雨ニモマケズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

雨ニモマケズ」(あめにもまけず)とは宮沢賢治の没後に発見された遺作のメモである。一般にはとして受容されている。広く知られており、賢治の代表作のひとつともされるものである。

目次

概要 [編集]

「雨ニモマケズ/風ニモマケズ」より始まり、「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」で終わる漢字交じりのカタカナ書きである。対句のような表現が全編にわたって用いられている事、最後のセンテンスになるまで主語(私)が明かされない事が特徴といえる。

執筆 [編集]

東北砕石工場の嘱託を務めていた賢治が壁材のセールスに上京して再び病に倒れ、花巻の実家に戻って闘病中だった1931年秋に使用していた黒い手帳に記されていたものである。冒頭部の上の部分に青鉛筆で「11.3」の書き込みがある事から、同年11月3日に執筆したと推定されている。手帳は全体として自省とその当時の賢治の願望が綴られた内容となっている。この手帳は今日、研究者からは「雨ニモマケズ手帳」と呼ばれる。手帳の存在は賢治の生前には家族にも知られておらず、その背景からも本作は未発表であった。

発見と発表 [編集]

この手帳が発見されたのは、賢治が亡くなった翌1934年2月16日に東京・新宿で開催された「宮沢賢治友の会」の席上である。この会合には、招かれた賢治の弟・宮沢清六が賢治の遺品である大きな革トランク(上記の壁材セールスの際にも使用した)を持参していた。席上、参加者の誰かがこの革トランクのポケットから手帳を取り出し他の参会者にも回覧された。その模様を参加した詩人の永瀬清子が後に書き記している[1]

最初の活字化は、没後1年を記念した1934年9月21日付の岩手日報夕刊の学芸第八十五輯「宮沢賢治氏逝いて一年」に「遺作(最後のノートから)」と題して掲載されたものと思われる。続いて1936年7月、日本少国民文庫の「人類の進歩につくした人々」(山本有三編)に収録された。この間、1934~1935年にかけて最初の「宮沢賢治全集」(文圃堂)が刊行されているが、こちらには本作は掲載されていない。

1936年11月には花巻に本作を刻んだ詩碑(後述)が建立され、1939年刊行の児童向け作品集「風の又三郎」(羽田書店)への収録などによって広く世に知られるようになる。

手帳は、2007年7~10月に賢治の描いた絵画などとともに国内各所で公開された。手帳の公開は1995年と1996年の公開から12年ぶりとなる。

2011年4月11日、ワシントンナショナル大聖堂において、東日本大震災で犠牲となった者を悼む、宗派を超えた追悼式が開かれ、サミュエル・ロイドⅢ世大聖堂長により、復興への祈りが捧げられた後、『雨ニモマケズ』が選ばれて英語で朗読されている[2]

法華経の精神 [編集]

「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲の束ヲ負イ」のように労をいとわず手助けをし「ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ」とあるのは、『法華経』の常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)の精神をあらわしているのだとされる[3]

なお詩句の最後の箇所は手帳の右側(この手帳は右開きで使用されている)で終わっており、その左側に「南無無邊行菩薩/南無上行菩薩/南無多宝如來/南無妙法蓮華経/南無釈迦牟尼佛/南無浄行菩薩/南無安立行菩薩」という題目が記されている(「南無妙法蓮華経」はやや字間が広く取られている)。

評価・解釈にまつわる論争 [編集]

「雨ニモマケズ」論争 [編集]

戦前から戦中にかけて賢治の研究・紹介を行った哲学者の谷川徹三はその著作や講演で本作を主としてテーマ的な側面から高く評価し、賢治に対する「偉人」的評価の象徴として本作を捉える流れを先導した[4]。これに対して戦後、賢治の置かれた社会的立場と文学性を踏まえた評論を行った詩人の中村稔は本作について「ふと書き落とした過失のように思われる」と評し否定的な立場を表明する[5]1963年、谷川が雑誌『世界』に寄稿した「われはこれ塔建つるもの」の中で中村の論考を批判、中村も『文藝』に反論「再び『雨ニモマケズ』について」を掲載したことから、世間ではこれを「雨ニモマケズ」論争と称した[6][7]。この「論争」は賢治の作品の受容においてどの点を重視するかという差に帰するものであり、研究史の上では(個々の著作自体の意義とは別に)積極的な意義を持つものではなかった。中村は2012年に刊行した回想録で「不毛な論争だった」と述べている[6]

「ヒデリ」か「ヒドリ」か [編集]

最初の発表時から「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」とされている箇所は、手帳の原文では「ヒドリノ…」と書かれている。これは清六はじめ、歴代の全集編集者が誤記とみなして校訂してきたものであるが1980年代後半に花巻農学校での賢治の教え子の一人が農家にとって日照は喜ぶべきものであり、「ヒドリ」は日雇い仕事の「日取り」を意味するもので「日雇い仕事をせざるを得ないような厳しい暮らしのとき」と原文通りに読むべきであるとの説を提起した。これに対しては、「校本宮澤賢治全集」の編集者で草稿調査を行った詩人の入沢康夫が以下のような、校訂の根拠を提示した。

  • 他の詩で「ひど」と書いて消し、「ひでり」に直しているものがある。賢治には「デ」を「ド」に誤記する書き癖があった。
  • 次の行「サムサノナツハオロオロアルキ」と対照にならず、本作の他の箇所でも多用されている対照の手法からここだけはずれてしまう。
  • 確かに農家にとって日照は重要であるが、過剰な日照による旱魃へのおそれは賢治も複数の作品で取り上げている。

研究者の間ではこの説明に沿って「ヒデリ」(日照り)への校訂がほぼ定着しているが、愛好者のレベルでは「ヒドリ」と読むべきだという人が存在している。

それらの中には、「日取り」とは異なる根拠で校訂を不要とする以下のような見解がある。

  1. 「デ」と「ド」の誤記という見解について賢治の他の文章にそのような箇所があったとしても、手帳がそうであったとは言えないとするもの。
    手帳の本文をみると、何箇所かに修正が入っている。
    (例)ヨクワカリ→ヨクミキキシワカリ
    もし「ヒデリ」を「ヒドリ」と誤っていたのであれば賢治は当然修正しているはずであり、賢治がそれを敢えてしていないということは賢治は「ヒドリ」と書いたと理解すべき[8]
    この指摘に対しては、入沢康夫は、この手帳全体について行われた手直しは書きながらのものだけで、後から見直して行った修正はないと推測される(他の箇所で「諸仏ニ報ジマツマント」(正しくは「諸仏ニ報ジマツラント」)という誤記がそのままになっている)ことを指摘している[2]
  2. 冷夏と旱([訓]ひでり)を「対応」させるのが妥当だという説明について、「ヒドリ」でも十分対応しているとするもの。
    下記のような岩手県在住者の証言が2004年に地元紙に掲載された。
    • 猛暑・炎熱によって目の炎症になることを「ヒドリマゲ」とも言い、今でも電気溶接者などが使用している。
    • 方言の解釈は、その土地の風習風土から生まれた言葉(方言)や通称の土地名など熟知しないと正しい意味がくみ取れないものであり、他県の賢治研究者は方言の発音語呂を共通語に結び付けて意味を重ね合わせて自己流に解釈された見本だと(引用者注:賢治の生前を知る宮沢清六・森荘已池の)両名が明言したのを耳にした(2004年9月14日付盛岡タイムス「盛岡弁に隠された先人の英知に迫る」に掲載された男性(滝沢村在住)の証言より要約 当該記事へのリンク 文中「森佐一」とあるのは森荘已池の本名)。
      この証言に関しては、長らく賢治全集の編集に深く携わった宮沢・森の両名がなぜ全集等に掲載された本作においてそのような表記を採用(もしくは変更)しなかったのかという説明がない。

玄米四合 [編集]

太平洋戦争終戦直後の昭和22年の文部省国定教科書に、当作品が掲載されている。日本の食糧事情から贅沢と思われるという理由からGHQの統制下にあったCIEの係官は一度、当作品の掲載を却下したものの、玄米四合」を「玄米三合」への変更を条件として許可されたとされている[9]。 国定教科書は宮沢賢治の遺族の了解をもって、石森延男の編集によって三合に変更されたが、作品を改ざんするのは忍びなかったが、当時の状況としては仕方がなかったと語っている。

戦前までの日本の労働者は、わずかな副食物で大量の米飯を摂取する食習慣であった。一例として、当時の日本陸軍の食事規定では一回の食事につき主食として三食とも麦飯2合、副食として朝食は汁物(味噌汁・澄まし汁など)と漬物、昼食および夕食は肉や魚を含んだ少量のおかず一品(献立例をあげると、「アジフライ一枚に塩ゆでキャベツ」)と漬物である[10]。 

詩碑、派生作品 他 [編集]

雨ニモマケズ詩碑(花巻市

詩碑 [編集]

賢治の死去から3年後の1936年11月21日に、賢治が独居自炊した花巻市内の別宅(羅須地人協会)跡に本作の詩碑が建立された。賢治の作品としては最初の文学碑である。有名な冒頭部分ではなく、「野原ノ松ノ」以下の後半部分が刻まれている。揮毫は生前より賢治を評価していた高村光太郎が当たった。ただし脱漏がある事が後に判明し、1946年に戦時中から花巻に移住していた高村自身の手で追刻されている。詩碑の下には文圃堂版の全集や賢治の遺骨の一部も納められている。このうち遺骨については当時賢治の独立した墓碑がなく(現在の墓碑ができたのは宮沢家が改宗した1951年)、その代わりという意味合いもあった。

現在、花巻市で「賢治詩碑」というとこの碑の事を指す(バス停の名前にもなっている)。1946年以降、毎年賢治の命日である9月21日の夜に碑前で「賢治祭」が行われている。

なお、この詩碑以外にも本作を刻んだ文学碑は全国に複数存在している。

映画 [編集]

1958年東宝が制作・上映した賢治の伝記映画にタイトルとして用いられた。詳細は宮沢賢治#映像作品を参照。

楽曲 [編集]

本作品に曲を付けて歌とする試みも行われている。著名な音楽家によるものを挙げる。

その他 [編集]

のれんや手ぬぐいなどのみやげ物に印刷されたり、方言をはじめとする数多くの改作やパロディが作られている。

出典 [編集]

  1. ^ 永瀬清子「『雨ニモマケズ』の発見」『宮沢賢治研究』11号(宮沢賢治研究会、1972年)。のち『文芸読本 宮澤賢治』(河出書房新社、1977年)に再録。永瀬は「この手帖がこの夜のみんなの眼にはじめてふれた事については疑いがないように私は思う」と記している。
  2. ^ 2011年4月12日14時0分、NHKニュース『ワシントン 犠牲者追悼の祈り』
  3. ^ 森本正昭『響き合う共生社会へ:障害者を支援するための本』パレードブックス、2007、200頁など。しばしばそう指摘されている。
  4. ^ 谷川徹三『雨ニモマケズ』生活社、1947年(のち講談社学術文庫に収録)、『宮沢賢治』要書房、1951年ほか。
  5. ^ 中村稔『宮沢賢治』書肆ユリイカ、1955年。その後数次の増補改訂を経て最終版は1972年(筑摩書房)。
  6. ^ a b 中村稔『私の昭和史 完結篇 上』青土社、2012年、pp.66 - 84
  7. ^ それぞれの内容は同年刊行された両者の単行本(谷川は『宮沢賢治の世界』(法政大学出版局)、中村は1955年版の増補改訂となる『定本・宮沢賢治』(七曜社))にも収録された。
  8. ^ この画像をみると無訂正であることがわかる [1]
  9. ^ 『宮沢賢治研究資料集成 第12巻』P.349-P.340
  10. ^ 学研・歴史群像シリーズ「帝国陸軍 戦場の衣食住」より
  11. ^ http://www.youtube.com/watch?v=QiAPiZyTASM

外部リンク [編集]