諏訪盛重

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諏訪 盛重(すわ もりしげ 生没年不詳)は、鎌倉時代中期の諏訪社大祝職・得宗被官諏訪信綱(盛信)の子。兵衛尉。出家して蓮仏入道と号し、『吾妻鏡』においてはこちらの名前で登場することが多い。盛高盛経盛頼重願らの父。

承久の乱の際、大祝として義時の戦勝を祈願すると共に一子を上洛させており、戦後間もなくして被官として泰時に出仕した。北条泰時の側近として活躍し、『吾妻鏡』にも頻繁にその名が見られる。1236年に泰時の邸宅が新造されると、盛重は尾藤景綱と共にその敷地内に屋敷を構えており、[1]執権の信頼の篤さを伺わせる。

得宗被官のまとめ役としての立場にあったらしく、時頼の使者として朝廷との折衝にあたることも多く、1247年、宝治合戦の直前には、すわ合戦かと全国より輻輳する武士達を時頼の代理人として鎮定し退散させている。[2]北条一門や安達氏のような外戚など、得宗に親しい一部の首脳陣(寄合)のみの協議である「神秘の沙汰」にもしばしば参加した。

盛重の幕府に対する貢献は高かった。1230年に鎌倉中で騒動が起こった際には尾藤景綱と共にこれを鎮定し、和賀江島が完成した際にも景綱と共に巡検を担当。1235年、源頼朝の霊廟がある法華堂の近くの湯屋から火災が起こった時には、湯屋と法華堂の間にある家屋を迅速に取り壊して消火活動を行い、法華堂への類焼を食い止めた。[3]宮騒動北条光時らの謀議を事前に防ぐことにも寄与し、宝治合戦でも得宗被官の統率役として抜群の勲功を挙げた。1251年には謀叛を起こそうとした了行法師、長久連矢作左衛門尉らの尋問を請け負い[4]、1261年には宝治合戦で滅んだ三浦氏の残党である三浦義村の子良賢を生け捕った。[5]

北条時輔が誕生すると、その乳母夫となり、傅役に任命されたが、その役職を引き受ける事を1ヶ月近く固辞した末に、渋々承諾したという。後見役として大きな影響力を持てる傅役を盛重が固辞したことは、長男でありながら庶子であった時輔が疎外されており、その時輔を後見しても恩恵に浴すどころかむしろ自分の立場が危うくなるという認識が幕臣達の間に通底していたことを示唆している。[6]

それ以外の事績としては、1251年に風伯祭の奉行を勤めたこと、1253年に泰時追福を祈願して山内に堂を建立したことなどが『吾妻鏡』に記載されている。

[編集] 脚注

  1. ^ 吾妻鏡1236年12月19日の記述
  2. ^ 1247年6月4日の記述
  3. ^ 日本史リブレット21 武家の古都、鎌倉(ISBN 4-634-54210-2) 17ページ
  4. ^ 1251年12月26日の記述
  5. ^ 1261年6月22日の記述
  6. ^ 日本の歴史10 蒙古襲来と徳政令(講談社学術文庫 ISBN 978-4-06-291910-4)37ページ

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