高句麗五部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高句麗五部(こうくりごぶ)は、高句麗において5つに編成された部族である。

歴史[編集]

新唐書』「東夷伝」高麗伝によれば、以下の5つである。

  • 内部桂婁部黄部とも)
  • 北部絶奴部後部とも)
  • 東部順奴部左部とも)
  • 南部灌奴部前部とも)
  • 西部消奴部とも)

子孫[編集]

彼らは渡来人として日本へ渡った際も、日本の部民制における部(べ)と同様に部名をとして名乗った。五部は上部・下部・前部・後部・東部とされ、音訓両方の読みが見られる。

前部(ぜんぶ)
天平宝字五年三月紀には「高麗人前部白君等六人(賜姓)御坂連、前部選理等三人杮井造、前部安人御坂造」また神護景雲元年紀に「左京人從七位上上部白麻呂賜姓廣篠連」とある。
後部(こうぶ、北部とも)
天武紀五年條に「後部主傳河于」、また宝亀七年五月紀に正六位上後部石島等六人賜姓出水連」とあり、また延暦八年五月紀に「信濃國筑摩郡人外少初位下後部牛養、無位宗守豐人等、賜姓田河(阿に作る)造」、延暦十八年十二月紀に「信濃國人外從六位下封瘻眞老、後部黑足、云黑足等(賜)姓豐岡」などが見える。また、日本に帰化した高麗若光は別名を「玄武若光」といい、玄武は「黒・北」に通じるため、北部の末裔と考えられる[1]
上部(かみべ)
天平十八年正月紀に「右京人上部乙麻呂」、東大寺奴婢帳・天平勝宝三年三月三日の奴婢見來帳に「河内国志紀郡林郷戸主上部古理、戸口上部白麻呂」、天平宝字五年紀に「上部君足等二人(賜姓)雄坂造」、延暦十八年十二月紀に「信濃國人小縣郡人无位上部豐人、上部色布知等言、己等先祖高麗人也、云、文代等(賜)姓清岡、色布知(賜)姓玉井」などとある。
下部(しもべ)
延暦十八年十二月紀に「信濃國人下部文代等言、己等先高麗人也、云、文代等(賜)姓清岡」とある。この「シモ」は「資母」「信茂」「征茂」「志母」などとも充て字された。地名でも大和国宇智郡吉野郡の資母郷、河内国安宿郡資母郷、伊勢国河曲郡資母郷はじめ但馬播磨三河甲斐などにみられる。これらの地名を背負う「シモ」氏の多くは帰化人で、中でも河内の大族が最大勢力であった。
東部(とうぶ)
弘仁二年八月紀に「山城國人正六位上東部黑麻呂、賜姓廣宗連」と見える。
西部(せいぶ)
背奈氏は西部の末裔と考えられ、『新撰姓氏録』では広開土王の末裔を称している[2]

脚注[編集]

  1. ^ 須田勉・荒井秀規編『古代日本と渡来系移民-百済郡と高麗郡の成立-』(高志書院、2021年)
  2. ^ 須田勉・荒井秀規編『古代日本と渡来系移民-百済郡と高麗郡の成立-』(高志書院、2021年)

参考文献[編集]

  • 太田 亮 著、丹羽 基二 編『新編姓氏家系辞書』秋田書店、1991年。ISBN 978-4253002639 

関連項目[編集]

  • 高 (姓) - 日本における高姓はほとんどが帰化人由来であり、前部高氏・後部高氏を含む。