さくまあきら

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さくま あきら(本名:佐久間 晃(読み同じ)、1952年7月29日 - )は東京都杉並区出身のゲームライター、作家血液型A型

人物[編集]

東京都立武蔵丘高等学校から一年浪人。立教大学経済学部劇画村塾出身。小池一夫曰く「自分の一番弟子」。自身が中学生のときから強い影響を受けたという作曲家のすぎやまこういちにあやかって、ペンネームを平仮名にする。

漫画評論家を廃業した後は、『週刊少年ジャンプ』にて1982年-1995年にわたり掲載された読者投稿コーナー『ジャンプ放送局』の構成や、コンピュータゲーム桃太郎伝説』(桃伝)、『桃太郎電鉄』(桃鉄)シリーズの生みの親として有名。現在は『桃鉄』シリーズを中心としたゲーム作りに勤しむ。

堀井雄二とは学生時代からの友人である。

既婚者で妻と娘が1人、孫娘が2人。藤岡藤巻藤岡孝章は従兄。

2011年7月6日付で文化人タレントとしてビー・ブレーブと業務提携契約を締結[1]、その後同契約を解消しフリーランスに戻る。

略歴[編集]

学生時代[編集]

実家は玩具店。3歳の時に母親を亡くしたため、実の母の顔を全く覚えていない。その後父親の再婚で継母と暮らすようになるも、反りが合わず、よく自分や姉に対し嫌味な発言をされたという。子供時分から思春期に至るまで良い思い出はなく、たびたび家出をすることで自我を主張していたという。成人したのちに親戚に「よく不良にならなかった」と感慨深く言われたという(そのような経緯もあり、現在の自分の家族(特に養娘や孫娘)に対しては血縁関係の有無を越えた家族として接している)。

幼少の頃から漫画に親しんでいたこともあり、同級生よりも漢字を覚えるのが早く、優等生と呼ばれていた。しかし、バンドや漫画にはまったことから成績が下降。高校時代には数学で0点を記録し、物理部の部員でありながら物理で赤点を取り話題になった。それでも成績の良いクラスメートの勉強法を真似して持ちなおし、一浪の末に立教大学へ進学。漫画研究会に所属し、漫研繋がりで早稲田大学の堀井雄二と知り合い、友人となる。同じく早稲田大学の土居孝幸とも出会い、卒業後再会し仕事を共にする事となる。一年留年の後に大学卒業後、ライターとなった。

大学卒業後[編集]

25歳の頃に、当時開講したばかりの劇画村塾へ「一期生には大物が出る」との理由で入塾。編集コースに参加したがあまり身が入らず、漫画原作などを執筆していた。

『ジャンプ放送局』などの編集に参加する一方、漫画評論家として活動していた。その頃の評論は単行本『だからマンガ大好き!』(1982年)『まんが雑学ゼミナール まんがを100万馬力で読む方法』(1983年)にまとめられている。また、夏目房之介の『粋なトラブル』(1984年)など漫画の単行本に解説文を寄稿することもあった。

後に堀井雄二らとともに「花伝社」を設立し、新人漫画家を育成する雑誌『マンガハウス』を発行するも、億単位の赤字を出し2年で終了。その十数年後に、同様のコンセプトで『チョコバナナ』という雑誌を創刊するも、不況のあおりを受け16巻(1995-1998)で停滞・休刊となった。

ゲーム業界へ[編集]

その後、堀井が製作した『ドラゴンクエストII 悪霊の神々』が行列ができる程の社会現象で品薄状態になり、さくまも購入できなかったことから、友人である堀井の元へソフトを貰いに行こうと考えたが、土居孝幸の家のほうが近いことから、そっちに借りに行こうということになり、土居の家でお茶飲みながら話をしている内に「竜王を倒すのが桃太郎っぽいよね」「俺たちもゲームを作りたいよね」「ジャンプ放送局7巻の表紙に“太郎ズ”の絵が描かれているけど、ゲームの村も金太郎の村、浦島の村としたらわかりやすいよね」と話が弾み、堀井から「ゲームは儲かるよ。出版社をしていたときの多額の借金も返せるよ」と言われたことや、『ドラゴンクエストIII そして伝説へ…』の発売日が遅れることを事前に教えてもらっており、その当初の発売予定日が12月だったことから、12月より前に発売すればそこそこ遊んで貰えるかもという思惑を抱き、ゲーム製作の話が持ち上がる。

身内のスタッフを「蟹を食べよう」という口実で誘うため、札幌に本社があったハドソン(現・コナミデジタルエンタテインメント)を製作元に選んだ。これにより桃太郎伝説の発売が急遽決まったため、3か月で製作された。シナリオは原稿用紙4000枚に及び、ショッカーO野が手書きの原稿をワープロで打ち直した。売れなかったら『ジャンプ放送局』でギャグにするつもりだったらしい。1987年10月26日ファミコン用ゲームソフト『桃太郎伝説』が発売、思いがけず売れたため、その後シリーズ化される事となる。なお、製作の際、堀井にはテストプレイなどで微妙なところを教えてもらえたとのことで、困ったら友人のよしみで堀井に作らせようと目論んでいたとのこと[2]

その後、ゲーム開発や連載などで多忙を極める。1995年当時は年にゲームを4本も製作していた他「ジャンプ放送局」なども抱え、休む暇もなかった。同年、病院で血圧を測ったとき数値が200を越え看護師に驚愕される。

その数か月後の同年12月にトイレで突如倒れ、脳内出血と診断される。さらに糖尿病まで発覚。翌月にはジャンプ放送局が終了しているが、この製作自体は数か月前に終わっており、当時は『チョコバナナ』の編集長を務めていた。後のさくま曰く「それまでも周囲に血圧を測れと言われていたらしいが、全く聞く耳を持たなかった」「食事療法(1日1600キロカロリー)をしたら、それだけで1か月で5kgやせた。昔なら確実に1日3500キロカロリー食べていた」とのこと。

退院後、1年半以上に及ぶリハビリ生活の傍ら、ゲーム製作や『チョコバナナ』の編集、アニメ雑誌『Magazine MEGU』の読者コーナー「☆比喩魔(ほしひゆま)」の編集などを続ける。その様は周囲から「とても病人の仕事のペースじゃない。そもそも病人は仕事しない」と言われた。その一方で、業界では重体説や再起不能説が囁かれていたという。

しかし、それ以降も現在に至るまで、三度の食事は基本的に外食、自宅で食事する際もテイクアウトの弁当などで済ませていることが多い。そのため栄養が偏りがちな上に糖分や塩分の摂取が過剰なため、主治医から諸々の注意を受けている。

1997年、『桃伝』から数えてゲーム製作10周年を迎えた。記念として製作された『怪物パラ☆ダイス』には、友人の堀井雄二らが登場するモンスターのデザインを提供した。また、さくまとこれまで関わった先輩・後輩・弟子ら総勢50人の「お祝いメッセージ」が収録され、裏技で見ることが出来る。

後輩のいしぜきひでゆきの誘いもあって、2010年4月に大阪電気通信大学の客員教授となる。

逸話[編集]

ゲーム関連[編集]

  • 『桃鉄』を製作する経緯について、さくまは、『桃伝』の時すでにやめると言っていたが、その後オールナイトニッポンの企画で『忍者らホイ!』を製作するから監修してくれと頼まれ、投稿募集してやると言っていたが、自分サイドのプロデューサーが色々ゴタゴタ起こして、その責任で作らされることになった。その『忍者らホイ!』もトラブルでなかなか出来上がらず何年もかかってしまい「こっちは出来ているが向こうが出来上がらないので暇だった」時に模造紙で作ったのが始まり[2]
  • ニンテンドーDSで発売された『桃太郎電鉄DS TOKYO&JAPAN』は携帯アプリ版の『TOKYO』『JAPAN』を基本にして製作したため、過去のシリーズから省かれる要素が多かった。さくまはそれに対して意に介さない発言をした。
  • Xbox 360で発売された『桃太郎電鉄16GOLD』には、Xbox Liveによるネット対戦モードが搭載されていない。その件について、日記で「自分にオンラインに関する知識が全く無いため。勉強するつもりも無い」という趣旨の発言をした。次作の『桃太郎電鉄20周年』からはハドソンスタッフの尽力もあってオンライン対戦対応が実現した。
  • 以上のように自身に興味のないところははぐらかしたり、意に介さないこともあるが、基本的には厳しい作り手として有名である。『新桃太郎伝説』製作時において、若手スタッフ4人が考え出した、原稿用紙にして20枚を超えるゲーム中のメッセージを最初にさくまに見せたとき、「ダメだ!」の一言で総ボツにし、村人ただ一人のメッセージすら採用しなかったという。理由は「読み手のことを全く考えていない」ため。(『新桃太郎伝説 究極攻略本』より)
  • 旅行・食べ歩きが趣味であり、日記では『桃鉄』の取材をかねて一日を外食に費やしている。
  • さくまはハドソンによる度重なる怠慢・不手際に悩まされており、自身の日記で度々批判をしている。
    例として、
    • イベントやキャンペーンの交通費、宿泊費はハドソンの負担ではなく、全て自腹[3]
    • 2009年頃、ある会社が仕事の話をハドソンに持ちかけてくるも、さくま本人に伝えずに無断で断る[4]
    • 進ぬ!電波少年』のT部長がさくまに会いたくてハドソンに連絡したのに勝手に断る[4]
など。
さくまは「開発スタッフとは本当にいい関係で仕事が出来ていているのに、他の部署の仕事の仕方は東京電力にそっくり」と批判している[4]
  • 桃太郎伝説』シリーズの続編を何年も作っていない理由は、「スタッフが次々に天狗になっていくのが嫌になって、作りたくなくなっちゃったから」と語った。さくまによると、「ハドソンのゲームは製作開始から1年で発売しないといけない決まりがあるため、スタッフにダンジョン構図や村のデザインを頼むと、『これでいいんです』と意見を聞かなくなったり、ひどいのになると、『私がここを作らなければゲームは発売できない!』とふんぞり返っちゃったりと、出来上がっていない作品でも平気で発売してしまう」とスタッフの態度の悪さを指摘していた[5]
  • 東日本大震災2011年3月11日)で、三陸沖が被災して製作しづらくなったことを理由に、『桃太郎電鉄2012(仮)』(Wii) の製作中止を同年4月15日に自身の日記で正式に発表した後、その1週間後に被災地・宮古市から「来年以降で構わないので、東北復活編の制作をお願いします」というメールが着た時は、さくまは「被災地の方に言われてしまうと、うれしいやら、つらいやら…」と複雑な想いになったことがある[6][7]

その他[編集]

  • 幼少の頃から大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)のファン。同球団に憧れ、野球選手を目指すが、体が小さかったため諦める。また、『月刊OUT』で担当していた読者コーナーには、彼の大洋びいきを揶揄して当時横浜大洋のシンボルカラーは濃紺だったことにかけて「大洋の投手は濃紺(ノーコン)」等といった、いじりネタがしばしば見られた。また、このためか『桃太郎電鉄』シリーズでは横浜駅のプロ野球チームに関する裏技や横浜ベイスターズの選手をモデルとしたキャラクターが登場するなどの仕様が存在する。
  • 『月刊OUT』で担当していた読者コーナーの一つ「私立さくま学園」は書籍化もされた。また、連載1周年の際はさくまの知り合いの著名人がコーナーの形態に基づいたお祝いコメントを寄せたが、さくま本人が1号早く1周年と銘打っていたことが後に発覚した。
  • 『マンガハウス』を創刊したきっかけは、手塚治虫が新人漫画家発掘のため発行していた雑誌『COM』が廃刊された時、同様のコンセプトの雑誌を創る事を決意したため。さくまは編集部まで最新号を買いに行くほど愛読していた。
  • スペクトラムの事実上ラスト・スタジオ・アルバムとなった『SPECTRUM BRASSBAND CLUB』の企画書は作詞家を目指していた時期のさくまが「綾狩一郎」名義で書いたもの。バンドのそれまでの路線に比してあまりにも突飛な企画内容だったため、バンドのメンバー内でも意見が真っ二つに分かれ、会議が紛糾した挙句、当時のディレクターがその場で解散命令を出したという。さくまはコミックバンドだと信じ込んでギャグ満載の企画書を持ち込んだのだが、スペクトラムが日本有数の実力派ブラス・ロックバンドと知り驚いたという。翌年には元スペクトラムリーダー・新田一郎の作曲提供を受けてさくまは歌手デビューをしている(ディスコグラフィー参照)。
  • 1979年前後に『週刊セブンティーン』で連載されていた武田鉄矢の悩み相談コーナーのライターがさくまだったこともあり、放送開始直後だった『3年B組金八先生』の特集も雑誌内で何度か任されていた。その時に後のたのきんトリオとなる田原俊彦近藤真彦野村義男をクローズアップしていた。その際、事務所が違う関係で番組内では同じく人気のあった鶴見辰吾を特集から外してしまったことを長らく後悔していたという。
  • ホンダ・ストリーム(三輪スクーター)に乗っていたことがある。『月刊OUT』さくま学園「習字のお時間」でホンダ・ストリームを揶揄した作品が投稿された際、「包丁の光が呼んでいる」とコメントした。
  • 父親がプリンス自動車に勤めていたこともあり、自身も自動車好きである。以前はスカイラインに乗って、深夜の首都高を飛ばしていたこともある。日記にはたびたび各地の自動車博物館の訪問記が登場するほか、現在は日産・シルビア(初代)とポルシェ・911(930型)を湯河原の家に、BMW・イセッタ250を東京の家に観賞用として所有している。
  • 西武グループの元オーナー堤義明の著書を愛読し、200冊近くを読破している。堤をモデルに桃太郎電鉄を作ったとも発言し、本人が本気で桃鉄をプレイする際には、「つつみ社長」と名乗ってプレイしている。
  • 新幹線好きと言われているが、実際には周囲で鉄道がブームになっていた時に思いつきで「新幹線が好き」と発言しただけで取り立て好きなわけでもなかった。しかし、その事から「○○にはもう乗りましたか?」など新幹線に関する手紙が届くようになり仕方なしに乗っていた時期もあった。
  • こちら葛飾区亀有公園前派出所』第96巻巻末コメントによれば、京都「隠れ家」と呼ばれるマンションを持っており、そこには司馬遼太郎の文庫本全巻と『こちら葛飾区亀有公園前派出所』全巻のみを置いている、とのこと[8]
  • 2009年には神奈川県湯河原町にも家を構える。家を構えた理由についてさくまは「青森のたちねぶた祭りに招待された際、伝統工芸士により製作された8mのキングボンビー立ちねぶたの出来栄えに感激したが、祭りが終われば処分されてしまうと聞き『こんなに素晴らしいのに勿体無い。捨てるならください』とねだったところ、意外とあっさり承諾されたため」と語る。「二つと無いものを貰ったからには大切に維持しようと考えたが、8mもの高さとなるとマンションばかりか、一般の建物に収めるのは難しい。かと言って、倉庫などを借りて保管するのは忍びないし、イヤだ。いつでも観賞できる環境が無いならば、それに合う家を建ててしまおうと言う結論に辿り着いたから」とのこと。キングボンビー立ちねぶたを家に収める際には、青森から伝統工芸士が足を運んで設置、祭りの時のように電球で点灯出来るようにして貰った。中庭を望むように飾られ、さくまの家族や来客を楽しませているという[2]
  • 青森県と縁があり、“青森通”を自称している。仕事や取材で訪れた際に親しくなった人々を「親戚のよう」と語る。青森県知事の三村申吾とは、五所川原立佞武多に招待されたことや、三村申吾が桃太郎電鉄をプレイしていたことなどから意気投合し、今ではメール友達の仲である[2]
  • かつて漫画評論家をやっていたことがあるが、本人はある時期までその事をすっかり忘れていたという。思い出したのは『チョコバナナ』の編集長を始めて、しばらく経ってから。投稿者の作品にコメントを付けているうち「(自分は)やけに絵に詳しいなと思ったんだ」という。忘れた理由について本人曰く「10年前(86年)に当時の漫画に失望してやめたから、記憶から消してしまったようだ」との事。チョコバナナでも榎本一夫から「ギャグじゃないの! 昔の仕事普通忘れないよ!」と突っ込まれた[9]。また、漫画評論家時代にいしかわじゅんと話をした際、漫画家であるいしかわの方が漫画に詳しくて驚愕したという[10]。実際、さくまと入れ替わるようにいしかわが漫画評論家化していった。また、ジャンプ放送局においては世の中の評論家に怒りをぶつけるコーナー「評論家をぶっ飛ばせ」があった。VTR18のコーナー扉の彼のコメントによれば、この頃はゲーム評論家の評論に怒りを持っていたとみられる。
  • 『ジャンプ放送局』初期では、あまり定着しなかったもののロリコンキャラとしていじられていた。2巻と6巻の巻末マンガのいたずら書きの記述で、「近所から五歳以下の女の子が姿を消した」「松本典子のファン。あいかわらずロリコン」と書かれている。また、同じく「放送局」8巻の「ミスJBSコンテスト」の扉絵は、参加したばかりの横山智佐に他のメンバーから服がプレゼントされたという設定だが、横山がイラストで着ている「さくちゃんより」の札がついた服は、幼稚園の制服だった(その横には「どいんより」として『ドラクエ』の「あぶない水着」を思わせるハイレグ、「えのサンからプレゼント」として裸のマネキンに葉っぱが三枚ついただけという物が置いてあった)。
  • 「ジャンプ放送局」終了後、イラストの投稿雑誌『チョコバナナ』を新たなライフワークと定め、桃鉄等、ゲームのキャラデザインに起用など新人漫画家やイラストレーターの発掘・育成・プロデュースに力を注いだ。彼の同誌に対する情熱を物語るエピソードは数多いが、中でも「脳内出血で入院して1か月後、病室にハガキを持ち込んでスタッフらと製作を続けた」事は特筆に値する。そのときの様子は『チョコバナナ』2巻で克明に記されている。最後の方のコーナー「ノンセクション部門」の頃には、さすがに医師に怒られてスタッフが追い出され、さくま抜きでハガキを選考している。のちにさくま曰く「チョコバナナ作っているときが、一番血圧が低く安定していると医師に言われた」との事。
  • 脳内出血で倒れるも、その後入院一週間で手足が動くようになるという、奇跡的な回復を見せて医師を驚愕させる。本人は「チョコバナナのハガキのおかげ」だと言っていた。その後もリハビリを重ね、常人の数倍のスピードで回復するも左手だけはなかなか回復しなかった(そのため「仕事人裏日記」では左手が不自由であることを度々書いている)。
  • ファンロード』の編集長、イニシャルビスケットのKこと浜松克樹とは古くからの親友同士。両者は食通・旅行好きという共通点も持つが、さくまは下戸で国内旅行専門、浜松はワイン好きで海外旅行専門という違いがある。また二人とも投稿ハガキを扱う関係上、いわゆる「JBS投稿戦士」と「ローディスト」というような形で、両方の世話になる投稿者も多い。エレメンタルこと川添真理子もその一人で、「チョコバナナ」9巻での彼女の「FRハンドブック97でチョコバナナ宣伝してきました」の報告に対してさくまは「浜松くんは古い友人なのでごひいきしてね。彼は有能です」とコメントしている。
  • 高所恐怖症で、飛行機が苦手。原因は小学校入学前に後楽園遊園地のゴンドラに乗るのをケチって、カプセルとカプセルを鉄の串のようなもので繋いで、ぐるぐる回転する乗り物に見知らぬ人と乗ってしまったから[11]
    • 高所恐怖症の度合いは、歩道橋を渡るのを嫌ったり、高級ホテルを避けたり(上階で外が見えると症状が出るため)[12]、ガーデンテラスの5階にあるオープンテラスを怖がったり[13]などかなり重症。
    • 飛行機嫌いの影響で、桃太郎電鉄シリーズは2004年に『桃太郎電鉄USA』が発売されるまで、海外を舞台にしたシリーズが制作されなかった。ちなみに『USA』は、自ら飛行機で取材に行かず、柴尾英令に代行させて現地でマップや物件の取材をさせていた[14]
    • さらに、閉所恐怖症でもあり、洋品店の試着室で店員にまち針を10cmくらい刺されたことがトラウマになった原因であると自身の日記で綴られている[4]
  • 『怪物パラ☆ダイス』にて、所属デザイナーのAKIMAN(安田朗)、西尾仁志岡本吉起にイラストを提供してもらうなど、1997年ごろカプコンとの「妖しい関係」(さくま談)が出来ていた。いかなる経緯でそうなったかについては、「チョコバナナ」10巻にて「この関係を話すと『チョコバナナ』の創刊号に載ったBENGUS(玉壊屋)くんの話や、『月刊OUT』のファンだったAKIMANくんの話や、私が昔おだてられて歌手になってしまったときのレコードをいまだに持っている西村キヌさんの話までしないといけなくなってしまう」と語られたのみである。
  • 『チョコバナナ』1巻および9巻で語ったところによると、「自宅が日野市に近い」「京都の家は壬生寺から3分の所」「新撰組(土方歳三)終焉の地である函館五稜郭近くに別邸がある」「戊辰戦争のとき、東京・牛込の祖母の家に新撰組隊士が逃げ込んできたらしい」等、新撰組とは不思議な縁があるという。本人は歴史の本を500冊ぐらい持っている歴史好きだが、特に新撰組マニアではないとの事。
  • 自他共に認める「きまぐれ」。土居孝幸曰く「普通きまぐれな人ってすぐ断念するけど、さくまサンの場合思いついた瞬間に行動に出て終わっている場合が多い」そうで、『怪物パラ☆ダイス』の主題歌CDの件もそのひとつだという。本人曰く「一応私なりに計算はしているんだが、採算に合わないことって魅力的なことが多い」。その様は榎本一夫に「いいかげん平成の勝新太郎と呼ばれちゃいますよ」と突っ込まれた。
  • Dr.スランプ』(鳥山明)にさくまをモデルとしたキャラクター「たこやきマクサ」が登場(台詞が一切ない、サイレント漫画の回)。さくまはデフォルメのコツを鳥山に教えたこともあるが、その実力はあっという間に抜かされたと語っている。また、ジャンプコミックス Dr.スランプでは「うんちの数を数えろ」などのおまけページや巻末のお便りコーナーを担当していた[15]
  • 2009年10月11日に放送された『パネルクイズアタック25』の海外旅行挑戦権クイズで「ある人物」として問題になった(各地のマンホールの蓋の画像を集めるのが趣味と紹介される)。しかし挑戦権獲得した解答者は「さくまとおる」と解答して正解できず、旅行獲得はならなかった。
  • マルチクリエイターの広井王子とは同じ大学であることから親交があり、ブログなどでも、たびたび取り上げるほどの仲。さくまが業界の先輩にあたることから広井がさくまのことを「先輩」と呼んでいたこともあり、広井のことを立教大学の後輩だと思っていたが、大学の後輩である元月刊OUT編集長の大徳哲雄から、実は同学年であると知らされた。なお、この事をさくまから知らされた広井は「業界に入ったのは、さくまさんのほうが先だから後輩ってことでいいじゃないですか」と答えている[16]
  • 先祖は典医として熊本城まで通っていた。
  • お洒落には関心が低く、機能性を重視する傾向がある(例として、ズボンは「気に入った物があれば同じものを10本くらい買えば試着しなくていい」という感覚である)[4]
  • ほぼ毎日更新していた『仕事人裏日記』であるが、多忙を理由に不定期更新にすることを2011年10月27日の日記内で表明した[17]
  • 2012年1月初旬に体調を崩し、入院療養をしている旨を2月1日の日記(妻の代筆)で明らかにされた[18]。同年3月5日には退院し、現在は自宅療養とリハビリをしている。同年3月14日、スポニチSponichi Annex 芸能項「さくまあきらの歩き方【9】」において、脳内出血であったことが明らかにされた[19]

関わった作品[編集]

特に記載のないものはディレクション担当

著書[編集]

  • まんが雑学ゼミナール—まんがを100万馬力で読む方法 - (1983年、群雄社出版)
  • さくまあきらの正体 - (1999年、ビーアールサーカス)
  • おいしい桃鉄—桃太郎電鉄11全国グルメ物件ガイド (ワンダーライフスペシャル) - (2002年、小学館)

出演[編集]

テレビ[編集]

ラジオ[編集]

関連人物[編集]

ディスコグラフィー[編集]

Dr.スランプ』の劇中でラジカセから曲が流れ、登場人物の皿田きのこから「ダサい曲」と言われている。

脚注[編集]

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  1. ^ 仕事人裏日記 2011年7月7日付。高橋名人も同日に所属。
  2. ^ a b c d ニコニコ動画 さくまあきらアワー 〜また帰​ってきちゃったジャンプ放送局​〜 2010年11月27日放送
  3. ^ 仕事人裏日記 2010年11月19日
  4. ^ a b c d e 仕事人裏日記 2011年5月13日付
  5. ^ さくまあきらホームページ:仕事人裏日記 2010年11月21日
  6. ^ さくまあきらホームページ:仕事人裏日記 2011年4月15日
  7. ^ さくまあきらホームページ:仕事人裏日記 2011年4月22日
  8. ^ 「チョコバナナ」13巻p177より。他には静岡県熱海市にも別荘をもっている。
  9. ^ 「チョコバナナ」5巻p87より
  10. ^ いしかわじゅん「フロムK」より
  11. ^ 仕事人裏日記 2010年10月13日付
  12. ^ 仕事人裏日記 2010年10月23日付
  13. ^ 仕事人裏日記 2011年4月29日付
  14. ^ 「桃太郎電鉄USA」さくまあきら氏特別インタビューより
  15. ^ 2010年8月30日放送 さくまあきらアワー 〜帰って​きたジャンプ放送局〜 で、さくま自身が発言
  16. ^ さくまあきらホームページ 仕事人裏日記 2010年7月10日
  17. ^ さくまあきらホームページ 仕事人裏日記 2011年10月27日
  18. ^ さくまあきらホームページ 仕事人裏日記 2012年2月1日
  19. ^ 2012年3月14日、スポニチSponichi Annex 芸能「さくまあきらの歩き方【9】

外部リンク[編集]