毛利元鎮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
毛利元鎮
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正17年(1589年
死没 寛文10年2月26日1670年4月15日
改名 小早川才菊丸(幼名)→毛利元好→元鎮
別名 別名:元綱、元信、号:柳庵
通称:市正、式部、左馬、民部、伊賀
戒名 大初道一大居士
霊名 フランシスコ
墓所 黄龍山玄済寺山口県山口市吉敷
官位 式部少輔左馬助民部少輔伊賀守
主君 毛利輝元秀就
長州藩
氏族小早川氏→)毛利氏
父母 父:小早川秀包
母:大友宗麟の娘・桂姫(ドナ・マセンシア)
兄弟 元鎮、女(井原元以室)、女(毛利元景室)、
元貞、女(桂繁政室、井原元栄室)、
於佐手吉田重成室)、小早川能久
女(臼杵統尚娘、益田景祥室)
正室:穂井田元清の娘(毛利秀元の妹)
元包就正
養女:女(阿曽沼元郷の娘)
テンプレートを表示

毛利 元鎮(もうり もとしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将毛利氏の一門家老・吉敷毛利家の祖。小早川秀包の嫡男。

生涯[編集]

天正17年(1589年)、小早川秀包の子として生まれる。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には父・秀包の居城である久留米城にいたが、同年10月14日黒田如水鍋島直茂らの攻撃を受ける。城中には家老の桂広繁白井景俊以下わずか500の兵しか残っておらず、数日持ちこたえたものの開城勧告に応じて城を明け渡し、妹の於佐手が黒田家の人質に、桂広繁の四男・黒寿丸(後の桂包政)が鍋島家の人質とされた。元鎮は母の桂姫や幼少の弟妹たちと共に長門国豊浦郡川棚へと移った。

慶長6年(1601年3月22日に父・秀包が死去すると、毛利秀元毛利輝元への言上によって即時に元服し、7,000石を与えられて長州藩内で長門国豊浦郡の阿川滝部殿居を領した。後見役には家老の白井包俊(景俊の子)が秀元によって指名されている。

慶長12年(1607年)1月、長門国豊浦郡阿川において毛利輝元の仲介によって毛利秀元の妹を娶り、同年11月に嫡男・元包が生まれる。

慶長14年(1609年)、毛利輝元・秀就父子に対して忠節を誓う起請文を提出。また、慶長20年(1615年4月14日の、毛利元就の遺訓に従い毛利家へ別心を抱かない旨を誓った連署起請文では「毛利伊賀守元鎮」と署名している[注釈 1]

寛永2年(1625年)、周防国吉敷郡吉敷に領地替えとなり、1万1,000石余に加増される。以後一族は吉敷毛利と称し、一門家老吉敷毛利家となった。後に2万石への加増が内示されたが、断ったという。同年、病により嫡男の元包に家督を譲って隠居するが、この時まだ元包は幼年だったため、元包の伯父にあたる毛利秀元に後見を依頼している。

寛文10年(1670年2月26日、長門国豊浦郡殿居[注釈 2]で没した。享年82。

逸話[編集]

系譜[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ この起請文での署名は座配の様に記され、長門守秀就(毛利秀就)幻庵宗瑞(毛利輝元)が向かい合い、秀就の左側に宍戸備前守元続繁澤左近入道立節(繁沢元氏)毛利甲斐守秀元毛利兵庫頭元宣吉川又次郎広正が並び、右側に毛利山城守元倶阿曽沼左兵衛頭元随吉川蔵人広家繁澤志摩守元景毛利伊賀守元鎮が並んでいる[1]
  2. ^ 現在の山口県下関市豊田町大字殿居。

出典[編集]

  1. ^ 『毛利家文書』第1038号。

参考文献[編集]

  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション