ザバイカル・コサック軍

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ザバイカル地方(2008年)。
ザバイカル・コサックの下士官(3番目、左)。

ザバイカル・コサック軍ロシア語Забайкальское казачье войскоウクライナ語Забайкальське козацьке військо)は、1851年から1918年までバイカル湖の周辺、ザバイカル州に存在したロシア帝国コサック軍の一つである。バイカル・コサックとも。

概要[編集]

ザバイカル・コサック軍は、1851年3月17日ザバイカルにおいてロシア皇帝ニコライ1世の命令によって編成された。軍の構成員はウクライナ人ロシア人からなるシベリア・コサックアジア系のブリヤート人エヴェンキ人、そして現地の農民であった。

ザバイカル・コサックは3つの騎兵連隊(第1・第2・第3ロシア騎兵連隊)と3つの歩兵旅団(第4エヴェンキ連隊、第5・第6ブリヤート連隊)を持ち、清国との国境警固とザバイカル地方治安維持のために務めた。軍の指揮監督権は、皇帝がコサックの中から選んで任命するアタマーンに属していたが、1871年からザバイカル州の軍事知事はアタマーンとして任命されるようになった。ザバイカル・コサック軍の中心地はザバイカル州のチタ市であった。

1858年にザバイカル・コサック軍からアムール・コサック軍が分岐され、アムール川沿いの国境警固を務めさせた。

1916年に女・子供を含むザバイカル・コサック軍の総人口は265,000人ちかくであった。平時にはコサック軍が義務を果たすために1つの親衛半百人隊、4つの騎兵連隊と2つの砲兵大隊を国家に出していたが、第一次世界大戦の時には1つの親衛半百人隊、9つの騎兵連隊、4つの砲兵大隊と3つの予備百人隊、合わせて約14,500人を出していた。コサックの軍服は高い毛皮帽子、深青色の上着と灰色のズボンで、軍色はアジアを象徴する黄色であった。

ザバイカル・コサックは以下ほどの軍役に参陣していた。

1918年共産党ボリシェビキ政権が成立すると、ザバイカル・コサック軍は廃止された。それに対してロマン・ウンゲルングリゴリー・セミョーノフなどが率いるコサックが反発し、ロシア内戦に加わった。1920年にボリシェビキの勝利に伴ってコサックは最終的に廃止され、コサックの残党は満州へ逃亡した。

参考文献[編集]

  • (ロシア語) История казачества Азиатской России : в 3 т. / В.В. Алексеев ; Н.А. Миненко. - Екатеринбург, 1995.

外部リンク[編集]