上野国分寺跡

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南大門跡
中央。跡の両脇に接続して築垣(復元)。

上野国分寺跡(こうずけこくぶんじあと)は、群馬県前橋市高崎市にある古代寺院跡。国の史跡に指定されている。

奈良時代聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、上野国国分寺の寺院跡にあたる。本項では上野国分尼寺跡についても解説する。

概要[編集]

榛名山南東麓、染谷川と牛池川に挟まれた台地上に残る寺院跡である。国分寺の位置する一帯は、律令制以前にも山王廃寺に見られるように古代寺院の建立がなされた地であったが、律令制下では国分寺とともに東方に上野国府も設置され上野国の中心地を成した。

伽藍は関越自動車道を挟んで僧寺跡と尼寺跡が南辺を揃えて配置された。両寺ともほぼ同時に造営が着手され、推移も共にしたと推測されている[1]。僧寺跡には金堂礎石と塔礎石が伝わり、それらの基壇が復元されて現在も整備が進んでいる。一方、尼寺跡の整備はなされていない。

上野国分寺跡[編集]

僧寺跡の寺域は東西220メートル・南北235メートルに及ぶ。伽藍配置は、南北の軸上に中門・金堂・講堂が設けられ、中門と金堂は回廊で接続、その南西側に塔があるという東大寺式(ただし西塔はなし)と推定される[2]

現在は、金堂と塔に関しては基壇が整備されている。ただし平成26年(2014年)の調査で、それまで金堂基壇とした場所の南方から真の金堂基壇が見つかり、それまでの基壇については見直しの段階にある[3]。また築垣が確認されており、南辺の築垣に関しては復元がなされた。そのほかの建物に関しては現在も調査・整備が続いている。周辺からはこれまでに多くの瓦が出土し、郡名・人名が記されたものも多数ある[2]

上野国分寺の歴史に関しては、『続日本紀天平勝宝元年(749年)5月15日条、同年閏5月20日条に当寺に知識物献上の記録があることから、聖武天皇の詔を受け速やかに造営が始まったと見られている[2]。のち『上野国交代実録帳』によると、同帳が記された長元3年(1030年)にはすでに諸建物が破損・荒廃していたことがわかる[2]。廃絶に関しては、天慶2年(939年)の平将門による上野国府乱入、治承4年(1180年)の足利俊綱による上野国府焼き払いが要因と推測されているが、未だ明らかではない[2]

上野国分尼寺跡[編集]

尼寺跡碑

尼寺跡は国分寺の東方540メートルの地に所在する。なお、古くは北東1.5キロメートルに位置する山王廃寺跡を尼寺に比定する説もあった[1]

これまでの発掘調査では中門・金堂・講堂の建物基壇が確認された。また、寺域は方1.5町と推定、伽藍配置は東大寺または法華寺を模倣し塔を省略したものと推定されている[1]。僧寺とは異なり、築垣は簡略的なものと見られている[1]

現在は礎石等の出土物は埋葬されている。

文化財[編集]

国の史跡[編集]

  • 上野国分寺跡 - 大正15年10月20日指定[4]

現地情報[編集]

所在地

関連施設

  • 上野国分寺館(ガイダンス施設)
    • 入館料:無料
    • 開館時間:午前9時-午後4時30分
    • 休館日:年末年始

周辺

上野国分寺(後継寺院)
国分寺跡の北方に所在。
  • 上野国分寺(後継寺院):群馬県高崎市東国分町318 (位置

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 『群馬県の地名』国分尼寺跡項。
  2. ^ a b c d e 『群馬県の地名』国分寺跡項。
  3. ^ 上野国分寺創建期の金堂跡発見(朝日新聞、2014年10月16日記事)。
  4. ^ 上野国分寺跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁

参考文献[編集]

  • 上野国分寺館説明資料
  • 『日本歴史地名体系 群馬県の地名』(平凡社)群馬郡群馬町 国分寺跡項・国分尼寺跡項

外部リンク[編集]