ハン・ファン・メーヘレン

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ハン・ファン・メーヘレン
Han van Meegeren
本名 ヘンリクス・アントニウス・ファン・メーヘレン
(Henricus Antonius van Meegeren)
生誕 1889年10月10日
オランダの旗 オランダ オーファーアイセル州
デーフェンテル
死去 1947年12月30日(満58歳没)
オランダの旗 オランダ
北ホラント州 アムステルダム
国籍 オランダの旗 オランダ
分野 絵画贋作
活動期間 1913-1945
最終学歴 デルフト大学建築学部
影響を与えた
芸術家
ヨハネス・フェルメール
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ハン・ファン・メーヘレンHan van Meegeren1889年10月10日 - 1947年12月30日)はオランダ画家、画商。本名はヘンリクス・アントニウス・ファン・メーヘレン(Henricus Antonius van Meegeren)。20世紀で最も独創的・巧妙な贋作者の1人であると考えられている。特に、ヨハネス・フェルメール贋作を制作したことで有名。

生い立ちと画家へのあこがれ[編集]

オーファーアイセル州デーフェンテル出身。幼い頃から画家を目指しており、オランダの古典派に属する画家に師事した。

美大への進学を希望していたが、父の反対にあいデルフト大学の建築学部へ進学。デルフトのボートハウスの設計などを手がけた。

1913年に建築学部の学生としては初めてロッテルダム賞を受賞し、画家としてデビューした。その際、受賞作品の販売を契約しながら(メーヘレン自身による)複製画を販売していたことが発覚し、トラブルとなった。

画家としては成功せず、ポストカードやポスターの挿絵を描いて糊口を凌いでいたが、自分を認めようとしないオランダの美術界に復讐する、という動機から次第に贋作ビジネスに手を染めるようになり、没落した貴族から極秘に仕入れた絵画を売却しているというふれこみで多数の贋作を制作・販売した。

天才的贋作者として[編集]

メーヘレンは主に17世紀オランダ絵画[1]の贋作を制作し、特にフェルメールの贋作を好んで制作した。

当時はフェルメール研究が緒についたばかりで、ごく一握りの専門家を騙せば真作と認められたことから、贋作が作りやすい状況にあった。このため、まずメーヘレンはフェルメールの作風を模写するための研究を重ねた。そして、題材はフェルメールが手がけていないとされていた宗教画を描く事に決めた[2]

そして、メーヘレンは当時の真贋判定方法で主に用いられていたアルコールを浸した綿で絵画の表面を拭く[3]という方法を回避するため、絵の表面にフェノール樹脂を塗り、炉で一定時間加熱するという手法を編み出した。また、絵を書く際に用いるキャンバス(および額縁)はフェルメールらと同じ17世紀の無名の絵画から絵具を削り落としたものを使用し、絵具、絵筆から溶剤に至るまで当時と同じものを自ら製作して使用し、さらに絵の完成後にキャンバスを丸めてクラクリュールを作り、墨を塗るなどして古びた色合いを出すなど、その贋作の手法は徹底していた。このようにして製作された「エマオの食事」(1936年)は、当時のフェルメールの研究家たちから「本物」と認められ、ロッテルダムボイマンス美術館が54万ギルダーで買い上げた[4]

また、彼はダダイズムキュビズムなどの現代芸術を軽蔑しており、古典派の具象画こそ芸術であるとの持論を持っていた。
ある時、ピカソを絶賛する人物の前で即興で「ピカソ風の絵」を描いたところ、相手がその絵を売って欲しいと言ったが「たとえ贋作を描くとしても劣った奴の贋作は描かない」と言って絵を破り捨てたというエピソードが伝わっている[5]

真相の発覚[編集]

1945年5月29日にメーヘレンはナチス・ドイツの高官たち[6]にフェルメール作とされていた「キリストと悔恨の女」などの絵画を売った罪で逮捕・起訴された。

ナチス協力者およびオランダ文化財の略奪者として、当局は長期の懲役刑を求めた。この厳しい選択に直面し、拘留中にメーヘレンはナチス・ドイツに売却した一連の絵画、そして「エマオの食事」が自ら製作した贋作であることを告白。証拠として法廷で「フェルメール風」の絵を描いてみせ(写真)、さらに一連の絵画に対しX線写真などの最新の鑑定が行われた結果、彼が売りさばいたフェルメールなどの絵とされてきた絵画が彼の手による贋作であることが証明された。このため、メーヘレンは売国奴から一転してナチス・ドイツを騙した英雄と評されるようになった。

結局ナチス・ドイツへの絵画の販売については無罪となり、1947年11月12日にフェルメールらの署名を偽造した罪で当時詐欺罪の刑として最も軽い禁固1年の判決を受けたが、既に麻薬で体を蝕まれていたメーヘレンはまもなく心臓発作に倒れて翌月にアムステルダムで死去した。

脚注[編集]

  1. ^ ピーテル・デ・ホーホフランス・ハルスヘラルト・テル・ボルフなど
  2. ^ これは、フェルメールのいわゆる「空白期間」を埋める作品だと専門家に認められることを意図したため
  3. ^ 絵具が生乾きの場合は色が落ちるため、贋作と判断できる
  4. ^ 現在も「メーヘレンの作品」として展示されている
  5. ^ 『私はフェルメール 20世紀最大の贋作事件』より
  6. ^ 特に贔屓にしていたのがヘルマン・ゲーリングだった

関連項目[編集]

参考文献[編集]

関係資料[編集]

  • 与野冬彦『近現代ニセモノ年代記』(光芸出版、2005年)

外部リンク[編集]