レーガノミクス

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自らの減税プランをテレビで説明するレーガン大統領, 1981年7月

レーガノミクス: Reaganomics)とは、アメリカ大統領(任 19811989ロナルド・レーガンがとった一連の自由主義経済政策である。

民主党政権の政策が企業の活動を阻害し労働者の勤労意欲を奪ったとの主張から、市場原理と民間活力を重視し、社会保障費と軍事費の拡大で政府支出を拡大させ[1]、同時に減税を行って刺激政策を採用し、経済規模時は拡大したが、貿易赤字と財政赤字の増大という「双子の赤字」を抱えることになった。

経緯[編集]

レーガン大統領の一期目は前政権から受け継いだスタグフレーション状態の経済の回復が課題であった。政権はインフレーション失業に注目した。レーガンの経済政策は減税による供給面からの経済刺激を主張するサプライサイド経済学に基づいている。またスタグフレーションの物価上昇という弊害を抑えるために「通貨高政策」を前提条件にしていた。経済学者の多くは、減税を経済の需要面から刺激する政策と考えるが、サプライサイド経済理論支持者は、供給面においてはるかに大きな効果があると主張した。

ジョージ・H・W・ブッシュは当初、副大統領就任前にこの経済政策を「呪術経済政策(ブードゥー・エコノミー)」と呼び揶揄したが、すぐにレーガノミクスとして知られるようになった。社会保障支出と軍事支出の増加と並行して行われた減税は、巨額の財政赤字と累積債務の増加をもたらし、政府の累積債務はレーガン大統領の就任時と比較して、後任のジョージ・H・W・ブッシュ大統領の就任時には、金額では909,041Millions$から2,601,104Millions$へ2.6倍、GDP比では33.4%から51.9%に増加した[2]

展開と結果[編集]

レーガノミクスの主軸は、社会保障費と軍事費の拡大で政府支出を拡大、減税、規制緩和、インフレ収束であった[1]

  1. 社会保障支出と軍事支出の拡大により、経済を発展させ、強いアメリカを復活させる[1]
  2. 減税により、労働意欲の向上と貯蓄の増加を促し投資を促進する[1]
  3. 規制を緩和し投資を促進する。
  4. 金融政策によりマネーサプライの伸びを抑制して「通貨高」を誘導してインフレ率を低下させる。

この政策群の理想的展開は、「富裕層の減税による貯蓄の増加と労働意欲の向上、企業減税と規制緩和により投資が促され供給力が向上する。経済成長の回復で歳入が増加し税率低下による歳入低下を補い歳入を増加させると共に、福祉予算を抑制して歳出を削減する。インフレーションは金融政策により抑制されるので歳出への制約は低下する。結果、歳出配分を軍事支出に転換し強いアメリカが復活する。」というものである。

実際の展開は想定とはかなり異なった。1970年代末からすでに金融政策はインフレ退治に乗り出しており、政権発足時にはかなり高金利になっていた。そこに、社会保障支出と軍事支出の拡大[1]と減税をセットにした大型の財政政策が発動されることになったため、高金利はいっそう拍車がかかった。

この高金利は民間投資を停滞させると同時に日本などの外国資金のアメリカへの流入を促進し、その為替レートをドル高に導いた。ドル高は、輸出減退と輸入増大をもたらし、インフレ率の低下へつながった。財政赤字の増大はこのようにして民間投資の減少と経常収支赤字によってバランスされインフレーションへはつながらなかった。

失業率は1980年の7.1%から1982年には9.7%に増大したが、1988年には5.5%に減少し[3]、失業者数は1980年の827万人から1983年には1071万人に増大したが1988年には670万人に減少した[4]

1982年中にはインフレ率の低下から高金利政策は解除段階に入った。1983年には景気回復が始まったが、社会保障支出と軍事支出の拡大[1]と減税という財政政策を受けた消費の増大(乗数効果)が主因であった。税率を引き下げていたためこの経済回復の最中でも歳入はそれほど増加せず、社会保障支出の拡大とSDIに代表される軍事歳出の拡大[1]により財政赤字が拡大した。ドル高の持続と景気回復によりさらに経常赤字が拡大した。経常赤字が貯蓄投資バランスの不均衡を受け止めたため、また原油価格の大幅の下落という要因も加わり、インフレも顕在化することは無かった。なお、レーガン政権は「アメリカ経済は復活した」として、政策の効果を主張した。

1984年には失業率の低下や景況感の回復がさらに強まったが、経常赤字のますますの拡大は日欧に、ハイテク製品による莫大な経常黒字をもたらし諸外国へインフレを輸出しているとの批判を浴びることになる。

1985年秋に、プラザ合意が形成され、為替相場は一気にドル安となった。

連邦政府機関の雇用者は1980年の497万人から1988年には536万人に増大し、軍人以外の連邦政府機関の雇用者数は1980年の287万人から1988年には311万人に増大した[4]

1980年代のアメリカ経済は、年度の通貨額ベースのGDPは1980年の2,724billions$から1988年には5,008billions$へ1.84倍に増大した[5]

企業の投資資金は、高金利による株安から他の企業の買収合併へ向かい、株式ブームを生み出した。なお、株式ブームは1987年ブラックマンデーにより終了した。しかし、この株式ブームはFRBの裁量により深刻な恐慌をもたらさなかったが、このことがアメリカ経済のFRB・金融政策依存と資産経済化をもたらすことになった。

ブードゥー経済学[編集]

1980年のアメリカ大統領選挙に立候補したジョージ・H・W・ブッシュは、同じ共和党で指名を争ったロナルド・レーガンが政策に盛り込んだ一連の経済政策に対し、ブードゥー経済学(英:Voodoo Economics)と揶揄した。当時からサプライサイド派は経済学界においてほとんど支持を得ていない異端であったことによる。呪術経済学まじない経済学などの訳語が当てられることがある。

疑似科学や、実証性を欠く科学研究を指してブードゥー科学と呼び慣わすことが多く、それと同様に根拠の疑わしさを揶揄する目的でブードゥーという言葉を使ったと言える[誰?]。しかしながら、ブードゥーの発祥するハイチは世界でも一、二を争う貧しい国であり、その歴史的経緯を辿るならば、この表現は皮肉めいた冗談としても倫理的に問題がないとは言えない[誰?]

脚注[編集]

関連項目[編集]