姨捨山

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姨捨山
Kamuriki Yama 2012 01 06.JPG
標高 1,252 m
所在地 長野県千曲市東筑摩郡筑北村
位置 北緯36度28分07秒
東経138度06分24秒
山系 筑北三山
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姨捨山(おばすてやま・うばすてやま)は、長野県千曲市東筑摩郡筑北村にまたがる。正名は冠着山(かむりきやま)。標高 1,252メートルで、長野盆地南西端に位置する。幾つかの呼び名があり、「冠山(冠嶽)」「更科山」「坊城」とも言われる。古称は小長谷山(小初瀬山・小泊瀬山、おはつせやま)。

地学的知見[編集]

筑北村側から見た山頂付近

北部フォッサマグナのいわゆる中央隆起帯と西部堆積区の境界部にあり、かつて海底に有った時代に堆積した第三紀層の砂岩、礫岩、凝灰岩が堆積した部分に、第四紀の貫入により形成された安山岩質の溶岩ドームである。山頂付近は複輝石安山岩である為、風雨に浸食されず溶岩円頂丘(溶岩ドーム)が残ったと考えられる。直接的な火山活動の痕跡は認められないが、頂上の東側斜面の岩には柱状節理が観察出来る[1][2]。1847年(弘化4年)の善光寺地震により大きな崩壊があったと伝えられ、真田宝物館には地震被害を示す詳細な絵図が残されている。

おばすて信仰と古文書[編集]

山頂には冠着神社を祀る鳥居とトタン屋根の祠がある。祭神は月夜見尊で、山頂で蛍が舞う7月に氏子(現在では千曲市側自治会役員の輪番)が登って御篭もりをする祭りがある。 また高浜虚子の「更級や姨捨山の月ぞこれ」の句碑もある。

この地の月に関する初見は『古今和歌集』(905年序、巻17-878)であり、以来「オハステ」は平安貴族や文人達の憧れの地名となった。京都御所清涼殿には全国各地の名所の襖絵がそれぞれの和歌と共に描かれ、萩の戸と呼ばれる部屋には「おばすての やまぞしぐれる風見えて そよさらしなの 里のたかむら」との歌が添えられた千曲川の対岸(冠着橋付近?)から望んだと見られる冠着山の襖絵の存在が伝えられている。

江戸時代の作製と見られる川中島合戦陣取り図や善光寺道名所図会(いずれも長野市立博物館所蔵)には冠着山(冠着嶽)と姨捨山は明らかに別の山として描かれているものがある。古峠を通る古代の街道を使用した防人など旅人によって古今集に歌われたオバステヤマは冠着山だ、と主張した麓の更科村初代村長の塚田雅丈による国土地理院への請願活動で「冠着山(姨捨山)」の名で一般的になったのは明治期以後と言われる[3]

山名の由来[編集]

由来は諸説あり、主なものを列記する。

  • 姨捨山の呼称は、一説には奈良時代以前からこの山裾に小長谷皇子(武烈天皇)を奉斎しその料地管理等に従事したとされる名代部「小長谷(小初瀬)部氏」が広く住していたことによるらしい(棄老伝説によるものは後述)。この部民小長谷部氏の名から「オハツセ」の転訛(国郡郷名等を好字二字に表記するようにとの布令に従ったとする説もある)が麓の八幡に小谷(オウナ)や、北端の長谷(ハセ)の地名で残り南西部に「オバステ」で定着したものとされている。奈良県桜井市初瀬にある長谷寺に参詣することを「オハツセ詣で」と言われるのと一脈通じている。なお、仁徳天皇の孫とされる雄略天皇聖徳太子の叔父に当たる崇峻天皇など複数人が初瀬(泊瀬)の皇子と称されている。
  • 冠着山の呼称は「天照大神が隠れた天岩戸手力男命が取り除き、九州の高天原から信州の戸隠に運ぶ途中、この地で一休みして冠を着け直した」と日本神話により伝えられている事による。
  • 別名の更級山の呼称は更級郡の中央に位置することから、坊城は山容が坊主頭のようであり狼煙城でもあったとの伝説があることから。
  • 江戸時代の街道に近く猿ヶ馬場峠、一本松峠や古代からの東山道支道の古峠にも近い。これらの難路脇には行き倒れた旅人の屍が放置されていて、それらの骸を集めて弔った所「初瀬」とする説。また棚田の周辺には古墳の散在が認められ、棚田開墾以前はもっと沢山の古墳があったものと推定され、この地が奈良時代以前から死者を弔う地「はつせ」であったと考えられる[要出典]
  • 正倉院宝物の麻袴に信濃国から上納された旨の墨書があることからも知られるように信濃国は古くからの産地であった。峠を挟んだ麻績(おみ)の地名は麻を績いだ部民が暮らした地と伝えられるように、麻のことを「オ」ともいい、麻の茎から繊維となる皮部分を採取する作業を「麻剥ぎ(オハギ)」と言うし、そこから余分な表皮部分を取り除く作業を「麻掻き(オカキ)」と言う。繊維を採取した麻殻(オガラ~茎)は屋根材や燃料、農業資材等として用途があった。しかし葉については投棄された(あるいは堆肥として積まれたか)ようで「麻(オ)の葉の捨て場」を「オハステバ」と言っていたことからだとする俗説(学説ではない)もある[要出典]

以上の他にも「オバステ」の地名の言われは数種あるとされる[4]

棄老伝説[編集]

「姨捨」の名は、姨をこの山に捨てた男性が名月を見て後悔に耐えられず、翌日連れ帰ったという説話(『大和物語』など)によるともされる。日本各地(世界各地にも)には様々な棄老の風習が民話や伝説の形で残っており、『今昔物語集』にも棄老にまつわる話がある。しかし棄老伝説は古代インド紀元前200年頃)の仏教経典雑宝蔵経』の説話に原点があると柳田國男の著書『村と学童』の「親棄山」に指摘されている[5]。7世紀に始まる日本の古代法制度下では20歳以下の若年者、60歳以上の老齢者や障害者には税の軽減など保護がされていて、法制にも棄老はない。このため、個人的な犯罪行為ということになるが、村落という狭い共同体における掟であったのか歴史研究家によって見解が分かれる。なおいくつかある棄老伝説における姨捨山は長楽寺境内の姨岩のこととして語られている話(学説ではない)もあって[要出典]、姨捨駅ホームの案内板でも姨捨山への所要時間が5分と表示されていることから冠着山ではなく姨岩のことになっている。

姨捨伝説については深沢七郎の『楢山節考』(1956年)にも取り上げられている。また柳田國男の『遠野物語』(111話)にはデンデラ野へ棄老するという風習が紹介されている。

大和物語』(950年頃成立、156段)[6]が姨捨説話の初見であり、世阿弥謡曲1363年)にも取り上げられているほか『更級日記』(1059年頃)、『今昔物語集』(1120年頃以降)、『更科紀行』(1688年)でも言及されている。 このように往古から全国に知られた山であったが、更級郡に位置するという記述があるなど、特定された山ではなく、長野県北部にある山々の総称という見解もある。

棚田地形[編集]

冠着山の北西に位置する三峯山(1131.3m)の東側にある千曲高原の東側から北東側斜面に形成されている地形で、姨捨土石流堆積物地形と呼ばれる。この地形の成因には諸説あり[7]

  1. 「約6万年から7万年前以降に三峯火山の東山腹で生じた爆発により生じた」とする説と
  2. 「善光寺平が陥没する過程で生じた旧千曲川による浸食面で、堆積物の放射性炭素年代測定法により13000年前頃と約3000年前頃の2回の変動で形成された」とする説がある。

この千曲市大字八幡地区の斜面には棚田が形成されており水稲稲作に利用されている。古くから、「田毎(たごと)の」として知られるほど棚田に映る月が美しく見られる場所として知られている。田毎の月とは長楽寺の持田である四十八枚田に映る月を言い、今も多くの地図上に名所を示す「∴」印はこの田の位置に示されている。また、この棚田は1999年に「姨捨(田毎の月)」が国の名勝に指定され、2010年には「姨捨の棚田」として重要文化的景観として選定され、農林水産省により「日本の棚田100選」[8]にも、その第1号として数えられ、2008年に全国に数ある月の名所の中から姨捨が第1位の「お月見ポイント」にも選ばれた。更に時代を遡ると、高知県桂浜や京都府東山(滋賀県石山寺とする説もある。また豊臣秀吉は信濃更科と陸奥雄島、それに勝る京都伏見江と位置づけていた)とともに従来から日本三大名月に数えられ、いずれもその筆頭に上げられていた。

千枚田とも言われる多くの棚田が形成されるようになったのは江戸時代からとされている。しかし上杉謙信が麓の武水別神社に上げた武田信玄討滅の願文(上杉家文書)に「祖母捨山田毎潤満月の影」との行があり永禄7年(1564年)には田毎に月を映すことが既に広く知られていたと考えるのが相当である(なお、眼下の景観全てが甲越両軍の12年にわたり5度戦った川中島の戦いの戦場であった)。また棚田の下部地域で近年の道路工事に際して弥生時代の棚田が発掘されてもいて、棚田周辺には小規模ながら古墳も散在する。

かつての棚田への水源は更科川の水系だが、その後千曲高原にある人工のため池(1800年頃に整備された大池用水)の水を使用していた[8][9]が、夏期の渇水対策として麓を流れる千曲川の水を汲み上げる[10]と共に大池用水と併用利用している。

文化財[編集]

  • 姨捨(田毎の月) - 国の名勝。長楽寺境内、四十八枚田、姪石付近の棚田の3か所が指定対象になっている。
  • 姨捨の棚田 - 名勝指定地を包含する64.3ヘクタールが重要文化的景観として選定。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 周辺の山・冠着山(姨捨山)長野の地質見どころ100選
  2. ^ 長野県聖山南麓の新第三系-特に堆積相と構造運動について環境科学年報6:32-35(1984)
  3. ^ [公民館報ちくま 平成23年4月1日] 千曲市公民館運営協議会
  4. ^ 千曲市観光ガイド
  5. ^ 柳田國男『村と学童』 筑摩書房<定本 柳田國男集>第21巻1974 p296
  6. ^ 『日本古典文学全集』(小学館)での段数。
  7. ^ 斎藤豊:長野県の姨捨土石流堆積物の成因とその形成期地すべり Vol. 19 (1982-1983) No. 2 P 1-5
  8. ^ a b 姨捨(おばすて)【長野県】 関東農政局
  9. ^ 竹内 常行:棚田の水利-信州姨捨, 能登輪島, 越後早川谷の場合地學雜誌 Vol.84 (1975) No.1 P1-19
  10. ^ 土地改良のしるべ 長野県

外部リンク[編集]