石田正継

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石田正継
Ishida Masatsugu.jpg
石田正継像 文禄3年(1594年)9月 伯蒲慧稜妙心寺蔵)
時代 安土桃山時代
生誕 生年不詳
死没 慶長5年9月18日1600年10月24日
改名 石田藤左衛門→石田正継→栴岩道園居士
別名 通称:藤左衛門(藤右衛門)、左吾左衛門、太郎右衛門
:為成、清成、正継、政成
号:円済、道園
官位 従五位下・隠岐守
主君 豊臣秀吉
氏族 石田氏(原氏)
父母 石田為広
瑞岳院
正澄三成、娘(福原長堯正室)、娘(熊谷直盛正室)

石田 正継(いしだ まさつぐ、生年不詳 - 慶長5年9月18日1600年10月24日))は、安土桃山時代武将。子に石田正澄三成、娘(福原長堯正室)などがいる。

名前[編集]

「正継」の他に、諱や通称には諸説ある。『古今武家盛衰記』『霊牌日鑑』[1]『諸家興廢記』『武者物語』『翁草』には、「藤左衛門為成」とあり、『志士清談』には「左吾左衛門」,、『震澤山舊時記』には「太郎右衛門」、『関ヶ原軍記大成』には「原淸成入道圓濟(原清成、円済)」とあるが、多賀神社文書・伊波太岐神社文書には「正継」とある[2]

略歴[編集]

出自は、近江国坂田郡石田村(現:滋賀県長浜市石田町)出身の地侍、または京極氏の被官とする説があり、和歌文学に造詣が深い才人であったとされる。父は石田為広(為成、仲成・為厚とも)で、法名は前陸奥入道清心といわれるが詳細は不明。

三成が豊臣秀吉に仕えると、天正14年から16年、三成が堺の奉行となったときに、その代官として三成を補佐した。

堺の甘露山大阿弥陀経寺は、文亀2年(1502年)に八万貫屋宗徳・妙徳より塩風呂を寄進されて以来、治療に用いられて栄えていたが、天正16年、代官の正継は、この濫用を止めさせ、寺院の乱れを正し、入浴の方法や休日などを定めた。この塩風呂には秀吉も入浴して持病平癒したので、諸役免除の朱印が与えられている。

文禄4年(1595年)、三成が佐和山城主に封ぜられると正継も近江国内で300石を食み、常に城にあって、以後は城代として三成留守時の政令を掌った。京極家の木材伐採における諍いの沙汰、百姓の共有地の保護、寺社仏閣・経典の保存に尽力した。

朝鮮出兵では、楠木正虎とともに肥前名護屋城にあって帳簿関係を担当した。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、正澄と共に佐和山城を守備した。関ヶ原で西軍が敗れた後、小早川秀秋らの猛攻に半日を抵抗するが、敗北を認めて、自刃した。

墓所は京都市右京区妙心寺塔頭壽聖院で、右上の肖像画も当寺の所蔵である。(大阪市立美術館寄託) 土佐派の粉本類に本作によく似た紙形(下絵)があることから、筆者は同時代に活躍した土佐光吉かその周辺の絵師だと推測され、2012年に重要文化財に指定された。

脚注[編集]

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  1. ^ 三成の子済院宗享が妙心寺住職時代に残した記録。
  2. ^ 渡邊 1929, pp.1-2

参考文献[編集]

関連項目[編集]