ニコラエフスク・ナ・アムーレ

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ニコラエフスク・ナ・アムーレ
Никола́евск-на-Аму́ре
Nikolaevsk-na-amure old00.jpg
20世紀初頭のニコラエフスク
Flag of Nikolaevsk-na-Amure (Khabarovsk kray) new.png Coat of Arms of Nikolaevsk-na-Amure (Khabarovsk kray) (2002).png
町旗 町章
座標 : 北緯53度8分 東経140度44分 / 北緯53.133度 東経140.733度 / 53.133; 140.733
歴史
建設 1850年
行政
ロシアの旗 ロシア
 連邦管区 極東連邦管区
 行政区画 ハバロフスク地方の旗 ハバロフスク地方
 町 ニコラエフスク・ナ・アムーレ
人口
人口 (2002年現在)
  町域 28,492人
その他
等時帯 ウラジオストク時間UTC+11
郵便番号 682460
市外局番 +7 42135
公式ウェブサイト : http://www.nikol.ru

座標: 北緯53度8分 東経140度44分 / 北緯53.133度 東経140.733度 / 53.133; 140.733 ニコラエフスク・ナ・アムーレ(ロシア語:Никола́евск-на-Аму́ре、英語:Nikolayevsk-on-Amur または Nikolayevsk-na-Amure)はロシア極東部、ハバロフスク地方のニコラエフスキー地区の行政中心都市・港湾都市。漢字では、尼港と表記される。この町はアムール川河口部に流入する地点から80km上流に位置しており、川の左岸(北岸)にある。ハバロフスクからは977km、コムソモリスク・ナ・アムーレの鉄道駅からは582kmの距離にある。人口は、2002年調査で28,492人。

歴史[編集]

アムール川流域は女真族などが住んでいた広い意味での満州の一部で、かつての領土であった。この町もかつては満州語で「廟街」(ミィアオジエ、 Miàojiē)と呼ばれており、サハリンなどとの毛皮貿易で栄えていた。

日本の探検家間宮林蔵1809年、樺太およびその対岸のアムール川下流探検の際に『東韃地方紀行』という記録を残しているが、この中で「フヨリ」と彼が呼ぶ町のことに触れており、これは現在のニコラエフスク・ナ・アムーレに一致するとみられている。彼は、当時清の黒竜江将軍の管轄下にあったアムール川の左岸を探検し、その中でいくつかの町を訪れている[1]

19世紀半ば、ロシア人は清の領土だったアムール流域がほぼ手付かずで管理が行き届いていないことを知り、アムールを遡上しての調査に着手した。ニコラエフスク哨所は1850年8月13日、アムール川河口から遡上したゲンナジー・ネヴェリスコイ(Gennady Nevelskoy)らによって設置された。この駐在所は町としての資格を認められ、沿海州が設置された1856年にコラエブスキーからニコラエフスクに改称した。清のアロー戦争敗北後、外満州一帯は1858年アイグン条約1860年北京条約ロシア帝国に割譲され、この地もロシアの一部となった。

1865年、町は沿海州の州都になり、州知事の任地に指令されて、ロシア極東で最初の新聞が発行された。この新聞は1920年まで続いていたが、赤軍パルチザンによって廃刊させられた。この地方では毛皮などの交易が盛んで、外国人貿易商、わけてもアメリカ商人は、住み着く者も多かった。[2]

1861年文久元年)、箱館奉行は、武田斐三郎を航海の責任者として交易船を仕立て、ニコラエフスクに派遣した[3]塩飽諸島粟島に伝えられていた『黒竜江誌』によれば、支配調役・水野正太夫以下、諸術調所教授・武田斐三郎、医師・深瀬洋春、貿易商・紅屋清兵衞、ロシア語通訳など41人が亀田丸に乗り組み、箱館から35日間の航海でニコライエフスクに到着し、46日間滞在した。一行はロシア鎮台府の盛大な歓迎を受け、軍事施設や要害を見学した。[4] この来訪は、ロシア側の東シベリア総督府にも記録が残されている。それによれば、在箱館ロシア帝国領事館から、事前に「日本が洋式スクーナー船を派遣するので歓迎してくれ」と要請があり、ある程度日本語がわかる領事館付きのロシア人見習い水夫も同行していた。日本側の目的は、洋式船での航海修業、港湾の水先案内や法令、制度などの見学、要塞の視察、貿易の可能性の調査と、多様だった。[5]

1869年明治2年)、日本公務弁理職(総領事)に任じられたフランス人のモンブラン伯爵が、樺太領有権問題にからんで、ニコラエフスクがロシア側の樺太開拓基地となっていることを、日本の外務省に報告している。武器製造工場があり、ヨーロッパから運ばれた武器もここに備蓄されている、というのであった。[6]

1878年、海軍施設が建設途上の不凍港ウラジオストクへ移設され、シベリア艦隊が母港を移したことがひびいて、ニコラエフスクはさびれた。1890年にニコラエフスクを訪れたアントン・チェーホフは、宿を見つけることもできなかった。[2]「いまでは家屋の大半は家主たちに見すてられ、なかば崩れて、窓枠のない黒いいくつもの窓が、頭蓋骨の眼窩のようにこちらを見つめている。住民たちは眠りこけたような酒びたりの生活を送って、総じて食うや食わずの、その場しのぎの暮らしをしている」と、チェーホフは記した[7]

1886年(明治19年)にニコラエフスクを訪れた黒田清隆も、「市街中いたるところに廃屋空き屋がある」と記している。当時の人口は1,971人にすぎず、入港する艦船も年間20隻ほど。「陸運が発達してきているので、やがてこの町は見捨てられ、ただの漁村になるかもしれない」との感想を黒田は抱いた。 [8]

20世紀初頭のニコラエフスク

しかし1890年代には、毛皮貿易と金鉱にくわえて、なによりも漁業が発展し、町は繁栄をとりもどした。シベリア鉄道がなかった当時、ニコラエフスクには、河川交通によってシベリア内陸部へ通行できるという利点もあった。[2] 

ニコラエフスクおける事業としての漁業は、1892年函館在住の陸軍予備中尉・堀直好が手がけたことに始まる。それを見たロシア側が日本人を歓迎したため、多くの日本人が参入したが、1901年に日本人の漁業は禁止され、1907年に調印された日露漁業協約においてもニコラエフスク近辺は対象からはずされ、ロシア人と共同経営をしていた島田商会などをのぞき漁業関係者は撤退した。しかし海産物の交易は続き、第一次世界大戦による食糧不足で、ロシア国内の需要が急増するまで、ニコラエフスクの主要海産物である鮭の輸出先は日本であり、居留邦人の数も多く、領事館が設けられていた。[9]

1886年にニコラエフスクへ入った日本人・島田元太郎は、1896年には島田商会を設立し、大きく発展させた[10]1895年には、天草の二組の夫婦が、それぞれに若い女性たちを連れてニコラエフスクへ渡り、水商売を始めた。その後、天草からの渡航者は、水商売に限らず、洗濯業や洋服仕立業で、家族ぐるみの移住者も増え、成功して貿易業を営んだり、旅館経営をする者も現れた。[11] 

ニコラエフスクは、その発展のために、移住したユダヤ人に対して、ロシア人と同じ権利を与えていたため、町の有産階級の大多数はユダヤ人で、漁業に関係していた。また、親日的な気風があり、日本人の漁業家も便宜を得ていた。[12]

1914年、アムール下流地域は沿海州から分割されてサハリン州となり、ニコラエフスクは、州の行政の中心になった。この当時には、冬期も居住する永住人口が12,000人になり、学校、図書館、公民館、公園などの公共施設も充実してきていた。映画館も2軒あり、電灯や電話もあった。[2]

廃墟となったニコラエフスク(尼港)

しかし、ロシア革命後のロシア内戦期、1920年の春から夏にかけて、尼港事件が起こった。赤軍パルチザンによって占領された町では、6,000人の住民が虐殺され、建物はことごとく破壊され、廃墟となった。犠牲者はロシア人ばかりではなく、日本人居留民と日本軍守備隊およそ700名余りが含まれていたため、国際的批判を浴びることになった。[2]

ニコラエフスクは1926年にニコラエフスク・ナ・アムーレと改称した。現在もニコラエフスク・ナ・アムーレはアムール川の主要港の一つであり、漁業や木材輸出などを行っている。

関連項目[編集]

参照・脚注[編集]

  1. ^ ロシア語の地図: Фуіори(フヨリ)の名が河口の左岸側に見られる
  2. ^ a b c d e エラ・リューリ・ウィスウェル 齊藤学和訳 『ニコラエフスクの破壊 米訳者前文』 ユーラシア貨幣歴史研究所、1993年、2-10頁。
  3. ^ 白山友正『武田斐三郎伝』北海道経済史研究所発行、昭和46年
  4. ^ ようこそ粟島へ 粟島歴史発見 粟島叢書 2.黒竜江誌
  5. ^ トロイツカヤН. A. 有泉和子訳『ロシア極東アルヒーフ文書に見られる日本および日本人』 (ロシアの中のアジア/アジアの中のロシア(3)) -- (開かれたアルヒーフとアルヒーフから甦る世界) 「スラブ・ユーラシア学の構築」研究報告集 (17)、2006、北海道大学スラブ研究センター
  6. ^ 国立公文書館 アジア歴史資料センター外務省外交史料館/外務省記録1門4類1項 樺太境界談判一件 第二巻 Ref:B03041106700
  7. ^ チェーホフ、松下裕訳 『『チェーホフ全集12 サハリン島』』 筑摩書房1994年、68頁。ISBN 4480028129
  8. ^ 黒田清隆 『環遊日記 上』、1987年、52-57頁。
  9. ^ 北海道拓殖銀行 『調査彙纂 第3巻 第2号』 北海道拓殖銀行、1920年、101-111頁。
  10. ^ スラブ研究センターニュース 季刊 2007年秋号 No.111 図書館だより 北海道大学
  11. ^ 石塚経二『尼港事件秘録 アムールのささやき』千軒社、昭和47年
  12. ^ 田淵義一 尼港の大惨事 (上・下) 時事新報 1920.4.20-1920.4.21

外部リンク[編集]