宮本茂

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みやもと しげる
宮本 茂
GDC 2007にて
生誕 1952年11月16日(61歳)
日本の旗 日本京都府船井郡園部町
(現:南丹市
国籍 日本の旗 日本
出身校 金沢美術工芸大学
職業 工業デザイナー
ゲームクリエイター
任天堂 専務取締役
情報開発本部長
配偶者 Miyamoto Yasuko

宮本 茂(みやもと しげる、1952年11月16日 - )は、ゲームクリエイター任天堂株式会社 専務取締役情報開発本部長。同社のゲームソフト開発の中心的存在。愛称に「ミヤホン」「ミヤポン」。任天堂を世界的大企業に押し上げた功労者の一人である。

来歴[編集]

学生時代[編集]

京都府船井郡園部町(現・南丹市)出身。幼少時代は絵を描いたり、家の周りの自然を探検することが好きだった。

子供の頃は人形劇団の人形作りや漫画家に憧れていた。中学生の頃、漫画家を目指し、学校で友達と一緒に漫画クラブを作り、漫画の懸賞にも応募し始める。高校生時代には、投稿作品が小説ジュニアなどの雑誌に掲載されたこともあったが、高校に入学してすぐに漫画家への道を諦め、ものづくりにかかわりたいという理由で工学部を目指した。金沢美術工芸大学では工業デザインを学んでいたが、その一方吉田拓郎にもハマり、フォークソング部に入っていたという[1]

任天堂入社[編集]

1977年金沢美術工芸大学を卒業後、任天堂に入社。ユニークな商品を数多く発売していた任天堂を知り、ここなら自分の企画も通るだろうと思っての行動であり、任天堂は工業デザイナー枠の募集はしていなかったが、宮本の父が当時の任天堂社長・山内溥と友人だったこともあり、特例で面接の場を得ることが出来た。当初山内は乗り気ではなかったが、宮本は自作のハンガーなどを持ち込んで積極的なプレゼンを行ったことで、山内の「ものづくりが出来る社員が欲しい」という眼鏡に叶い、人事との調整後に入社が決まった。なお、宮本は入社してからユニークな商品が事業的に失敗しているのを知り、唖然としたという。

入社直後はかるたの版下のデザイン、麻雀のラベルなど小さな仕事をこなしていたが、1979年頃からゲーム筐体のデザイン[2]を数多く手がける。この時期、『スペースフィーバー』のキャラクターデザインを担当。ゲームデザイナーの上村雅之が絵を描けなかったため、筐体デザインをしていた宮本が代わりに描いたという経緯であり、これは宮本が何らかの形でゲームデザインに関わった、確認される最古のゲームである。

入社3年目の1980年に転機が訪れる。NOA(任天堂のアメリカ支社)で在庫問題が起きた際に、NOAの社長荒川實は在庫処分のため、「新しいゲームを作ってROMだけ送ってくれ」と任天堂本社に依頼した事を受け、任天堂本社で新しいゲームを誰に作らせるかというコンベンションが開かれることになった。その際に横井軍平が、従来のようにハード側の人間ではなくソフト側の人間に作らせれば新しいゲームが出来るのではないか[3]と考え、宮本を推薦した。当初は『ポパイ』を製作する予定だったが、版権問題により頓挫。宮本はキャラクターを描き直し、ゲーム内容について宮本茂が積極的にアイデアを出し、プログラミング以外をほぼ1人で担当し、最終的に『ドンキーコング』として完成させた。『ドンキーコング』は世界的な大ヒットになり、またマリオというキャラクターを生みだすきっかけになった。部署の垣根を越えた人材活用路線は後の宮本に多大な影響を与えた(宮本が1990年代末に言っていた「会社内のクリエイティブ」がこの影響下にある)。

これ以降、宮本はしばしば横井と共にゲーム開発を行い、横井から様々な考え方や作り方を学んでおり、宮本自身も「横井は自分の師匠だと思っている」と語っている。横井の提唱した「枯れた技術の水平思考」が持つ視野と概念などをはじめとした開発理念は、その後の宮本にも受け継がれている [4] [5]

その後、山内の「100人の凡才より1人の天才」という考えから任天堂ゲームの中心的開発者となり、1983年に新設された情報開発部(現・情報開発本部)の開発課長に就任。部門の実務リーダーになった。同部署は2011年現在も任天堂のゲームソフト開発中核部署である。

1996年、情報開発本部に格上げされ、宮本は情報開発本部情報開発部長に就任。1998年、情報開発本部長に就任。2000年6月、取締役に就任。2002年5月31日、代表取締役専務に就任。

役員は経営業務が優先されるため、開発業務は長年連れ添ってきた部下に任せ、自分は開発現場からある程度離れた立場に退く形になった。代表取締役専務に昇格してからはそれが更に顕著となり、日本国内外の支社や取引会社を何度も往復したり、2週間に一度の取締役会の仕事に拘束される事となる。しかし、代表取締役社長の岩田聡の「宮本は、可能な限り開発の現場にいるべきだ」との方針により、『ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス』の開発を皮切りに、情報開発本部長としての社内開発業務にできるだけ専念できる体制に改められた。なお、宮本自身は取締役の活動も「全体を捉えて単純化したものの見方が出来るようになった」として、開発者視点において無駄とはなっていないと語っている[6]

2006年5月10日 - 5月12日にかけて開催されたE3では、任天堂のゲーム機である「Wii」のソフト『Wii Sports』のテニスにてスティーブン・スピルバーグと対決し、大きな話題となった。この模様はAP通信が伝え、全世界に配信された。

人物・制作姿勢[編集]

宮本は通常、『マリオ』シリーズや『ゼルダ』シリーズ等の自身が生み出したシリーズ作品では「プロデューサー」としてクレジットされている。ディレクター業に近いスタンスでの実製作への関わりと貢献度は、現在でも根強い。ただし、任天堂以外で開発されたものに関してはこの限りではない。

ファミコン初期の頃は、姓の「本」の字を読み替えた「ミヤホン」としてクレジットされていた。これは、アメリカで現在より翻訳力が劣っていた時代に誤訳されたため、という説もあるが、同時期には手塚卓志は「テンテン」、近藤浩治は「コンチャン」とクレジットされているため、故意にこれらのニックネームを使っていたものと考えられる。理由として、当時はまだゲームクリエイターという職業が社会的に認知されていなかったため、本名を使うのが憚られたとされる。また、同業他社による社員のヘッドハンティング防止の意味合いもあった。なお「ミヤホン」という名前は、まれに本人が使用することもある[7]

ゲーム脳の報道番組でインタビューが行われた際には、「自分の開発したゲームを使って実験してほしい」と反論を述べていた。その後、雑誌で質問された「最近腹が立った事」の項目において、暫く考えた後マスコミ報道の偏向性や在り方を回答していた。

宮本のゲームソフト開発における影響は、ゲーム機開発においても見られる。スーパーファミコンにおけるLRボタンや、NINTENDO64におけるアナログスティックのアイディアは宮本が提案したもので、現在では他社のハードウェアのコントローラにもこのアイディアが使用されている。

ゲーム内のムービー(長時間演出による非プレイ時間)は重視しておらず、岩田聡はこの理由を「ムービーを作っちゃったら「もう直せません」というのが、一番許せないようだ」と語っている。プレイステーション等でプリレンダムービーが注目されていた『スーパーマリオ64』(1996年)開発当時でも、周囲のスタッフがそれを感じ取り、リアルタイムデモの仕組みを作り上げていった背景がある[8]
後にプリレンダムービーを主体としたゲームが一世を風靡した時代、メディアからのインタビューで「ゲームに物語性を持たせることで、現在の若者を中心としたユーザーに、映画的ゲームの物語で思想的メッセージを送るというスタンスは取らないのか」と質問されている際、「自分のような、ゲームを作り続けている人間(=クリエイターという職業)がいるという姿勢だけが伝わって、そこから何かを感じ取ってくれるユーザーがいれば、という信念で作っている」と答えている。
宮本自身は、学生時代に漫画家という職業を目指していたが、現在それとは異なる"モノ作り"の職種に就いている。それゆえ、ゲーム開発者も多様な職業の一つとして認知された事で、目標としてくれる人間が増えてくれれば、たとえ最終的にゲームクリエイターにはならずとも、自分が漫画家から受けた影響と同様に、最終的には天職を見つけてくれるかも知れないとの意からのコメントである。なお、宮本のクリエイティビティの原点や作品に対する当事者意識(自覚)も、かつて漫画家を目指した事に起因しているのではないか、と回顧している[9]

「プレイヤー=主役キャラクター」とし、世界観等をプレイヤーの想像力と印象を重要視する制作姿勢を打ち出している。それにより、ゲーム中に登場するキャラクターにボイスを採用することには余り重きを置いていない方策を取っている。これはイメージの固定と一元化を避ける理由からである。前述の理由から特にプレイヤーキャラクターには喋らせない方策を取る場合が多い[10]任天堂の項目も参照)。ただし、音楽と効果音に対してはこだわりを見せている事が多い。これはゲームプレイへの没入感や爽快感とも密接に関わっているという持論のため。

また、ゲームで物語を語る事や登場人物の背景よりも、人物そのものが持つ個性を魅力的に描く事が好みであると答えている[11]

過去には、マイクロソフトがゲーム業界に参入する際、任天堂を数兆円で丸々買収しようとした話もあり[12]、その任天堂のゲームソフト開発の中心人物である宮本茂を「現在の給料の10倍」で引き抜こうとしたこともあった。宮本の地位から言えば日本円で軽く年収10億円は超える提示に、宮本は「(任天堂には)仲間がいるから」と言って断ったと発言している。

また、2007年にはアメリカの『TIME』の企画「今年世界に最も影響力のある100人」に関連して行われた読者アンケートで第9位に入っている[13]

影響を与えた人物[編集]

ヒット作の量産により、ゲームそのものの社会的地位はもちろん、宮本茂の名前も著名になり、1990年ポール・マッカートニーが来日した際には、ポールの息子が宮本の名前を知っていたことから、コンサートはもちろんのこと個人的に食事に招待され、宮本はサインを贈っている[14]。他にも世界でも知られた事を示す記事として『TIME』では、宮本を「ゲーム界のスピルバーグ」と記したほか[15]マイケル・ジャクソンも宮本のゲームのファンだったという。

ゲームクリエイターではコナミ小島秀夫が、自身がマリオから受けた影響の大きさから、スタイルが異なることを明言した上でなお、宮本を「師匠」として尊敬している旨を度々発言している[16]。2009年6月には、世界中のクリエイターからも尊敬されている事例として、イギリスの“Develop Conference”で行われた“ゲーム開発者にとっての開発業界のヒーロー”(game developers' game development hero)にも、世界中のクリエイターから集計された9000票の内の3分の1もの票数を獲得し、ヒーローに選ばれている[17]

またディズニーの副社長で、ディズニー・インタラクティブ・スタジオの代表者であるグラハム・ホッパーは宮本を、「ビデオゲーム産業において世界規模で何度も成功した一握りの人間であり、さらにそれが長期間に渡っている人物。おそらく彼と同じレベルで肩を並べられるクリエイターは存在していない」(訳文)とまで評価している[18]

アニメ監督細田守は金沢美術工芸大学の後輩にあたり、宮本の「万人向け」(後述)の製作理念から細田も宮本を尊敬している一人である[19]

万人向け[編集]

宮本が目指しているゲーム作りの姿勢として「万人向け」というものがある。これは今ゲーム業界で広義的に認識されている「万人向け=ファミリー向け」とは異なり、文字通りの「万人」を指す。すなわち、初心者、ライトユーザー、コアユーザー、幅広い年齢層や性差も越えて、購入してくれた消費者全てに満足してもらえる、極めて高い顧客満足度を満たすゲームを作りたいという意味である。無論、ゲームに限らず、様々な娯楽商品、ひいては日用品や消耗品に至るまで完全な顧客満足度を得る商品の開発は究極の到達点であり、事実上不可能であると言える。しかし敢えてそこに目標を据える事で、商品開発のレベルを維持し続け、また思いも拠らぬ部分から認められる新たな商品価値が発生するかも知れないことから、宮本は「万人向けを目指している」と答えている。

「万人向け」の一つとして、「みんなが楽しめるように」とゲームシステムにおいてパーティ性および多人数同時プレイの要素を積極的に盛り込んだゲームを製作していることが挙げられる。長年取組み続けているものとしては「同時プレイが出来るスクロールアクション」があり、古くは1996年の『星のカービィ スーパーデラックス[20]、近年においても『スーパーマリオギャラクシー[20]や『New スーパーマリオブラザーズWii』などで取り組んでいる。また、同業者である西健一によれば宮本は、「順位が決まることが当然とされるレースゲームにおいてなどでも、『順位の撤廃』を一つの目標としている」といった意識を持っており、基の良さを残しつつも、障壁となるような既存の概念を打破することでゲームは進歩できるという哲学を持っていると分析した[21]

宮本がこのスタイルを芯においたきっかけとして、自身が漫画から受けた影響を明かしている。宮本も高校時代にはいわゆる「尖った」作風の漫画[22]を格好良いと思った時期もあったが、当時その作風だった山上たつひこが後に、ギャグ漫画である『がきデカ』を描いたこと、また、広い世代に読まれたギャグ漫画である鳥山明の『Dr.スランプ』の登場を見て、漠然と「漫画の行く路線はこれだよなぁ」と感じた事を語っている。これは自身の作風がいわゆる「尖った」方向性ではないことの自覚とも繋がっており、ゲームの製作にもその作風が表れている[19]

なお、宮本のゲーム製作は1980年代は過去の体験が反映されたものが多かった(幼少期の遊び→スーパーマリオやゼルダ)が、2000年代になると現在進行の日常生活と密接に連動しているものが激増した。「ゲームを生活の道具にする」という路線を打ち出したためであり、任天堂本社からインタビュー等でみだりに日常生活についてしゃべらないように注意を受けているとも言われている。糸井重里によると、宮本は「生活力の人」であり、重役になった人間は普通やりたがらない町内会やPTAの仕事を積極的にやっているという[23]

宮本は「アイデア」を「複数の問題を一気に解決するもの」と考えており、この発想は開発方針と難題の解決法に結びついている[24]

万人向けゲーム開発と同様の理由で、2000年代半ばから任天堂が取り組み始めている新規ユーザを開拓する「ゲーム人口の拡大」においても積極的に取り組んでおり、ニンテンドーDSのタッチスクリーンやWiiWiiリモコンなど直感的な操作が可能なインターフェイス、およびそれらに対応したソフト開発において主導的な役割を果たしている。
これらのゲームは、従来のゲームに精通したユーザや開発者からは今なお懐疑的な意見が存在するが、かつて共同でゲームを製作し後輩格でもある桜井政博が聞いた話に寄れば、きっと山内溥前社長なら「もしもこの業界で儲かることができないのなら、その経営者は業界に向いていないということなのだから、さっさとあきらめて別のビジネスをしたほうがよろしい」と言うだろうと回答したという[25]

これらの実現を目指し、実践できている宮本の開発者の姿勢を、岩田は「行動経済学を天然で使いこなしている」と評価している[26]

ちゃぶ台返し[編集]

1本のゲームソフト開発に注力する立場から、任天堂関連ソフトを全体的に監修する立場となった現在、駄目出しの結果「面白くない」と強権を発動してほぼ白紙に戻す「ちゃぶ台返し」(本人命名、:return tea table[27])を行うことが多々あるという。それは、個別に仕様を変更した結果、全体が変わっていたものから、初めから作り直しになるものまである。このことから情報開発本部や関連取引会社からは「宮本チェック(ミヤホンチェック)」として大いに恐れられているという。

駄目出しをする行動自体は宮本自身が以前にも語っており[28]、宮本の「作品を面白くしようとする製作姿勢」は広く知られていたが、実際問題どれがどのように変わったかという個別の案件は知られていなかったが、2004年3月24日にアメリカで開催されたゲームクリエイターのための会議「Game Developers Conference 2004」において講演した青沼英二が、宮本茂の「ちゃぶ台返し」を面白おかしく語った事がきっかけで、全世界的に知られるようになった[29]

また、宮本が手がけた作品である『Wii Sports Resort』や『パイロットウイングス リゾート』の舞台となる「ウーフーアイランド」には、ちゃぶ台がひっくり返った形とされる「ダイチャブ岩」が3か所ある。

以下、ちゃぶ台返しが行われたと判明しているゲームを箇条書きで記す。

1991年末当時、『ティンクル・ポポ』というタイトルで株式会社HAL研究所からの1992年1月下旬の発売が既に決定し、2万6000本も受注していたのにも関わらず、宮本の「ちょっといじるだけで物凄く面白くなる」という発言を受けて桜井政博ら開発者達が一旦発売を中止にする。キャラクターデザイン面などを再調整した後、任天堂が発売元となり、再度受注を取り直して発売。最終的には日本国内で約172万本、世界累計500万本以上を売り上げ、「カービィ」という新たな任天堂キャラクターの確立に至る。
ビリヤードとゴルフを掛け合わせたようなボールアクションゲーム。立体空間のステージの中、ボールに扮したカービィをビリヤードのように転がす、またはゴルフのように打つことによって、決められた穴にカップインさせることでステージクリアとなるゲームであるが、開発当初は、打つ方向と角度を自由自在に選択できるゲームデザインだったため、マーカーが表示される軌道の通りに正確に打てられれば、慣れてしまえば容易にカップインできてしまい、単調なゲームが出来上がってしまった。そこで宮本は、打ち上げる角度を固定化することを提案。開発現場は当初難色を示したが、カービィの動きに制限をかけることで、プレイヤーに打つ力加減を考えさせ、ゲームに幅を持たせることに成功した[30]
「NINTENDO64」の発売前から開発が続いており、当初はNINTENDO64が発売された1996年内に発売する予定であった。しかし開発の遅れやより高い品質を目指すため年単位で延期を繰り返し、結局発売は1998年11月21日まで伸びに伸びた。当初は青沼英二小泉歓晃等のディレクター達がゲームの実開発を行い、プロデューサーの宮本茂は音の注文や、サブゲームを補完していく形で開発は進められた。当初は宮本は一歩引いた立場で監修するつもりであったが、宮本が現場に入らないと終わりが見えなくなってしまった事もあり、最終的に直接指揮をとって完成させている[31]。この事について宮本は後に「自分のわがままで作業が遅れたので、途中から仕様書を1/4くらい書く羽目になった」と語っている[32]
なお、この作品以降NINTENDO64の時代の間、任天堂は発売直前にならないとソフトの発表を行わないようになった。
アメリカのコンピュータゲーム開発会社、レトロスタジオの社員曰く、「宮本茂氏の来訪は、(スター・ウォーズに例えると)銀河皇帝デス・スター訪問並みの恐怖」とのことで、宮本は国内外を問わず必要と見たら「ちゃぶ台返し」を行っている。当時のレトロスタジオでは4つのプロジェクトが同時進行しており、宮本氏らが来訪した際の企画会議で再検討が行われた結果それらのプロジェクトは全て断念。そこで長年中断していたメトロイドを宮本氏が打診した事でメトロイド1つに焦点を合わせる事になった。初期開発段階の試作品はスーパーマリオ64の様なTPSスタイルの探索ゲームであった。しかしその出来具合はかなり酷い仕上がりであったため、宮本氏のちゃぶ台返しによって視点はFPSスタイルに変更、開発中断となったFPSゲームのゲームエンジンを流用する以外は殆ど一からの作り直しを余儀なくされた。尚、その時の技術はモーフボールモードの3人称視点切り替え時にのみ活かされる事になった。
このゲームにはナビゲーターの声を頼りに、フィールドの中を駆け回って指示通りに「海賊のメダル」を集め回る『ナビトラッカー』というゲームモードがある。このゲームモードは当初、集めるものはスタンプだった。開発の終盤も終盤、宮本の「そこを変えると、ゲームのイメージがガラッと変わるから」との進言で、それまでのスタンプラリーから、世界観に適した「海賊のメダル」を集めるという内容に全面的に変更されることが決まった。これが2004年1月初旬のことで、本作の発売日は2004年3月18日であった。結果、約2か月の間にシナリオ、セリフ、ナビゲーターの音声録音、ゲームデザイン、グラフィックス、演出などが作り直されることになっている[33]
クレジットはプロデューサーであるが、現場に入り実際の開発にも深く携わる。岩田聡社長直々の提案もあり、2005年末の発売予定を2006年末まで1年間延期する決断を下す。その上で、迷走していた要素を1つ1つ丁寧にしっかり纏め上げるよう指示を出しては納得できないスタッフに説明し、説得した上で再修正したり、不安な要素を払拭する地道な工程などを指示した。宮本曰く、「茶碗を並べ替えただけ」。開発スタッフ曰く、「オセロみたいな感じ」、「いつの間にか真っ黒になっている」という、今までにないパターンの「ちゃぶ台返し」だったとのこと。
宮本がスタッフを納得させる手法はスタッフ曰く、「相手を動けないようにしてから避けようのない急所を突く」。スタッフが納得できない場合、逆にどうしたらできるかを問い詰めた上で、宮本が反撃、スタッフを的確に突き上げ改心させるというものらしい。
それまでになかった点として、業務指示の手段に携帯電話メールが多用されたという。宮本からスタッフへの変更指示は、通称「とほほメール」と呼ばれる。
また、2005年5月から2006年5月のE3の間に、それまでは「プロデューサー」であった青沼英二の肩書きが「ディレクター」へと変わっており、青沼曰く「1年間作ったのに宮本にちゃぶ台を返され、その結果だ」と述べている[34]

その他[編集]

  • 2007年開催のGDCにて上映されたMega64撮影によるムービーに宮本茂本人が登場した。ムービーの内容は、マリオルイージに扮した人が街を疾走し、通行人にちょっかいをかけるが、突如現れた宮本茂に睨まれ決まりが悪そうに退散、宮本の後ろに居たリンクも驚いて引き帰すと言うものであった[35]
  • ゲームボーイ用ソフト『ポケットモンスター 赤・緑』に登場するライバルのデフォルトネームに「シゲル」が存在する。これは、宮本の名前に由来している(サトシの名前の由来は、『ポケットモンスター』の生みの親である田尻智)。アニメ版も同様。
  • 2009年に開催されたE3の質疑応答の中で、「最も影響を受けたゲームは何か」という質問に、ウィル・ライトの『シムシティ』だと答えている[36]
  • アメリカのゲーム誌「EDGE」2008年12月号の表紙では、両手にWiiコントローラーを持ち、タレントDAIGOの決めポーズ「うぃっしゅ」の真似をする姿が載っている。

作品[編集]

代表作[編集]

作品リスト[編集]

主な受賞歴[編集]

個人賞[編集]

  • 1990年 - 日本文化デザインフォーラム主催「日本文化デザイン賞」受賞
  • 1993年 - 日本ソフトウェア大賞実行委員会主催 日本ソフトウェア大賞'92「MVP」受賞(創設第1回目受賞)
  • 1996年 - 朝日新聞社主催 朝日デジタル・エンターテインメント大賞「ホーム部門個人賞」受賞
  • 1997年 - 日本ソフトウェア大賞実行委員会主催 第5回日本ソフトウェア大賞「MVP」受賞
  • 1998年 - (アメリカ)ACADEMY OF INTERACTIVE ARTS AND SCIENCES主催
The First Interactive Achievement Awards「THE HALL OF FAME AWARD」受賞(創設第1回目受賞)
  • 1998年 - 第13回マルチメディアグランプリ1998 MMCA会長賞受賞
  • 2003年 - (イギリス) Golden Joystick Awards 2003「Hall of Fame Industry Personality of the Year Award」受賞
  • 2004年 - 石川県金沢市主催「eAT'04 KANAZAWA名人賞」受賞
  • 2005年 - (アメリカ) Game Developers Conference 2005「Walk of Game」「Livetime Achievement」受賞(創設第1回目受賞)
  • 2006年 - フランス政府・文化通信省 芸術文化勲章「シュバリエ章」受章
  • 2007年 - 第12 回AMD Award「功労賞」受賞(デジタルメディア協会)
  • 2007年 - (アメリカ)The 7th GDC「Lifetime Achievement Award(生涯功労賞)」受賞(IDGAメンバー選出)
  • 2007年 - 金沢美術工芸大学 栄誉賞受賞(創設第1回目受賞)
  • 2008年 - CEDEC AWARDS 2008「特別賞」受賞(創設第1回目受賞)
  • 2008年 - (アメリカ)Entertainment Software Association主催
チャリティイベント「Nite to Unite for Kids」2009ESAチャンピオンアワード受賞

その他の賞[編集]

  • 1998年 - AIAS殿堂(AIAS Hall of Fameアメリカのゲーム業界の功労者に贈られる賞)に世界で初めて選ばれた。
  • 2005年3月 - ハリウッド名声の歩道にならってサンフランシスコメトレオンに作られた「ゲームの歩道(Walk of Game)」においても、ノーラン・ブッシュネルと宮本の名が、星印の中に刻まれた。
  • 2006年3月13日 - フランス政府から、芸術文化勲章「シュバリエ章」を受章したことが発表された。これはゲーム産業界としては初めての快挙。インタビューでは「芸術の中心のような国からも評価されて光栄だ。1人でやった仕事ではないが、ゲーム界全体にとって光栄なことなのでお受けすることにした」と答えている。
  • 2006年11月13日 - 『TIME』誌アジア版(Vol. 168, No. 20)にて、黒澤明宮崎駿小澤征爾盛田昭夫井深大安藤百福森英恵三宅一生川久保玲王貞治と共に「60年以内のアジアの英雄」に最年少で選ばれた。
  • 2007年5月4日 - 『TIME』誌アメリカ版にて、「TIME 100(世界で最も影響力がある100人)」にトヨタ自動車渡辺捷昭社長と共に選ばれた。
  • 2007年1月31日 - 社団法人デジタルメディア協会(AMD)主催の「デジタル・コンテンツ・オブ・ジ・イヤー'06/第12回AMDアワード」で、デジタルコンテンツ業界の発展に貢献したとして功労賞を受賞した。スケジュールの都合がつかなかったため当日の授賞式は欠席したが、ビデオメッセージでコメントし「“功労賞”をいただく歳になってしまったが、これからもまだまだ現役でやっていきたい」と意欲を語った。
  • 2007年 - 米国の経済誌『Business 2.0』による、最も影響力がある経営者らを選出する「気になる人物ベスト50」において、20位で選出された(日本人からは2名選出で、もう1人はトヨタ自動車渡辺捷昭社長(10位)。選考理由は「ゲーム産業に新たな息吹を吹き込んだ」との評価から。
  • 2007年 - イギリスの経済誌『The Economist』から“ゲーム業界に多大な貢献をした”ことを理由に表彰され、その授与式がロンドンの科学博物館で行われた。受賞理由として「宮本氏を抜きにしては現代のゲーム業界を語ることはできない」からとコメントされている[40]
  • 2008年 - 「Your Time 100」(『Time』誌の読者が選ぶ「影響力がある100人」)においてトップとなった[41]。最終獲得票数は197万4651票に及んだ(ゲーム産業界から他にリスト入りしたのはマイクロソフトのビル・ゲイツと、マイクロソフトの最高経営責任者(CEO)スティーブ・バルマー[42]

宮本茂について書かれたもの[編集]

  • 雑誌 『ユリイカ』2006年6月号、青土社 特集=任天堂/Nintendo「宮本茂をめぐって コンピュータ・ゲームにおける作者の成立」井上明人

参考文献[編集]

  • ニンテンドー・イン・アメリカ: 世界を制した驚異の創造力(早川書房、2011年)

脚注[編集]

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  1. ^ 社長が訊く『Wii Music』 - 任天堂
  2. ^ 『スペースファイヤーバード』や『シェリフ』など。ブロック崩しの本体デザインも宮本の仕事である
  3. ^ 当時の任天堂のアーケードゲームは上村雅之らを初めとしたハード技術者がソフトも手掛けていた。
  4. ^ 後藤弘茂 (2006年12月6日). “後藤弘茂のWeekly海外ニュース 任天堂 岩田聡社長インタビュー(1) マンマシンインターフェイスを直感的にすることがカギ”. PC Watch. 2010年1月10日閲覧。
  5. ^ 任天堂ホームページ 社長の代わりに糸井重里さんが訊く 2.「きみ、けっこうネガティブやな」”. 任天堂 (2010年9月13日). 2011年3月13日閲覧。
  6. ^ 任天堂ホームページ 社長の代わりに糸井重里さんが訊く 6.ものごと単純化するために。”. 任天堂 (2010年9月13日). 2011年2月1日閲覧。
  7. ^ 例として小学館『マザー百科』では、自身が『MOTHER』の主人公に付けた名前が「みやほん」となっている。
  8. ^ 社長が訊く『ゼルダの伝説 時のオカリナ 3D』
  9. ^ 社長が訊く『ゼルダの伝説 スカイウォードソード』”. 任天堂. 2011年11月22日閲覧。
  10. ^ Nintendo DS Creator's Voice 『いただきストリートDS』企画・原案 堀井 雄二 × 任天堂株式会社 専務取締役・情報開発本部長 宮本 茂”. 任天堂. 2010年1月10日閲覧。
  11. ^ 社長が訊く『ゼルダの伝説 時のオカリナ 3D』
  12. ^ MSが任天堂を250億ドルで買収する計画だった?”. ITmedia (2002年4月30日). 2010年1月10日閲覧。
  13. ^ Your TIME 100 - The TIME 100 — Are They Worthy?” (英語). TIME. 2010年1月10日閲覧。
  14. ^ “丹波発 ふるさとの君たちへ 宮本茂さん”. 京都新聞. (2001年12月23日). http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/tanba/08.html 2010年1月10日閲覧。 
  15. ^ TIME』 1996年5月号
  16. ^ Kenji Hall (2009年5月6日). “Hideo Kojima: Gaming's Designer-in-Chief” (英語). BusinessWeek. 2010年1月10日閲覧。
    ゲームデザイナー小島秀夫氏に世界の称賛 販売本数2650万本の「メタルギア」の生みの親の人気” (日本語). 日経ビジネス (2009年5月13日). 2009年5月13日閲覧。
  17. ^ [海外ゲームニュース宮本茂氏、ゲーム開発業界のヒーローに - ファミ通.com]”. ファミ通.com (2009年6月15日). 2009年6月15日閲覧。
  18. ^ Seth Schiesel (2008年5月25日). “Shigeru Miyamoto of Nintendo Expands His Empire” (英語). New York Times. http://www.nytimes.com/2008/05/25/arts/television/25schi.html 2010年1月10日閲覧。 
  19. ^ a b 『細田守 PLUS MADHOUSE 03』「特別対談 宮本茂×細田守」 キネマ旬報社
  20. ^ a b 社長が訊く『スーパーマリオギャラクシー』 Vol.4 宮本茂篇”. 任天堂 (2007年10月25日). 2010年1月10日閲覧。
  21. ^ Hello , Hello , Hello ,『ギフトピア』!! 第1回 「これで決まんなかったら解散しようと」”. 樹の上の秘密基地。. ほぼ日刊イトイ新聞 (2003年4月24日). 2010年1月10日閲覧。
  22. ^ 当時はそういったジャンルの登場初期であった。
  23. ^ 朝日新聞 be on Suaturday 2009年4月11日 フロントライナー 宮本茂
  24. ^ ほぼ日刊イトイ新聞 「任天堂の岩田社長が遊びに来たので、みんなでご飯を食べながら話を聞いたのだ。」
  25. ^ 株式会社エンターブレイン刊「週刊ファミ通」連載コラム「桜井政博のゲームについて思うこと」第106回より。
  26. ^ 任天堂ホームページ 社長の代わりに糸井重里さんが訊く 9.消費者として標準的であること。”. 任天堂 (2010年9月13日). 2011年2月1日閲覧。
  27. ^ Wii.com JP - 社長が訊く『マリオカートWii』 番外編”. 任天堂 (2008年4月3日). 2010年1月10日閲覧。
  28. ^ 武田亨「It’s The NINTENDO」(2000年、ティーツー出版)など
  29. ^ http://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20040325/zelda.htm
  30. ^ 『ファミ通DVDビデオ ゼルダのビデオ~ゼルダのすべてを教えよう~』(2003年2月19日、株式会社エンターブレイン製作、株式会社ソニー・ミュージックディストリビューション発売)の宮本茂インタビューより。
  31. ^ 『ゼルダの伝説時のオカリナ百科』エンターブレイン刊 ISBN 978-4757700758
  32. ^ 樹の上の秘密基地 「ゼルダの伝説 時のオカリナ」の情報・産地直送!』
  33. ^ 『ニンテンドードリーム』Vol.110 2004年3月19日発売号 N.O.M 2004年3月号 - 『ゼルダの伝説 4つの剣+』 - 駆け込み大改変?開発スタッフインタビュー
  34. ^ 社長が訊くWiiプロジェクト - Vol.5『ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス』編、任天堂ホームページ
  35. ^ GDC 2007--ゲーム・オブ・ザ・イヤーは「Gears of War」が受賞 - GameSpot Japan
  36. ^ Gamasutra - News - E3: An Audience With Shigeru Miyamoto
  37. ^ 社長が訊く - 『大乱闘スマッシュブラザーズX』エンターブレイン『桜井政博のゲームについて思うこと DX Think about the Video Games』より
  38. ^ [1]
  39. ^ 時事ドットコム - スペイン皇太子賞に任天堂の宮本氏=「マリオブラザーズ」など開発
  40. ^ http://www.4gamer.net/games/000/G000000/20071023012/
  41. ^ 先述の「世界で最も影響力のある100人」のオンライン版にあたる。
  42. ^ ただし、印刷版「Time 100」で特集記事を組まれたのは別な人物となっている。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]