鈴木重意

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鈴木重意
時代 戦国時代
生誕 永正8年(1511年
死没 天正13年(1585年
別名 佐大夫、孫一
氏族 穂積姓鈴木氏
重兼重秀義兼重朝

鈴木 重意(すずき しげおき)は、戦国時代の紀伊国人で、鉄砲用兵集団であった雑賀衆の頭目である。通称は佐大夫(さだゆう)。

[編集] 生涯

永正8年(1511年)生まれといわれるが確証は無い。というのも、前半生の史料が全くといっても無いからである。推測でしかないが、前半生は傭兵として各地の大名家に雇われて転戦していたものと思われる。紀伊は畠山氏の領国であり、畠山氏では内紛が相次いだり、三好氏と敵対していたため、畠山氏に雇われて畿内で戦い、武名を知らしめたものと思われる。

重意の名前や雑賀党が史料で現れるのは、元亀元年(1570年)のことである。織田信長摂津三好三人衆と戦い、さらに本願寺顕如が三好三人衆に味方して信長と抗争したとき、雑賀党は根来衆と協力して鉄砲隊を率い、織田軍と戦ったと伝わっている。このとき、重意は600余の鉄砲隊を率いていたといわれ、信長の家臣・佐々成政を負傷させたとされる。その後も信長と顕如による石山戦争が続くと、重意は石山本願寺に鉄砲隊を援軍として差し向けて織田軍と戦った。

このため天正5年(1577年)、信長による紀伊征伐が始まることになる。このとき、信長は10万人近い大軍を率いて侵攻してくる。この信長の威勢に恐れたり、かねてから重意と利害関係などで争っていた雑賀三組(中郷・社家郷・南郷)が重意を裏切って信長に降り、道案内役を務めたのである。これに対して重意も懸命に抵抗するが、兵力の多寡により、遂に居城である中野城は陥落し、重意は信長に降伏することを余儀なくされた。ところが、信長が紀伊から撤退すると、重意は雑賀三組を追討し、石山本願寺と連携してまたも信長に叛旗を翻したのである。

しかし天正8年(1580年)、本願寺顕如が信長と和議を結ぶと、重意も顕如の仲介を受けて信長に降る。この頃になると雑賀党でも利害関係などから重意と土橋守重らが仲間内で抗争するなどして、その団結が乱れ始めていた。このため天正10年(1582年)には織田軍による紀伊制圧はほぼ成し遂げられようとしていた。しかし6月2日の本能寺の変で信長が死去したため、雑賀党は再び独立した勢力として割拠する。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、徳川家康に味方した。このため天正13年(1585年)には羽柴秀吉(豊臣秀吉)率いる大軍の紀伊征伐にあう。重意は徹底抗戦したが、兵力と物量の差、そして何よりも信長との長年にわたる抗争や雑賀党内部での仲間割れなどもあって、この頃の鈴木氏は衰退しきっていた。このため、遂に重意は秀吉に降伏した。

しかし雑賀党の存在を危険視する秀吉は、藤堂高虎に命じて重意を粉河において謀殺したとされる(一説に強制的に自害させたとも)。享年75。こうして、雑賀党は歴史の表舞台から姿を消したのである。

[編集] 人物・逸話

  • 雑賀党の頭目は代々、「雑賀孫一」を名乗ることになっていた。信長公記でも雑賀孫一の名前は至るところに登場する。ただし、この孫一が誰のことを指すのか明確な答えは未だに導き出されていない。重意のことであるともいわれているが、その息子である重朝や重秀のことともいわれている。ただし、年齢的に考えると石山戦争当時の重意はすでに高齢であり、戦場で指揮を執れたかどうかに疑問がある。このため、戦場で活躍していた重朝や重秀の可能性が高い。
  • 鉄砲戦術に長けており、信長を天王寺砦の戦いで負傷させたとも伝わる。
  • 石山戦争の際、信長に傷を負わせたことがあり、下間頼廉と並び「大坂の左右の大将」と呼ばれた(『信長公記』)

[編集] 関連項目

  • 雑賀城 - 鈴木重意が築いた城と言われている
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