ヘレン・ケラー

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ヘレン・ケラー
Helen Keller
(1904年頃)
生誕 Helen Adams Keller
1880年6月27日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国アラバマ州タスカンビア
死没 1968年6月1日(87歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国コネチカット州イーストン
出身校 ラドクリフ女子大学(現:ハーバード大学
署名

ヘレン・アダムス・ケラー: Helen Adams Keller1880年6月27日 - 1968年6月1日)は、アメリカ合衆国教育家社会福祉活動家著作家である。

盲ろうの障害を背負いながらも、世界各地を歴訪し、身体障害者の教育・福祉に尽くした。

略歴[編集]

8歳の頃のヘレン・ケラー(左)とアン・サリヴァン(1888年7月)
ヘレン・ケラー(1904年)
ヘレン・ケラー(1912年11月)
ヘレン・ケラー(1920年頃)
  • 1880年6月27日、アメリカ合衆国アラバマ州タスカンビアで誕生。父のアーサー・ケラーはスイスから移住したドイツ系の地主の息子で、アーサーの母は南軍の総司令官、ロバート・E・リーとはまたいとこの関係にあり、アーサーもまた南北戦争時は南軍大尉だったドイツ系アメリカ人であった。母のケイト・アダムス・ケラーも父のチャールズ・アダムスが南軍の准将であり、両親ともに南部の名家の出身である。兄弟は異母兄が2人、のちに同母妹のミルドレッドを持つ。
  • 1882年、2歳(生後19か月)の時に高熱にかかる。医師と家族の懸命な治療により、かろうじて一命は取り留めたものの、聴力、視力、言葉を失い、話すことさえ出来なくなった。このことから、両親からしつけを受けることの出来ない状態となり、非常にわがままに育ってしまう。
  • 1887年、ヘレンの両親は聴覚障害児の教育を研究していたアレクサンダー・グラハム・ベル電話の発明者として知られる)を訪れ、ベルの紹介でマサチューセッツ州ウォータータウンにあるパーキンス盲学校の校長マイケル・アナグノスに手紙を出し、家庭教師の派遣を要請した。3月3日に派遣されてきたのが、同校を優秀な成績で卒業した当時20歳のアン・サリヴァン(通称アニー)であった。サリヴァンは小さい頃から弱視であったため(手術をして当時はすでに視力があった)、自分の経験を活かしてヘレンに「しつけ」「指文字」「言葉」を教えた。おかげでヘレンは、あきらめかけていた「話すこと」ができるようになった。サリヴァンはその後約50年にもわたって、よき教師として、そして友人として、ヘレンを支えていくことになる。
  • 1888年5月、ボストンのパーキンズ盲学校に入学。以後3年間、断続的に学ぶ。
  • 1890年3月、ボストンの聾学校、ホレース・マン学校の校長、サラ・フラーから発生法を学ぶ。
  • 1896年10月、ケンブリッジ女学院に入学、まもなく父アーサーが死去。
  • 1897年12月、サリヴァンが校長のアーサー・ギルマンと衝突したため、ヘレンはケンブリッジ女学院を退学。2人はボストン南郊のレンサムに家を購入し落ち着く。ヘレンは、もう一人の家庭教師、キースの手を借りて勉強を続ける。
  • 1900年10月、ラドクリフ女子大学(現:ハーバード大学)に入学。
  • 1902年、『わたしの生涯』を出版する。
  • 1904年、ラドクリフ女子大学を卒業、文学士の称号を得る。
  • 1906年、マサチューセッツ州盲人委員会の委員となる。
  • 1909年アメリカ社会党に入党。婦人参政権運動、産児制限運動、公民権運動など多くの政治的・人道的な抗議運動に参加する。また、著作家としても活動を続ける。
  • 1916年世界産業労働組合 (IWW) に共感を覚え、活動に参加。1917年ロシア革命を擁護した。
  • 疲れのせいかサリヴァンの目の病気が再発したため、ポリー・トンプソンが手伝い(のちに秘書)として、ヘレンとサリヴァンのもとで働くようになる。
  • 1917年生活不安のためレンサムの家を売却、ニューヨーク市、クイーンズ区のフォレスト・ヒルズに転居。
  • 1918年ハリウッドで自叙伝を映画化した「救済」に出演。
  • 1922年妹と同居中の母ケイト死去。
  • 1927年『「わたしの宗教」』を出版。
  • 1936年10月20日、サリヴァン死去。亡くなる直前、サリヴァンは、サリヴァンが病床にあるという理由で岩橋武夫からの来日要請をためらっていたヘレンに「日本に行っておあげなさい」と遺言したという[1]
  • 1937年昭和12年)4月15日、浅間丸に乗りトンプソンとともに横浜港に到着し日本各地を訪問した。
    • 横浜港に到着したあとすぐに新宿御苑へ行き、そこで開催されていた観桜会で昭和天皇に拝謁した。
    • この訪日でヘレンは「日本のヘレン・ケラー」と言われた中村久子と会った。
    • この訪日でヘレンは秋田犬を所望し、後に2頭を贈られた。
    • 東京盲学校(現:筑波大学附属視覚特別支援学校)、同志社女子大学を訪問。
    • この訪日の時に、ヘレンは横浜港の客船待合室で財布を盗まれてしまう。そのことが新聞で報道されると、日本全国の多くの人々からヘレン宛てに現金が寄せられた。その額はヘレンが日本を離れる時までに盗まれた額の10倍以上に達していた。
    • 4月19日には大阪、4月30日には埼玉、そして5月に入ると日本各地を次々と旅して回った。
    • 8月10日に横浜港より秩父丸に乗りアメリカへ帰国した。
    • フォレスト・ヒルズの家からコネチカット州のウエスト・ポートに移転。
  • 1939年ウエスト・ポートで、慈善家によってヘレンのために特別に建てられ寄贈された家に転居。
  • 1946年、海外盲人アメリカ協会の代表として、トンプソンとともにヨーロッパを訪問中の11月ヘレンの住宅が全焼。原稿、資料その他貴重な所有物をほとんど失う。
  • 1947年10月、再建、入居。
  • 1948年(昭和23年)、8月、2度目の日本訪問。2ヶ月滞在して全国を講演してまわる。これを記念して2年後の1950年(昭和25年)、財団法人東日本ヘレン・ケラー財団(現:東京ヘレン・ケラー協会)と財団法人西日本ヘレンケラー財団(現:社会福祉法人日本ヘレンケラー財団)が設立されている。
  • 1951年南部アフリカを訪問。
  • 1952年フランス政府からレジオン・ド=ヌール勲章を授けられる。
  • 同年から1957年にかけて、中東中部アフリカ北欧、日本を訪れる。
  • 1955年(昭和30年)、サリヴァンの伝記『先生』を出版。3度目の訪日も実施し、熱烈な歓迎を受けた[2]。訪日の理由の一つは、1954年(昭和29年)に没した朋友岩橋武夫に花を手向けるためであった。ヘレンは空港で岩橋の名を叫び、岩橋の家では泣き崩れたという。勲三等瑞宝章を授けられる。
  • 1960年、トンプソン死去。
  • 1961年、軽い脳卒中になり、徐々に外界との接触を失う。
  • 1964年9月、アメリカ政府から大統領自由勲章が贈られる。
  • 1968年6月1日、コネチカット州イーストンの自宅で死去。87歳没。ワシントン大聖堂で葬儀が行われ、地下礼拝堂の壁内にサリヴァン、トンプソンと共に葬られている。死後、日本政府から勲一等瑞宝章が贈られる。

政治的活動[編集]

ヘレンは福祉活動のみならず、広範囲な政治的関心を持って活動した女性であった。当時としては先進的な思想を持ち、男女同権論者として婦人参政権避妊具の使用を主張した。また、人種差別反対論者であり、過酷な若年労働や死刑制度、そして第一次世界大戦の殺戮にも反対した。

これらの活動のため、ヘレンは FBI の要調査人物に挙げられている。最初の訪日の際には特別高等警察の監視対象になっていた[3]

人物[編集]

  • 「三重苦」だったと言われているが、発声に関してはある程度克服した。ヘレンの妹の孫によれば、抑揚はないものの話すことができたという[4]
Anne_Sullivan_-_Helen_Keller_memorial
  • ヘレンは、自身の考える20世紀の三大重要人物を問われて、エジソンチャップリンレーニンを挙げている。
  • ヘレンとサリヴァンの半生は『The Miracle Worker』として舞台化および映画化されており、日本では『奇跡の人』という日本語題で何度も上演されている。英語の「The Miracle Worker」には「(何かに対して働きかけて)奇跡を起こす人」といった意味があり、サリヴァンのことを指すが、日本ではヘレンのことと誤解され、「奇跡の人」がヘレンの代名詞として用いられることも多い。サリヴァンはヘレンの初訪日直前に病没しているため、日本ではサリヴァンを知る人がごく一部しかいなかったのが誤解の原因と言われている。
  • ヘレンを快く思わない者も少なくなく、日本の重光葵の手記『巣鴨日記』[5]によると、巣鴨プリズンに収監されている元将官たちの中には、ヘレンのニュースが耳に入ってきた際、ヘレンのことを「あれは盲目を売り物にして居るんだよ!」とこき下ろしている者もいたという。このことに関して重光は「彼等こそ憐れむべき心の盲者、何たる暴言ぞや。日本人為めに悲しむべし」と元将官たちを痛烈に批判すると同時に、見解の偏狭さを嘆いている。
  • 幼少時、ヘレンは同じく盲目の塙保己一を手本に勉強したという。塙のことは母親から言い聞かされていたとされる[1]
  • 秘書で元新聞記者のピーター・フェイガンと相思相愛になり婚約までしたが、独断だったこともあってヘレンの家族の反対に遭い、破談にさせられた。特に、保守的な思想を持つ母親は、労働者運動をしていたピーターを嫌っており、その反対ぶりはヘレンの妹の夫をしてライフルをピーターに向けて「今後一生近付くな。さもなければ射殺する」と脅迫したほどだったという。結局、ピーターは秘書を辞めさせられたばかりか、これがヘレンとの今生の別れとなり、別の女性と結婚。一女をもうけたのちに没した。ヘレンもこれが最初で最後の恋愛となり、生涯独身を通した[1]
  • 健常者と同様に、乗馬や複葉飛行機の同乗を体験した。

語録[編集]

Life is either a daring adventure or nothing.
「人生は怖れを知らぬ冒険か、それとも無かのどちらかである」

{{Cquote|I am only one, but still I am one. I cannot do everything, but still I can do something; And because I cannot do everything I will not refuse to do the something that I can do.
「私は一人の人間に過ぎないが、一人の人間ではある。何もかもできるわけではないが、何かはできる。だから、何もかもはできなくても、できることをできないと拒みはしない」                             

Although the world is full of suffering, it is full also of the overcoming of it.                                「世の中はつらいことでいっぱいですが、それに打ち勝つことも満ち溢れています。」

We can do anything we want to if we stick to it long enough.                                         「こつこつと気長にやれば、人が望む、どんなことだってできるものです。」

We could never learn to be brave and patient, if there were only joy in the world.                                         「もしも、この世が喜びばかりなら、人は決して勇気と忍耐を学ばないでしょう。」

著書[編集]

  • The Story of My Life(1903年)
『わが生涯』皆川正禧訳 内外出版協会 1907
『我身の物語 ヘレン・ケラー嬢自叙伝』三上正毅訳 東京崇文館書店 1912 
『わたしの生涯』岩橋武夫訳 1966年、角川文庫
『奇蹟へのあゆみ』川西進訳 現代世界ノンフィクション全集 第14 筑摩書房 1968
『ヘレン=ケラー自伝』今西祐行訳 少年少女講談社文庫 1972
The Story of My Life,Midstream(1929年)の翻訳。
  • My religion(1927年)
『我宗教』土居米造訳 東京新教會出版部 1933
『わたしの宗教』鳥田四郎訳 新教会 1971
『わたしの宗教』柳瀬芳意訳 静思社 1976
『光の中へ(1992年、めるくまーる、鳥田恵訳)
  • 『楽天主義』塚原秀峰訳 内外出版協会 1907 
  • 『楽天主義』岡文正監訳 サクセス・マルチミディア・インク 2005
  • 『奇跡の人の奇跡の言葉』高橋和夫,鳥田恵共訳 エイチアンドアイ 2006

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c NHK総合テレビ歴史秘話ヒストリア』 2012年2月29日放送分より[出典無効]
  2. ^ この時、講演での通訳を務めたのが『赤毛のアン』の翻訳で有名な村岡花子だった。「三重苦の私を、日本の皆さまが心からご歓待くださるので、感謝にたえません。しかし、あなたがたの国、日本には私以上に不幸な人たちがいるのに、なぜその人たちにもっと温かい手をさしのべてくださらないのでしょうか」と話した言葉を花子はことあるごとに子供たちに伝えた(村岡恵理責任編集『村岡花子と赤毛のアンの世界』河出書房新社 p.12)。
  3. ^ NHK総合テレビ 『歴史秘話ヒストリア 「ニッポン大好き!がんばって!〜ヘレン・ケラー 日本との友情物語〜」』 2012年2月29日放送[出典無効]
  4. ^ NHK BS1 『アメリカ魂のふるさと 「伝統と変革のはざまで〜南部」』 2011年11月6日放送[出典無効]
  5. ^ 文藝春秋1952年8月号掲載

外部リンク[編集]