エミール・ハーハ
エミル・ハーハ(Emil Hácha, 1872年7月12日 - 1945年6月26日)は、チェコスロバキアの法律家であり、政治家。チェコスロバキア第二共和国の大統領と、ドイツ統治下のベーメン・メーレン保護領の名目的な大統領を務めた。
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経歴 [編集]
生い立ち [編集]
農家出身。法学の教育を受け、法学博士、国際法の専門家となった。1898年から1916年は、地方裁判所勤務。1916年から1918年はヴィドネーの高等行政裁判所の裁判官をつとめた。
チェコスロバキア独立後の1918年から1919年は下院議長。1919年から最高行政裁判所第2所長、1925年から1938年は同裁判所の第1所長を務めた。
最後の大統領 [編集]
1938年ベネシュがミュンヘン協定の結果を受けて大統領を辞任したために、11月30日に保守的な立場と親ドイツ的な立場から後継大統領に指名された。この時点でチェコスロバキア第一共和国は消滅し、チェコスロバキア第二共和国が成立した。しかしハンガリー王国の圧力を受けて第一次ウィーン裁定によりチェコスロバキア南部の割譲を受け入れざるを得なくなり、チェコスロバキアはいよいよ弱体化した。
詳細は「チェコスロバキア併合」を参照
割譲を受けてチェコスロバキア国内の民族運動は激化し、1939年3月14日にはスロバキアがスロバキア共和国、カルパティア・ルテニアがカルパト・ウクライナ共和国として独立を宣言した。さらにハンガリーがカルパト・ウクライナの領域に侵攻し、スロバキアへの侵攻も危惧された。窮地に追い込まれたハーハはナチス・ドイツの支援を受けようとベルリンの総統官邸でヒトラーとの首脳会談に望んだ。しかしヒトラーはチェコスロバキアのドイツによる併合、すなわちチェコスロバキアの残部であるボヘミアとモラビアの割譲を要求した。ヒトラーはすでにチェコへのドイツ国防軍進駐命令を出しており、空軍総司令官ゲーリングは「プラハの空襲を命じた」と言明するなど、ドイツ側首脳はハーハを激しく恫喝。(ところが実際には大雪のためドイツ空軍はすべて地上待機の状態で、とてもプラハの爆撃などできる状況になかった。[1])
もともと心臓の弱かったハーハは発作を起こして卒倒したものの、ヒトラーの主治医テオドール・モレルの処置で意識を取戻し併合受諾文に署名せざるを得なかった。
傀儡大統領 [編集]
チェコスロバキアの解体後、ベーメン・メーレン保護領の大統領(チェコ語:státní prezident、独:Staatspräsident)の地位に留まることはできたが、1939年11月にはアドルフ・ヒトラーとボヘミア・モラビアの総督コンスタンティン・フォン・ノイラートへの忠誠を誓わされたほか、ハーハの閣僚らは逮捕された。ハーハは第二次世界大戦の終戦まで大統領の地位にとどまったが、政治に影響を及ぼすことはできなかった。
1945年5月9日、プラハをソ連軍が占領すると、ハーハは国家反逆罪で逮捕された。すでに病気であったハーハは直ちに刑務所内の病院に移されたが、6月26日に病死した。
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脚注 [編集]
- ^ 別冊歴史読本 ヒトラー神話の復活 P.108
