中津城
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中津城 (大分県) |
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模擬天守と復興櫓
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| 通称 | 扇城 |
| 城郭構造 | 梯郭式平城 |
| 天守構造 | 不明 模擬(鉄筋コンクリート構造・1964年) |
| 築城主 | 黒田孝高 |
| 築城年 | 天正15年(1587年) |
| 主な改修者 | 細川忠興 |
| 主な城主 | 黒田氏、細川氏、小笠原氏、奥平氏 |
| 廃城年 | 明治4年(1871年) |
| 遺構 | 石垣、堀 |
| 指定文化財 | なし |
| 再建造物 | 模擬天守、二重櫓、塀 |
| 位置 | 北緯33度36分23.88秒 東経131度11分11.12秒 |
中津城(なかつじょう)は日本の城。所在地は大分県中津市二の丁(JR中津駅より徒歩15分)。福沢諭吉旧居と並び、城下町中津を代表する観光名所となっている。
目次 |
[編集] 形式と構造
梯郭式平城。縄張りが扇形をしているため、別名「扇城(せんじょう)」とも呼ばれている。周防灘(豊前海)に臨む山国川河口の地に築城され、堀には海水が引き込まれている。いわゆる水城であり、今治城・高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられる。北に二の丸中部に本丸、南に三ノ丸があり、全体ではほぼ直角三角形をした縄張りとなっていた。
[編集] 天守
天守が建てられたかは依然不明で、財政難で、或は、必要がないので建てられなかったというのが一般的である。江戸時代の絵図には天守は描かれておらず、本丸の山国川沿いにあった鉄門脇の三重に描かれた櫓が天守の代用となっていたと考えられている。
現在城跡には5重5階の天守と2重の櫓が存在するが、これは昭和39年(1964年)、萩城天守を模して薬研堀端の隅櫓跡に観光開発を目的として鉄筋コンクリート造で建てられた、いわゆる模擬天守と呼ばれるもので、奥平昌信が中心となって構想し、東京工業大学の藤岡通夫博士が設計、当時は現在の5重5階に地下一階があったという。高さは23mある。竣工から度々改変が行われており、最上階の高欄が撤去されたり、鯱がしばらく破損したままであったり、当時より小さいものに載せかえられるなどと維持管理に困難が生じている。
[編集] 歴史
- 天正15年(1587年) - 黒田孝高(如水)が、豊臣秀吉より豊前国6郡を与えられ築城に着手した。
- 慶長5年(1600年) - 黒田家は関ヶ原の戦いの戦功により福岡藩52万石に転封となり、築城が中断される。
- 同年 - 細川忠興が豊前国と豊後国2郡39万石で入封。大修築を開始する。
- 慶長7年(1602年) - 忠興、小倉城築城に着手し小倉城を主城とする。
- 元和7年(1621年) - 扇形の縄張りに拡張され、中津城が完成。
- 寛永9年(1632年) - 細川家の熊本藩転封に伴い、小笠原長次が8万石で入封し中津藩が成立。以後、中津城は中津藩の政庁・藩主の居所となる。
- 享保2年(1717年) - 奥平昌成が10万石で入封。明治維新まで奥平家の居城となった。
- 明治4年(1871年) - 廃藩置県。中津藩士・福沢諭吉の進言により御殿を残し、その他建造物を悉く破却する。残った御殿は小倉県中津支庁舎となる。
- 明治10年(1877年) - 西南戦争の際、西郷隆盛挙兵に呼応した増田宋太郎率いる中津隊の襲撃により御殿が焼失する。
- 昭和39年(1964年) - 旧藩主奥平家が中心となり、市民らの寄付を合わせて模擬天守が建造される。
- 平成19年(2007年) - 模擬天守等の建築物を所有する中津勧業が、土地、建物を、中津市や民間企業に売却する方針を示している。
[編集] 中津城売却問題
現在、模擬天守等の城跡の建築物は、奥平家子孫の奥平政幸が代表取締役を務める中津勧業が、城址の土地は隣接する奥平神社(同氏が代表役員を務める)が所有しているが、年々維持費が入場料を上回り赤字となっていることから、2007年7月、土地、建物(展示物、奥平神社は除く)を、中津市か民間企業に売却する方針であることを明らかにしている。中津勧業は、「最低3億円で売却したい」としている[1][2]。


