豊臣氏
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豊臣氏(とよとみうじ/とよとみし、豐臣氏)は、「豊臣」の姓を下賜された氏族。
豊臣姓とは、天正時代に関白となって政権を掌握した羽柴秀吉に与えられた本姓である。
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[編集] 姓としての豊臣氏
[編集] 豊臣氏の性格
1585年(天正13年7月11日)、関白に任じられた羽柴秀吉は近衛前久の猶子となり藤原氏を名乗っていたが、前例のない他姓出身者の関白就任には多くの反発が予想された。そこで秀吉が多くの学識者から意見を聴取した結果、朝廷より源平藤橘(源氏・平氏・藤原氏・橘氏の総称)に匹敵する新姓を賜ることが公明正大であるという結論を得た。その結果、佳姓を撰んで豊臣の新姓使用を朝廷に奏聞し、1586年(天正14年9月9日)に勅許を得た[1]。
これ以降、秀吉をはじめとする羽柴家の人物は自らの名乗りに専ら「豊臣」を使うようになり、名字の「羽柴」が使用された形跡は無い。[2]ただし、彼らの名字は豊臣姓を下賜された後も「羽柴」のままであったと見られている。[要出典]
「豊臣氏」は本姓であって、「織田」(本姓は平朝臣)や「徳川」(本姓は源朝臣)などといった名字とは性質が異なる。本姓による名乗りでは、姓と諱の間に氏への所属を意味する「の」を入れるのが原則的な読み方であり、[3]この原則に従うと「豊臣秀吉」は「とよとみ・の・ひでよし」と読むことになるが、この原則が当てはまらない事例も相当数ある。[4]本姓と名字の区別が廃されて久しい今日では、「豊臣」姓が「羽柴」と同様の名字であると誤解されやすくなっている。そのためか、豊臣氏の人物の名前は「とよとみ・○○○○」と言った具合に「の」抜きで呼ばれることが一般的になっており、「とよとみ・の・○○○○」という本来的な読み方で呼ばれることは極めて少なくなっている。[5]
『豊臣』の由来ははっきりしておらず、「聖徳太子の名前「豊聡耳(とよとみみ)」から取られたという説などがあるものの、現在のところ定まった見解は無い。[6]
[編集] 擬制的な一族としての豊臣氏
凡下平民の出自でこれといった一門衆家臣団を持たない秀吉は、有力家臣である大名や全ての武家に任官の際に豊臣姓や羽柴の名字を与え、「羽柴(官職)豊臣朝臣某」(例・羽柴大納言豊臣朝臣家康)もしくは「某(官職)豊臣某」(例・片桐東市正豊臣且元)と名乗らせて自らの一族とみなし、自らは豊臣氏の氏長者となることで統治しようとした。この点で豊臣政権は、徳川や松平の名乗りがごく一握りの大名にしか許されなかった江戸幕府と好対照である。
[編集] 江戸時代の豊臣氏
のちに徳川家の覇権が確固たるものになっていく過程の中で、豊臣朝臣を与えられて羽柴氏を名乗ることを許されていた大名たちは、豊臣朝臣の本姓を捨てて「羽柴」を公称しないようになっていった。江戸時代を通じて豊臣朝臣を本姓とし続けた大名家は、秀吉の正室・高台院の実家である木下家だけである。明治維新後に本姓と名字が法的に一本化されて現在見られる姓のあり方に統合されていくまで、木下家は本姓を変えることがなかった。
日本史関係の書籍やテレビ番組などでは「大坂夏の陣で豊臣氏は滅亡した」と説明されることが多いが、これは大坂城主の豊臣宗家のみを指して「豊臣家」と呼ぶことが一般的であるためであり、豊臣氏全体が滅亡したという誤解を生じさせかねない不正確な表現である。前述のように、実際には外戚の豊臣氏族(高台院側の血筋である木下家)が健在であったので、豊臣氏自体は江戸時代を通じて存続している。また高台院自身も晩年に養子をとり、彼を「羽柴利次」と名乗らせた。高台院没後は「羽柴」を称することが禁じられたため、木下利次と改名して高台院の遺領を継承した。
[編集] 氏族としての豊臣氏の歴史
氏族としての豊臣氏は、羽柴秀吉の兄弟姉妹および彼らの子孫たちからなる一族であるといえる。
秀吉は乏しい親族を取り立て、弟秀長を大和国郡山100万石、甥秀次を近江国八幡43万石にとそれぞれ取り立てた。1589年には実子鶴松が生まれ、後継者と定めていたが、1590年に天下統一を果たした直後の1591年には秀長と鶴松が相次いで死亡する。
落胆した秀吉は甥秀次を後継者と定め、1591年に関白職を譲る。しかし、秀吉は全権を譲らず、太閤(※本来、太閤とは子弟に関白を譲った人物を指す)と呼ばれつつ豊臣宗家直轄領と軍権を掌握しつづけたので、次第に二重政権の矛盾が表面化してきた。しかも1593年に秀吉に再び実子秀頼が生まれ、秀吉と秀次の対立は決定的に悪化してしまった。1595年、秀吉は秀次を高野山に追放し、切腹させる。これによって二重政権は解消され、豊臣政権は再び秀吉のもとに一元化されるが、政権の正統性の拠り所である関白職は豊臣宗家から失われた。また、秀長を継いだ秀保もこの頃死に、豊臣宗家を支える血族の藩屏は存在しなくなった。
1598年に秀吉が死ぬと、後事を託された有力大名の中から徳川家康が台頭し、1600年の関ヶ原の戦いで石田三成ら豊臣政権擁護派の諸大名を倒し、覇権を打ちたてる。1603年に家康は征夷大将軍に就任して江戸幕府を開き、1605年には将軍職を子の徳川秀忠に譲って徳川政権の正統性を確立していき、豊臣宗家は全国政権の座から完全に滑り落ちてしまった。
しかし、徳川政権の確立していく様を見ても、豊臣秀頼は一大名として徳川将軍に臣従することを認めなかった。これに後顧の憂いを感じた家康は、1614年に大坂冬の陣を起こし、さらに翌年の大坂夏の陣で大坂城を落とし、秀頼らを自害させる。秀頼の遺児・国松は、同じ慶長20年5月23日(グレゴリオ暦1615年6月19日)に京の三条河原にて処刑され、ここに秀吉の興した豊臣宗家は断絶した。
なお、国松は薩摩に逃れて島津家にかくまわれ、豊後国日出藩木下家の分家である交代寄合木下家の祖・木下延次になったという異説がある。その子孫は現在、先祖の豊臣姓を苗字に名乗っているという。しかし、幕府に認められた正式な豊臣氏の継承者は、高台院が晩年にむかえた養子の羽柴利次(実父は小早川秀秋の兄・木下利房)とされている[要出典]。
[編集] 氏族としての豊臣氏の人々
[編集] 豊臣秀吉家
[編集] 秀吉の親族
[編集] 豊臣秀次家
[編集] 豊臣秀長家
[編集] 豊臣秀勝家
- 豊臣秀勝(秀吉の養子、姉日秀の子で三好吉房の次男)
[編集] 高台院の親族
[編集] 系図
太線は実子 細線は養子
杉原定利 竹阿弥━━大政所━━━━木下弥右衛門 ┏━━━┫ ┣━━━┓ ┣━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━高台院 木下家定 朝日姫 秀長 三好吉房━━━日秀 秀吉 織田信長 │ ┣━━┓ │ ┣━━┳━━┓ ┣━━━┳━━┳──┼───┬───┬──┐ 利次 秀俊 利房 秀保 秀次 秀勝 秀保 秀勝実子 鶴松 秀頼 秀勝信長 秀勝日秀 秀次 秀俊 ┃ ┣━━━┓ 利次 国松 奈阿姫
[編集] 脚注
- ^ 林屋辰三郎 『日本の歴史12 天下一統』中公文庫
- ^ 秀吉は関白就任後は主に「秀吉」もしくは「関白」という署名を行い、後には朱印のみ用いるようになった。秀次や秀頼も主に印判を用い、方広寺に代表される秀頼が寄進をした寺社には羽柴の名字を使わない「豊臣朝臣秀頼」といった銘が残っている。
- ^ 「藤原道長」を「ふじわら・の・みちなが」、「平清盛」を「たいら・の・きよもり」、「源頼朝を「みなもと・の・よりとも」と読むのはそのためである。
- ^ 本姓による名乗りの場合でも卜部兼好(吉田兼好)や「藤原惺窩」は「の」を入れずに読まれる場合が多く、名字の場合にも渡辺綱や那須与一のように「の」を入れて読まれる例もある。
- ^ 過去のNHK大河ドラマでは、この本来的な読み方が極僅かながら用いられている。『おんな太閤記』では「とよとみ・の・ひでよし」、『独眼竜政宗 (NHK大河ドラマ)』では「とよとみ・の・ひでつぐ」が、それぞれ劇中の台詞内に登場する。
- ^ 井沢元彦は、天皇にはなれない家臣だということを名前で秀吉へ知らしめるために「臣」という文字をあえて入れたという説を唱えている(「逆説の日本史11戦国乱世編 - 朝鮮出兵と秀吉の謎」より)
[編集] 関連項目
- 豊臣姓を名乗ることを許された武将・大名
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