493-0.

外部リンク[編集]