毛利秀包

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毛利 秀包
時代 安土桃山時代
生誕 永禄10年(1567年
死没 慶長6年3月22日1601年4月24日
改名 才菊丸(幼名)→大田元綱→小早川元総
→秀包→毛利秀包
別名 諱:行包
通称:藤四郎
受領名:市正、内記
戒名 玄濟道叱
霊名 シマオ・フィンデナオ
墓所 普賢寺山口県下関市
官位 従四位下筑後守
主君 豊臣秀吉毛利輝元
長州藩
氏族 毛利氏大田氏小早川氏→毛利氏
父母 父:毛利元就、母:乃美大方
養父:大田英綱小早川隆景
兄弟 毛利隆元五龍局宍戸隆家室)、吉川元春
小早川隆景二宮就辰穂井田元清
毛利元秋出羽元倶天野元政末次元康
毛利秀包
養子兄弟:小早川秀秋
正室:桂姫大友宗麟の娘)
毛利元鎮(毛利家継嗣)、毛利元貞
小早川能久(通称:式部、小早川家継嗣)

毛利 秀包(もうり ひでかね)は、戦国時代から安土桃山時代武将、大名。

生涯[編集]

誕生から養子時代まで[編集]

永禄10年(1567年)、毛利元就の九男として生まれる。長兄の隆元は生まれる前に死去していた。元亀2年(1571年)に備後に所領を与えられるが、同年5月に同じ備後の国人大田英綱が死去し、その遺臣に懇願されて大田氏の後継となり、大田元綱(おおた もとつな)と名乗った。そして天正7年(1579年)に母の乃美大方小早川氏庶流乃美氏の出身であるという縁もあり、兄の小早川隆景の養子となり、元服した後は小早川元総(こばやかわ もとふさ)を名乗る。

天正11年(1583年)、人質として甥の吉川広家と共に大坂の羽柴秀吉の下に送られた際に「秀」と「藤」の字を賜り、藤四郎秀包(ひでかね)と改名する。人質でありながらもその行動は制限されたものではなく、翌天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも秀吉に従い出陣している。秀吉の下にある秀包を母の乃美大方は大変心配し、早期の帰還が叶うよう秀吉に働きかけてほしいと毛利輝元に訴えている。

大名取立て[編集]

秀包は容姿に秀でていたとされ、秀吉に優遇された。[1]天正13年(1585年)に河内で1万石、次いで四国征伐の際に金子元春の守る伊予金子城を攻略した戦功により伊予宇和郡大津城で3万5千石を与えられた。天正14年(1586年)から始まった九州征伐では養父・隆景に従って豊前香春嶽城を攻略し、戦後に隆景が筑前筑後を領すると、筑後3郡7万5千石を領した。天正15年(1587年)には久留米城を築き、居城とした。

肥後国人一揆の際は討伐軍の総大将として出陣し、和仁親実ら兄弟が籠城した田中城を攻略し、立花宗茂と共に戦功を挙げた。この際宗茂と意気投合、義兄弟の契りを結んだ。この2人には天正16年(1588年)7月、秀吉により羽柴氏を名乗ることが許された。この時、宗茂には豊臣姓が下賜されたが、翌年の天正17年(1589年)7月13日、秀包が侍従に任官すると同時に秀包にも豊臣姓が下賜された[2]。以降、秀包は「羽柴久留米侍従」と呼ばれるようになった。

久留米を居城とした後は大友宗麟の娘を妻とした縁もあり、受洗。洗礼名をシマオ(Simao)とした。以後はキリシタン大名としての活動が目立つようになり、天正19年(1591年)には高良山座主・麟圭[3](りんけい)・了巴(りょうは)父子を誘殺し、城下に天主堂を建設、キリスト教信者は7,000人と言われる。もっとも麟圭を滅ぼしたのは宗教対立からではなく、純粋な武力抗争の結果である。後に秀包は麟圭の末子・秀虎丸を召し出して高良山座主尊能としている。

文禄・慶長の役[編集]

天正20年(1592年)から始まる文禄の役では1,500の兵士を率いて朝鮮に出兵。全羅道攻略の際、大鼓城の攻城でも戦功を挙げた。碧蹄館の戦いでは隆景、立花宗茂と共に明軍を撃破している。その戦功により筑後久留米のまま5万5千石を加増されて13万石となり、筑後守に叙任された。

また第二次晋州城攻防戦では、明将劉綎が星州一帯に数万の明・朝鮮軍を集結させ、配下の琳虎に4万騎を与えて晋州城を攻撃しようとしたが、秀包は宗茂と共に4,000の兵でこれを撃退している。ただし『懲毖録』ではこの時明軍は動かなかったとあり、この戦闘には疑問がある。

  • 『問註所家譜』により文禄2年(1593年9月2日問註所統景問註所正白兄弟は小早川秀包の先鋒になって明の劉綎と晋州城外西南方二十里の河東郡に遭遇し以下数百兵は戦死した、立花宗茂は敗れた小早川軍を救援のため劉綎と対戦し、劉綎は敗れて晋州城に返る[4]

文禄3年(1594年)、秀吉の養子・木下秀俊(後の小早川秀秋)が隆景の養子となったために廃嫡され、別家を創設する。慶長2年(1597年)から始まる慶長の役においても参戦。竹島城と星州谷城で防戦し、大いに手柄を立てた。

関ヶ原の戦い[編集]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に加わり、8月に大坂城玉造口を守備した。9月3日には京極高次の籠る大津城を兄の末次元康や立花宗茂らと共に攻め、6人の部将を失い3人の重臣が重傷を負う痛手を蒙りながらも落城させた。しかし秀秋の内応や吉川広家・毛利秀元の日和見行為により西軍が敗れたため、大津城を撤退して大坂城に帰還する。

この時国許でも戦が起こっており、10月14日に久留米城は黒田孝高鍋島直茂率いる37,000の軍に攻撃を受けていた。城中には宿老桂広繁白井景俊以下わずか500の兵しか残っていなかったが、数日城は持ちこたえた後、両人は開城勧告に応じて城を明け渡した。秀包の正室桂姫と嫡男元鎮は黒田家の人質に、桂広繁の四男黒寿丸は鍋島家の人質とされた。

関ヶ原の戦い後は改易され、毛利輝元より長門国内に所領を与えられる。その頃、小早川秀秋の裏切りへの謗りを避けるため、小早川姓を捨てて毛利姓に復し、大徳寺で剃髪して玄済道叱と称した。帰国後は体調が悪化し、長門赤間関の宮元二郎の館で療養したが、翌慶長6年(1601年)に35歳の若さで病没。遺体は当時の秀包の知行地で、館があったと伝えられる現在の山口県下関市豊北町滝部に安置される。後に久留米には秀包を祀る小早川神社が建てられた。

嫡男の元鎮は吉敷毛利家の始祖となった。

人物[編集]

毛利一族の中では目立たない人物であるが、隆景が秀包を養子としたのは、彼が父の武勇を兄・吉川元春と並び最も受け継いでいたためだと言われている。秀包はその期待を裏切る事なく、毛利氏の一族として朝鮮に渡り、立花宗茂とも並ぶ抜群の武勇を誇り、小早川の名跡を汚すことなく活躍した。

鉄砲術が長けていたとされる。「秀包銃ヲ善クス其銃ヲ雨夜手拍子ト云フ」「毛利秀包略伝」


偏諱を与えた人物[編集]

小早川秀包 時代


登場作品[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 男色美麗なるに依って、秀吉公耽る心在しける故「毛利秀包略伝」
  2. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』29・38・39頁
  3. ^ 筑後入りの際に、秀吉が座主・良寛(麟圭の兄)に替えて座主としていた。
  4. ^ 『問註所家譜』[1]