レーガノミクス
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歴史
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レーガノミクス(英: Reaganomics)とは、アメリカ大統領(任 1981–1989)ロナルド・レーガンがとった一連の自由主義経済政策である。
前民主党政権の政策が企業の活動を阻害し労働者の勤労意欲を奪ったとの主張から、市場原理と民間活力を重視し、軍備拡張する一方で、歳出削減と減税を行って刺激政策をとったが、結果的には対外債務と財政赤字の増大という「ふたごの赤字」を抱えることになった。
目次 |
概要 [編集]
レーガン大統領の一期目は前政権から受け継いだスタグフレーション状態の経済の回復が課題であった。政権はインフレと失業に注目した。レーガンの経済政策は減税による供給面からの経済刺激を主張するサプライサイド経済学に基づいている。またスタグフレーションの物価上昇という弊害を抑えるために「通貨高政策」を前提条件にしていた。経済学者の多くは、減税を経済の需要面から刺激する政策と考えるが、サプライサイド経済理論支持者は、供給面においてはるかに大きな効果があると主張した。ジョージ・H・W・ブッシュは当初、副大統領就任前にこの経済政策を「呪術経済政策(ブードゥー・エコノミー)」と呼び揶揄したが、すぐにレーガノミクスとして知られるようになった。急激な軍事支出の増加と並行して行われた減税は、巨額の財政赤字と累積債務の劇的な増加をもたらし、その結果、米国の負債は後任のジョージ・H・W・ブッシュ就任時にはレーガン就任時と比較しておよそ200%増加していた。レーガンの支持者は、大統領が年間予算案を提出するが実際には支出法案承認は下院でされることを論拠に、レーガンの政策が負債増加の排他的な原因ではないとする。
一方でこの財政赤字は税収増大によってわずかに相殺された。支持者の中にはサプライサイド経済学の租税政策の成功がこの要因であると考える者がいる。
より小さく出しゃばらない政府(小さな政府)を目指すという彼の頻繁な宣言とは裏腹にスターウォーズ計画など巨額の財政支出の増大が進み(経常赤字と合わせ双子の赤字と呼ばれる)、また官僚政治の肥大化が彼の政権の間に進んだという指摘もある。
展開と帰結 [編集]
レーガノミクスの主軸は、減税、歳出配分転換、規制緩和とインフレ退治であった。
- 減税により、労働意欲の向上と貯蓄の増加を促し投資を促進する。
- 福祉予算などの非国防支出の歳出削減により、歳出配分を軍事支出に転換し強いアメリカを復活させる。
- 規制を緩和し投資を促進する。
- 金融政策によりマネーサプライの伸びを抑制して「通貨高」を誘導してインフレ率を低下させる。
この政策群の理想的展開は、「富裕層の減税による貯蓄の増加と労働意欲の向上、企業減税と規制緩和により投資が促され供給力が向上する。経済成長の回復で歳入が増加し税率低下による歳入低下を補い歳入を増加させると共に、福祉予算を抑制して歳出を削減する。インフレーションは金融政策により抑制されるので歳出への制約は低下する。結果、歳出配分を軍事支出に転換し強いアメリカが復活する。」というものである。
実際の展開は想定とはかなり異なった。1970年代末からすでに金融政策はインフレ退治に乗り出しており、政権発足時にはかなり高金利になっていた。そこに、減税と歳出拡大をセットにした大型の財政政策が発動されることになったため、高金利はいっそう拍車がかかった。この高金利は民間投資を停滞させると同時に日本などの外国資金のアメリカへの流入を促進し、その為替レートをドル高に導いた。ドル高は、輸出減退と輸入増大をもたらし、インフレ率の低下へつながった。財政赤字の増大はこのようにして民間投資の犠牲と経常赤字によってバランスされインフレーションへはつながらなかった。一方で経済成長は低迷し、失業者は1000万人を越えて戦後最悪の経済状況となった。
1982年中にはインフレ率の低下から高金利政策は解除段階に入った。1983年には景気回復が始まったが、それは減税と歳出拡大という財政政策を受けた消費の増大(乗数効果)が主因であった。なお、税率を引き下げていたためこの経済回復の最中でも歳入はそれほど増加せず、SDIに代表される軍事歳出拡大に伴って財政赤字が拡大した。ドル高の持続と景気回復によりさらに経常赤字が拡大した。経常赤字が貯蓄投資バランスの不均衡を受け止めたため、また原油価格の大幅の下落という要因も加わり、インフレも顕在化することは無かった。なお、レーガン政権は「アメリカ経済は復活した」として、政策の効果を主張した。
1984年には失業率の低下や景況感の回復がさらに強まったが、経常赤字のますますの拡大は日欧に莫大な経常黒字をもたらし諸外国へインフレを輸出しているとの批判を浴びることになる。
1985年秋に、プラザ合意が形成され、為替相場は一気にドル安となった。
以後のアメリカ経済は1990年代初めまで輸出増大により経常収支が修正される一方で、国内需要が低迷し財政赤字は記録的に悪化した。
1980年代を総括すると、民間投資の伸びは実質ベースで1970年代を大きく下回り、国内の生産力増大に寄与したとはいえなかった。
企業の投資資金は、高金利による株安から他の企業の買収合併へ向かい、株式ブームを生み出した。なお、株式ブームは1987年のブラックマンデーにより終了した。しかし、この株式ブームはFRBの裁量により深刻な恐慌をもたらさなかったが、このことがアメリカ経済のFRB・金融政策依存と資産経済化をもたらすことになった。
ブードゥー経済学 [編集]
1980年のアメリカ大統領選挙に立候補したジョージ・H・W・ブッシュは、同じ共和党で指名を争ったロナルド・レーガンが政策に盛り込んだ一連の経済政策に対し、ブードゥー経済学(英:Voodoo Economics)と揶揄した。当時からサプライサイド派は経済学界においてほとんど支持を得ていない異端であったことによる。呪術経済学やまじない経済学などの訳語が当てられることがある。
疑似科学や、実証性を欠く科学研究を指してブードゥー科学と呼び慣わすことが多く、それと同様に根拠の疑わしさを揶揄する目的でブードゥーという言葉を使ったと言える。しかしながら、ブードゥーの発祥するハイチは世界でも一、二を争う貧しい国であり、その歴史的経緯を辿るならば、この表現は皮肉めいた冗談としても倫理的に問題がないとは言えない。