宮本茂

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みやもと しげる
宮本 茂
Shigeru Miyamoto cropped.jpg
GDC 2007にて
生誕 1952年11月16日(57歳)
京都府 南丹市
職業 任天堂専務取締役 情報開発本部長
  

宮本 茂(みやもと しげる、1952年11月16日 - )は、日本男性ゲームクリエイター任天堂代表取締役専務左利きさそり座。現在は情報開発本部長として、同社のコンピュータゲームソフト開発の中心的存在。愛称に「ミヤホン」「ミヤポン」。

目次

[編集] 来歴

京都府船井郡園部町(現在の南丹市園部町)出身。

幼少時代は絵を描いたり、家の周りの自然を探検することが好きだった。その時代の洞窟や湖などにおける自然体験は、その後の宮本のゲーム制作に大きな影響を与えた。その事から宮本はクリエイターを志す若者に「ゲーム以外の経験がゲーム作りに役に立つ」と言葉を送っている。

小学生の頃は人形劇団に入ることに憧れていた。中学生の頃、漫画家を目指し、学校で友達と一緒にマンガクラブを作り、漫画の懸賞応募にも応募し始める。高校生時代には、投稿作品が雑誌(小説ジュニア等)に掲載されたこともあった。しかし、高校に入学してすぐに漫画家への道を諦め、大学の工学部を目指す。しばらくして再び漫画を描いていて、絵を描く方が楽しいと思い、工業デザインを志望することになった。

1977年金沢美術工芸大学を卒業。専攻は工業デザインだった。同年、小さい頃から玩具に興味を持っていたため、当時トランプを柱とし色々とやっていた玩具会社の任天堂に興味を持つ。デザイナー枠で任天堂は募集していなかったが、宮本の父は当時の任天堂社長山内溥と友人だったこともあり、面接の場を得て工業デザイナーとして入社する。しかし、入社したは良いが工業デザイナーとしての仕事が全く回ってこず、ポスターを描いたりゲームセンターの飾りつけを行ったりしていた。ゲーム筐体のデザインも担当しており、任天堂(レジャーシステム)がスペースインベーダーコピーゲームである『スペースフィーバー』を作った際、ゲームデザイナーの上村雅之(後にファミコンを作る)が絵を描けなかった為、キャラデザインを担当した。宮本が何らかの形でゲームデザインに関わった、確認される最古のゲームである。

入社3年目の1980年、転機が訪れる。当時開発部長で、ゲーム&ウオッチハードウェアソフトウェア開発に追われていた横井軍平[1]が、「一緒にポパイを題材にしたゲームを作ろう」と、宮本茂をポパイの制作に誘う。その開発中に、任天堂のアメリカ法人、Nintendo of America, Inc.(NOA)が『レーダースコープ』による現地のアーケードゲーム事業に失敗し、約2000台のアーケード筐体の在庫を抱えた。NOAの社長であった荒川實は在庫処分の為、新しいゲームを作ってROMだけ送ってくれと任天堂本社に依頼する。しかし、山内は「そんな商売になるか分からないものに人手は割けない」として、急遽ゲーム&ウオッチ用として開発中のポパイを載せる予定とした。しかし、途中でポパイを使用するための版権がおりないことが判明したため、宮本がキャラクターを描き直し、完成させたのが『ドンキーコング』である。

ドンキーコングで初登場したマリオは当初、正式なキャラクター名が付いておらず、工事現場のおじさんという設定であった。このキャラクターをNOAへ送ってみせたところ、実在のNOA社員である「マリオ」氏に似ていたため、愛称として呼ばれ始めたものがいつのまにか正式な名前になった。ドンキーコングでは、ゲーム内容について宮本茂が積極的にアイデアを出し、プログラミング以外をほぼ1人で担当したこのゲームは、アメリカ市場のみならず日本でも大成功を収め、それは反対に基板が全く足りなくなるほどの人気であった。横井軍平もこのゲームを絶賛している。その後ゲーム&ウオッチにも移植され、1000万個近い売上を達成する。

その後、山内の「100人の凡才より1人の天才」という考えから任天堂ゲームの中心的開発者となり、1984年に新設された情報開発部(現・情報開発本部)の開発課長に就任。部門の実務リーダーになった。現在でも、その部署は任天堂のゲームソフト開発中核部署である。

1996年、情報開発本部に格上げされ、宮本は情報開発本部情報開発部長に就任。1998年、情報開発本部長に就任。2000年6月、取締役に就任。2002年5月31日、代表取締役専務に就任。

2000年6月、取締役に就任してからは経営業務が優先されるため、本来のゲームソフト開発業務は長年連れ添ってきた部下に任せ、自分は開発現場からある程度離れた立場に退く形になった。それが2002年5月31日に代表取締役専務に昇格してから顕著になり、日本と海外の支社や取引会社を何度も往復したり、2週間に1度の取締役会の仕事に拘束されるようになった。

しかし、代表取締役社長の岩田聡の「宮本は、可能な限り開発の現場にいるべきだ」との方針により、『ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス』の開発を皮切りに情報開発本部長としての社内開発業務にできるだけ専念できる体制に改められた。

2006年5月10日5月12日にかけて開催されたE3では、任天堂のゲーム機である「Wii」のソフト『Wii Sports』のテニスにてスティーブン・スピルバーグと対決し、大きな話題となった。この模様はAP通信が伝え、全世界に配信された。

[編集] 人物・制作姿勢

宮本は通常、『マリオ』シリーズや『ゼルダ』シリーズ等の自身が生み出したシリーズ作品では「プロデューサー」としてクレジットされている。ただし、近年では任天堂以外で開発された作品もシリーズに含まれており、それに関してはこの限りではない。

ファミコン初期の頃は、姓の「本」の字を読み替えた「ミヤホン」としてクレジットされていた。これは、アメリカで現在より翻訳力が劣っていた時代に誤訳されたため、という説もあるが、同時期には手塚卓志は「テンテン」、近藤浩治は「コンチャン」とクレジットされているため、故意にこれらのニックネームを使っていたものと考えられる。理由として、当時はまだゲームクリエイターという職業が社会的に認知されていなかったため、本名を使うのが憚られたとされる。また、同業他社による社員のヘッドハンティング防止の意味合いもあった。

この「ミヤホン」という名前は、現在でもファンの間で使われたり、まれに本人も使用することがある。しかし、その後のヒット作量産により、ゲームそのものの社会的地位はもちろん、宮本茂の名前も著名になり、1990年ポール・マッカートニーが来日した際には、ポールの息子が宮本の名前を知っていた事から、コンサートはもちろんのこと個人的に食事に招待され、宮本はサインを贈っている[2]。他にも世界でも知られた事を示す記事として『TIME』では、宮本を「ゲーム界のスピルバーグ」と述べた[3]マイケル・ジャクソンも宮本のゲームのファンだったという。
ゲームクリエイターではコナミ小島秀夫が、自身がマリオから受けた影響の大きさから、スタイルが異なる事を明言した上で尚、宮本を「師匠」として尊敬している旨を度々発言している[4]。2009年6月には、世界中のクリエイターからも尊敬されている事例として、イギリスの“Develop Conference”で行われた“ゲーム開発者にとっての開発業界のヒーロー”(game developers’ game development hero)にも、世界中のクリエイターから集計された9000票の内の3分の1もの票数を獲得し、ヒーローに選ばれている[5]。またディズニーの副社長で、ディズニーインタラクティブスタジオの代表者であるグラハム・ホッパーは宮本を、「ビデオゲーム産業において世界規模で何度も成功した一握りの人間であり、更にそれが長期間に渡っている人物。おそらく彼と同じレベルで肩を並べられるクリエイターは存在していない(訳文)」とまで評価している[6]アニメ監督細田守は金沢美術工芸大学の後輩にあたり、宮本の「万人向け」(後述)の製作理念から細田も宮本を尊敬している一人である[7]

ゲーム脳の報道番組でインタビューが行われた際には、「自分の開発したゲームを使って実験してほしい」と反論を述べていた。その後、雑誌で質問された「最近腹が立った事」事項において、マスコミの報道の偏向性や在り方を回答していた。

宮本のゲームソフト開発における影響は、ゲーム機開発においても見られる。スーパーファミコンにおけるLRボタンや、NINTENDO64におけるアナログスティックのアイディアは宮本が提案したもので、現在では他社のハードウェアのコントローラにもこのアイディアが使用されている。

プリレンダムービーを主体としたゲームが一世を風靡した時代、メディアからのインタビューで「ゲームに物語性を持たせる事で、現在の若者を中心としたユーザーに、映画的ゲームの物語でメッセージを送るというスタンスは取らないのか」と質問されている際、「自分のような、ゲームを作り続けている人間(=クリエイターという職業)がいるという姿勢だけが伝わって、そこから何かを感じ取ってくれるユーザーがいれば、という信念で作っている」と答えている。
宮本自身、子供の時漫画家という職業を知り目指していたが、それとは異なる"モノ作り"の職種に就いている。それ故、多様な職業の一つとして認知されて目標としてくれる人間が増えてくれれば、たとえ最終的にゲームクリエイターにはならずとも、自分が漫画家から受けた影響と同様の結果で天職を見つけてくれるかも知れないとの意からのコメントである。

宮本が目指しているゲーム作りの姿勢として「万人向け」というものがある。これは今ゲーム業界で広義的に認識されている「万人向け=ファミリー向け」とは異なり、文字通りの「万人」を指す。すなわち、初心者、ライトユーザー、コアユーザー、幅広い年齢層や性差も越えて、購入してくれた消費者全てに満足してもらえる、極めて高い顧客満足度を満たすゲームを作りたいという意味である。無論、ゲームに限らず、様々な娯楽商品、引いては日用品や消耗品に至るまで完全な顧客満足度を得る商品の開発は究極の到達点であり、事実上不可能であると言える。しかし敢えてそこに目標に据える事で、商品開発のレベルを維持しつづけ、また思いも拠らぬ部分から認められる新たな商品価値が発生するかも知れない事から、宮本は「万人向けを目指している」と答えている。
「万人向け」の一つとして、「みんなが楽しめるように」とゲームシステムにおいてパーティ性および多人数同時プレイの要素を積極的に盛り込んだゲームを製作していることが挙げられる。長年取組み続けているものとしては「同時プレイが出来るスクロールアクション」があり、古くは1996年の『星のカービィ スーパーデラックス[8]、近年においても『スーパーマリオギャラクシー[9]や『New スーパーマリオブラザーズWii』などで取り組んでいる。また、同業者である西健一が聞いた話に寄れば、「順位が決まることが当然とされるレースゲームにおいて等でも、『順位の撤廃』を一つの目標としている」といった意識を持っており、基の良さを残しつつも、障壁となるような既存の概念を打破することでゲームは進歩できるという哲学を持っているとしていた[10]
また、このスタイルを芯においたきっかけとして、高校時代にはいわゆる「尖った」作風の漫画が徐々に登場し、それを格好良いと思った時期もあったが、後にサスペンスSF作品などで前述の尖った作風であった山上たつひこが、『がきデカ』というギャグ漫画を描いた事や、幅広く読まれたギャグ漫画である鳥山明Dr.スランプ』の登場で、漠然と「漫画の行く路線はこれだよなぁ」と思ったとしている。これは自身の作風がいわゆる「尖ったもの」の方向性ではない事の自覚とも繋がっており、ゲームの製作にもその作風が表れている[7]

プレイヤー=主役キャラクターとし、世界観等をプレイヤーの想像力と印象を重要視する制作姿勢を打ち出している為、ゲーム中に登場するキャラクターにボイスを採用する事には余り重きを置いていない方策を取っている。これはイメージの固定と一元化を避ける理由からである。前述の理由から特にプレイヤーキャラには喋らせない方策を取る場合が多い[11]任天堂の項目も参照)。

過去には、マイクロソフトがゲーム業界に参入する際、任天堂を数兆円で丸々買収しようとした話もあり[12]、その任天堂のゲームソフト開発の中心人物である宮本茂を「現在の給料の10倍で」引き抜こうとした事もあった。宮本の地位から言えば軽く億を超える提示に、宮本は「(任天堂には)仲間がいるから」と言って断ったと発言している。

また、2007年にはアメリカの『TIME』の企画「今年世界に最も影響力のある100人」において第9位に入っている[13]。理由は「シニア層にまでゲームをポピュラーなものにしたため」である。

[編集] ちゃぶ台返し

1本のゲームソフト開発に注力する立場から、任天堂関連ソフトを全体的に監修する立場が強くなった現在、駄目出しの結果「面白くない」と強権を発動してほぼ白紙に戻す「ちゃぶ台返し」(本人命名、:return tea table[14])を行うことが多々あるという。それは、個別に仕様を変更した結果、全体が変わっていたものから、初めから全体的に変更するものまである。このことから情報開発本部や関連取引会社からは「宮本チェック(ミヤホンチェック)」として大いに恐れられているという。以下、ちゃぶ台返しが行われたと判明しているゲームを箇条書きで記す。

1991年末当時、『ティンクル・ポポ』というタイトルで株式会社HAL研究所からの1992年1月下旬の発売が既に決定し、2万6千本も受注していたのにも関わらず、宮本の「ちょっといじるだけで物凄く面白くなる」という発言を受けて桜井政博ら開発者達が一旦発売を中止にする。キャラクターデザイン面などを再調整した後、任天堂が発売元となり、再度受注を取り直して発売。最終的には日本国内で約172万本、世界累計500万本以上を売り上げ、「カービィ」という新たな任天堂キャラクターの確立に至る。
「NINTENDO64」の発売前から開発が続いており、当初はNINTENDO64が発売された1996年内に発売する予定であった。しかし開発の遅れやより高い品質を目指すため年単位で延期を繰り返し、結局発売は1998年11月21日まで伸びに伸びた。青沼英二小泉歓晃等のディレクター達がゲームのクリエイティヴな面で開発をし、プロデューサーの宮本茂が音の注文をつけたり、サブゲームを補完していくスタイルで開発は進められた。なお、それの影響か、これ以降NINTENDO64の時代の間、任天堂は発売直前にならないとソフトの発表を行わないようになった。
アメリカのコンピュータゲーム開発会社、レトロスタジオの社員曰く、「宮本茂氏の来訪は、(スター・ウォーズに例えると)銀河皇帝デススター訪問並みの恐怖」とのことで、宮本は国内外を問わず必要と見たら「ちゃぶ台返し」を行っていると思われる。ちなみにゲームがFPSスタイルになったのも宮本の提案によるもので、当初はマリオ64のような三人称視点の探索ゲームだったという。この際それまでにできていた部分がほとんど全て作り直しになったらしく、その時の記憶が蘇ったものと思われる。
このゲームにはナビゲーターの声を頼りに、フィールドの中を駆け回って指示通りに「海賊のメダル」を集め回る『ナビトラッカー』というゲームモードがある。このゲームモードは当初、集めるものはスタンプだった。開発の終盤も終盤、宮本の「そこを変えると、ゲームのイメージがガラッと変わるから」との進言で、それまでのスタンプラリーから、世界観に適した「海賊のメダル」を集めるという内容に全面的に変更されることが決まった。これが2004年1月初旬のことである。ちなみに、本作の発売日は2004年3月18日である。約2ヶ月の間にシナリオ、セリフ、ナビゲーターの音声録音、ゲームデザイン、グラフィックス、演出等が作り直されることになった[15]
クレジットはプロデューサーであるが、現場に入り実際の開発にも深く携わる。岩田聡社長直々の提案もあり、2005年末の発売予定を2006年末まで1年間延期する決断を下す。その上で、迷走していた要素を1つ1つ丁寧にしっかり纏め上げるよう指示を出しては納得できないスタッフに説明し、説得した上で再修正したり、不安な要素を払拭する地道な工程等を指示した。宮本曰く、「茶碗を並べ替えただけ」。開発スタッフ曰く、「オセロみたいな感じ」、「いつの間にか真っ黒になっている」という、今までにないパターンの「ちゃぶ台返し」だったとのこと。
宮本がスタッフを納得させる手法はスタッフ曰く、「相手を動けないようにしてから避けようのない急所を突く」。スタッフが納得できない場合、逆にどうしたらできるかを問い詰めた上で、宮本が反撃、スタッフを的確に突き上げ改心させるというものらしい。
それまでになかった点として、業務指示の手段に携帯電話メールが多用されたという。宮本からスタッフへの変更指示は、通称「とほほメール」と呼ばれる。
また、2005年5月から2006年5月のE3の間に、それまでは「プロデューサー」であった青沼英二の肩書きが「ディレクター」へと変わっており、青沼曰く「1年間作ったのに宮本にちゃぶ台を返され、その結果だ」[16]

2004年3月24日にアメリカで開催されたゲームクリエイターのための会議「Game Developers Conference 2004」において講演した青沼英二によって、宮本茂の「ちゃぶ台返し」のエピソードを面白おかしく語ったことがきっかけで、この話が全世界的に知られるようになった[17]

[編集] その他

  • 2007年開催のGDCにて上映されたMega64撮影によるムービーに宮本茂本人が登場した。ムービーの内容は、マリオルイージに扮した人が街を疾走し、通行人にちょっかいをかけるが、突如現れた宮本茂に睨まれ決まりが悪そうに退散、宮本の後ろに居たリンクも驚いて引き帰すと言うものであった[18]
  • GB用ソフト『ポケットモンスター 赤・緑』に登場するライバルのデフォルトネームに「シゲル」が存在する。これは、宮本の名前に由来している。(サトシの名前の由来は、『ポケットモンスター』の生みの親である田尻智)。アニメ版も同様。
  • 2009年に開催されたE3の質疑応答の中で、「最も影響を受けたゲームは何か」という質問に、ウィル・ライトの『シムシティ』だと答えている[19]

[編集] 作品

[編集] 代表作

[編集] 作品リスト

[編集] 主な受賞歴

[編集] 個人賞

  • 1990年 - 日本文化デザインフォーラム主催「日本文化デザイン賞」受賞
  • 1993年 - 日本ソフトウェア大賞実行委員会主催 日本ソフトウェア大賞'92「MVP」受賞(創設第1回目受賞)
  • 1996年 - 朝日新聞社主催 朝日デジタル・エンターテインメント大賞「ホーム部門個人賞」受賞
  • 1997年 - 日本ソフトウェア大賞実行委員会主催 第5回日本ソフトウェア大賞「MVP」受賞
  • 1998年 - (アメリカ)ACADEMY OF INTERACTIVE ARTS AND SCIENCES主催
The First Interactive Achievement Awards「THE HALL OF FAME AWARD」受賞(創設第1回目受賞)
  • 1998年 - 第13回マルチメディアグランプリ1998 MMCA会長賞
  • 2003年 - (イギリス) Golden Joystick Awards 2003「Hall of Fame Industry Personality of the Year Award」受賞
  • 2004年 - 石川県金沢市主催「eAT’04 KANAZAWA名人賞」受賞
  • 2005年 - (アメリカ) Game Developers Conference 2005「Walk of Game」「Livetime Achievement」受賞(創設第1回目受賞)
  • 2006年 - フランス政府・文化通信省 芸術文化勲章「シュバリエ章」受章
  • 2007年 - 第12 回AMD Award「功労賞」(デジタルメディア協会)
  • 2007年 - (アメリカ)The 7th GDC「Lifetime Achievement」(IDGA)
  • 2007年 - (アメリカ)TIME 誌「TIME 100(世界で最も影響力がある100 人)」
  • 2007年 - 金沢美術工芸大学 栄誉賞
  • 2008年 - CEDEC AWARDS 2008「特別賞」受賞(創設第1回目受賞)
  • 2008年 - (アメリカ)Entertainment Software Association主催
チャリティイベント「Nite to Unite for Kids」2009ESAチャンピオンアワード受賞

[編集] その他の賞

  • 1998年 - AIAS殿堂(AIAS Hall of Fameアメリカのゲーム業界の功労者に贈られる賞)に世界で初めて選ばれた。
  • 2005年3月 - ハリウッド名声の歩道にならってサンフランシスコメトレオンに作られた「ゲームの歩道(Walk of Game)」においても、ノーラン・ブッシュネルと宮本の名が、星印の中に刻まれた。
  • 2006年3月13日 - フランス政府から、芸術文化勲章「シュバリエ章」を受章したことが発表された。これはゲーム産業界としては初めての快挙。インタビューでは「芸術の中心のような国からも評価されて光栄だ。1人でやった仕事ではないが、ゲーム界全体にとって光栄なことなのでお受けすることにした」と答えている。
  • 2006年11月13日 - 『TIME』誌アジア版(Vol. 168, No. 20)にて、黒澤明宮崎駿小澤征爾盛田昭夫井深大安藤百福森英恵三宅一生川久保玲王貞治と共に「60年以内のアジアの英雄」に最年少で選ばれた。
  • 2007年1月31日 - 社団法人デジタルメディア協会(AMD) 主催の「デジタル・コンテンツ・オブ・ジ・イヤー'06/第12回AMDアワード」で、デジタルコンテンツ業界の発展に貢献したとして功労賞を受賞した。スケジュールの都合がつかなかったため当日の授賞式は欠席したが、ビデオメッセージでコメントし「“功労賞”をいただく歳になってしまったが、これからもまだまだ現役でやっていきたい」と意欲を語った。
  • 2007年 - 米国の経済誌「Business 2.0」による、最も影響力がある経営者らを選出する「気になる人物ベスト50」において、20位で選出された(日本人からは二名選出で、もう一人はトヨタ自動車渡辺捷昭社長(10位))。選考理由は「ゲーム産業に新たな息吹を吹き込んだ」との評価から。
  • 2007年 - イギリスの経済誌「The Economist」から“ゲーム業界に多大な貢献をした”ことを理由に表彰され、その授与式がロンドンの科学博物館で行われた。受賞理由として「宮本氏を抜きにしては現代のゲーム業界を語ることはできない」からとコメントされている[22]
  • 2008年 - 「Your Time 100」(Time誌の読者が選ぶ「影響力がある100人」)においてトップとなった。[23]。最終獲得票数は197万4651票に及んだ(ゲーム産業界から他にリスト入りしたのはマイクロソフトのビルゲイツと、マイクロソフトの最高経営責任者(CEO)スティーブ・バルマー[24]

[編集] 宮本茂について書かれたもの

  • 雑誌 『ユリイカ』2006年6月号、青土社 特集=任天堂/Nintendo「宮本茂をめぐって コンピュータ・ゲームにおける作者の成立」井上明人

[編集] 脚注

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  1. ^ 宮本は横井に様々な考え方や作り方を学んでおり、師匠格とも言える。また横井の提唱した「枯れた技術の水平思考」が持つ視野と概念は宮本にも受け継がれている。[1]
  2. ^ 丹波発ふるさとの君たちへ京都新聞・2001年12月23日付)
  3. ^TIME』 1996年5月号
  4. ^ [2] 日経ビジネス 2009年5月13日閲覧。
  5. ^ ファミ通.com 2009年6月15日閲覧。
  6. ^ New York Times(NYT.com)』 2008年5月25日
  7. ^ a b 『細田守 PLUS MADHOUSE 03』「特別対談 宮本茂×細田守」 キネマ旬報社
  8. ^ [3]
  9. ^ [4]
  10. ^ [5]
  11. ^ [6]
  12. ^ MSが任天堂を250億ドルで買収する計画だった? - ITmedia
  13. ^ http://www.time.com/time/specials/2007/time100walkup/article/0,28804,1611030_1612457,00.html
  14. ^ Wii.com JP - 社長が訊く『マリオカートWii』 番外編 (Wii.com JP)
  15. ^ ニンテンドードリーム Vol.110 2004年3月19日発売号 N.O.M 2004年3月号 - 『ゼルダの伝説 4つの剣+』 - 駆け込み大改変?開発スタッフインタビュー
  16. ^ 社長が訊くWiiプロジェクト - Vol.5『ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス』編、任天堂ホームページ
  17. ^ http://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20040325/zelda.htm
  18. ^ GDC 2007--ゲーム・オブ・ザ・イヤーは「Gears of War」が受賞 - GameSpot Japan
  19. ^ Gamasutra - News - E3: An Audience With Shigeru Miyamoto
  20. ^ 社長が訊く - 『大乱闘スマッシュブラザーズX』エンターブレイン『桜井政博のゲームについて思うこと DX Think about the Video Games』より
  21. ^ [7]
  22. ^ http://www.4gamer.net/games/000/G000000/20071023012/
  23. ^ 先述の「世界で最も影響力のある100人」のオンライン版にあたる
  24. ^ ただし、印刷版「Time 100」で特集記事を組まれたのは別な人物となっている。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク