木村重成

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木村重成
木村重成像
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 文禄2年(1593年
死没 慶長20年5月6日1615年6月2日
戒名 智覺院殿忠翁英勇大居士
墓所 滋賀県彦根市宗安寺
八尾市幸町の公園
官位 正四位上長門守
主君 豊臣秀頼
氏族 木村氏
父母 父:木村重茲、母:宮内卿局
兄弟 高成重成
正室:真野頼包の娘・青柳
大蔵卿局の姪)
馬淵源左衛門?

木村 重成(きむら しげなり)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。一説には木村重茲の子とも言われている。母、宮内卿局(一説には右京大夫局とも)は豊臣秀頼乳母となり、重成自身も幼少から秀頼の小姓として育ち、秀頼にとってはほとんど唯一の幼馴染であった。知行3千石。

[編集] 生涯

重成は秀頼の信頼が厚く、元服すると豊臣家の重臣となり重要な会議などにも出席するようになる。豊臣家と徳川家康との関係が険悪になると、大野治長渡辺糺らと共に開戦を主張し、片桐且元大坂城から追い出すのに一役買っている。

大坂冬の陣では後藤又兵衛とともに今福砦攻防戦を展開し、数に勝る徳川軍と対等に戦い全国に木村重成の名を広めた。真田丸の戦いにも参加する。また、和議にあたっては秀頼の正使として岡山で徳川秀忠の誓書を受け、その進退が礼にかなっているのを賞された。

慶長20年(1615年)1月7日、大蔵卿局の姪の青柳を妻に迎える。

同年5月、大坂夏の陣が勃発すると豊臣軍の主力として長宗我部盛親とともに八尾若江東大阪市南部)方面に出陣し、八尾方面には長宗我部盛親、若江方面には重成が展開し、藤堂高虎井伊直孝の両軍と対峙した(八尾・若江の戦い)。藤堂軍の右翼を破った重成は、散開していた兵を収拾し、昼食を取らせると敵の来襲を待ち構えた。また、婚姻して5ヶ月の青柳と別れの盃を交わした。

この時、家臣が「兵は疲れており再度戦えば敗北は必至」と諌めたが、重成は「この程度の勝利はものの数ではない」と一蹴し、戦闘に入った。重成は家臣達の諌めも聞かず、敵陣へと突撃を開始。

しかし井伊軍と激戦の末、戦死する。享年23。徳川家家臣の安藤重勝が井伊家家臣より首を譲り受け、家康の首実検に供している。その首級が家康に届けられると頭髪に香が焚きこめてあったのでその覚悟を感嘆させたという逸話がのこっている。

妊娠していた青柳は、近江の親族によって匿われ男児を出産した後、出家した。そして、重成の一周忌を終えると青柳は20歳で自害したという。また、青柳の出産した男児は馬淵家の婿養子となり、馬淵源左衛門と名乗ったと伝えられている。

墓は第二寝屋川の南側、八尾市幸町の公園にある。川(と市境)を挟むようにして徳川方の山口重信の墓があり、『河内名所図会』では山口重信の墓の方を大きく描いてある。

[編集] 伝説

重成に重信は討ち取られたが、子孫の一つは牛久藩山口家に召抱えられ小川姓に改姓したと主張している。この事実は牛久藩側の史料からは証明できない上、史料学的に耐えうる小川家文書も現存していないため、伝承の範囲に留まる。

牛久藩の分限帳などによると小川氏は、50石級の家臣であったことがわかり、100石以上の家録を受けたとする史料並びに形跡はない。子孫に小川芋銭[要出典]がいる。

また与板藩主・牧野氏に召抱えらた村井氏は、重成の弟の平兵衛重盛が、木村から村井に改姓したと主張しているが、この事実は与板藩側の史料からは証明できない上、史料学的に耐えうる村井家文書も現存していないため、伝承の範囲に留まる。

この村井氏は、江戸時代初期に100石以下の牧野家臣であったが、子孫は幕末近くに牧野氏の一代家老職に抜擢されているほか、用人職にしばしばみられる(根拠→1.東京大学史料編纂所蔵の維新史引き継ぎ史料・2.江戸武鑑)。牧野家の家臣または客人となったのは、大坂の陣より前か後かは不明であるが、史料学的初見は、牧野康道(1657~1689)分限帳である。与板牧野氏が分家した1634年より前の牧野宗家の分限帳、御引っ越し御人数帳には村井姓はみられない。

重成の従弟の木村八兵衛俊重は、大坂城落城後、武蔵国大門村に来て、すでに同地に帰農していた小田原北条氏遺臣會田外記の娘婿になり、息子の會田敏明から代々日光御成街道大門宿本陣および同宿名主、紀州徳川家鷹場・鳥見役を勤めた(参考資料:浦和歴史文化叢書11、日光御成道大門宿 浦和市郷土出版会編)。

[編集] 関連項目

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