楢山節考

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楢山節考
著者 深沢七郎
発行日 1956年11月
ジャンル 短編小説
日本の旗 日本
言語 日本語
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楢山節考」(ならやまぶしこう)は、深沢七郎短編小説。真冬の楢山へ、孝行息子が背板に老母を乗せて姨捨てにゆく物語で、民間伝承棄老伝説を素材にした作品である。当時42歳の深沢の処女作で、1956年(昭和31年)、雑誌『中央公論』11月号に掲載された。当代の有力作家や辛口批評家たちに衝撃を与えて絶賛され、第1回中央公論新人賞を受賞した[1]。翌年1957年(昭和32年)2月1日刊行の単行本『楢山節考』(中央公論社)に収録された。ベストセラーとなり、これまでに2度、映画化された。文庫版は新潮文庫で重版され続けている。翻訳版も1958年(昭和33年)のベルナール・フランク訳(仏題:“La Ballade de Narayama”)をはじめ、各国で行われている。(1959年のガリマール版(ベルナール・フランク訳)の表題はETUDE A PROPOS DES CHANSONS DE NARAYAMA)。

あらすじ[編集]

信州の山々の間にある貧しい村に住むおりんは、「楢山まいり」の近づくのを知らせる歌に耳を傾けた。村の年寄りは70歳になると「楢山まいり」に行くのが習わしで、69歳のおりんはそれを待っていた。山へ行く時の支度はずっと前から整えてあり、息子の後妻も無事見つかった。安心したおりんには、あともう一つ済ませることがあった。おりんは自分の丈夫な歯を石で砕いた。食料の乏しいこの村では老いても揃っている歯は恥かしいことだった。

「自分が行く時もきっと雪が降る」と、おりんはその日を待ち望む。孝行息子の辰平は、ぼんやりと元気がなく、母の「楢山まいり」に気が進まなかった。少しでもその日を引き延ばしたい気持だったが、長男のけさ吉が近所の娘・松やんと夫婦となり、すでに妊娠5ヶ月で食料不足が深刻化してきたため、そうもいかなくなってきた。雑巾で顔を隠し寝転んでいる辰平の雑巾をずらすと涙が光っていたので、おりんはすぐ離れ、息子の気の弱さを困ったものだと思ったが、自分の目の黒いうちにその顔をよく見ておこうと、横目で息子をじっと見た。「楢山まいり」は来年になってからと辰平は考えていたが、おりんは家計を考え、急遽今年中に出発することを決めた。ねずみっ子(曾孫)が産まれる前に、おりんは山に行きたかった。

あと3日で正月になる冬の夜、誰にも見られてはいけないという掟の下、辰平は背板に母を背負って「楢山まいり」へ出発した。辛くてもそれが貧しい村の掟だった。途中、白骨遺体や、それを啄ばむカラスの多さに驚きながら進み、辰平は母を山に置いた。辰平は帰り道、舞い降ってくる雪を見た。感動した辰平は、「口をきいてはいけない、道を振り返ってはいけない」という掟を破り、「おっかあ、雪が降ってきたよう~」と、おりんの運のよさを告げ、叫び終わると急いで山を降りていった。

辰平が七谷の上のところまで来たとき、隣の銭屋の倅が背板から無理矢理に70歳の父親を谷へ突き落としていた。「楢山まいり」のお供の経験者から内密に教えられた「嫌なら山まで行かんでも、七谷の所から帰ってもいい」という不可思議な言葉の意味を、辰平はそこではじめて理解した。家に戻ると、妊婦の松やんの大きな腹には、昨日までおりんがしめていた細帯があり、長男のけさ吉はおりんの綿入れを着て、「雪がふって、あばあやんは運がいいや」と感心していた。辰平は、もしまだ母が生きているとしたら、今ごろ雪をかぶって「綿入れの歌」(なんぼ寒いとって綿入れを 山へ行くにゃ着せられぬ)を考えているだろうと思った。

作品背景[編集]

深沢七郎は、「姥捨伝説」を大黒坂の農家の年寄りから聞いて、それを深沢の実母・さとじの「自分自らの意思で死におもむくために餓死しようとしている」壮絶な死とからめながら、老母・おりんと息子・辰平という親子の登場人物が創造されたのだという[2]。また、おりんの人物造型には、キリスト釈迦の両方を入れているという[3]

深沢は当時、ギタリストとして様々な公演に参加し、本作は家と日劇ミュージックホールの楽屋で執筆していたという[4]。そして、そのとき公演の構成演出をしていた丸尾長顕の勧めで、雑誌『中央公論』の新人賞に応募し、中央公論新人賞を受賞した[4]。なお、審査の選考委員は、三島由紀夫伊藤整武田泰淳であった[1]

作品評価・解説[編集]

正宗白鳥は本作について、「ことしの多数の作品のうちで、最も私の心を捉えたものは、新作家である深沢七郎の『楢山節考』である」と述べ、「私は、この作者は、この一作だけで足れりとしていいとさえ思っている。私はこの小説を面白ずくや娯楽として読んだのじゃない。人生永遠の書の一つとして心読したつもりである」[5]と高い評価をしている。白鳥は辛口評論家として知られ、その白鳥にこれほど賞讃されたことは稀有の事例であったという[1]。また福田宏年も、「私は戦後三十年の日本文学の作品の中でただ一作を選べといわれたら、ためらうことなくこの『楢山節考』を挙げたいとおもいます」[6]と述べている。

中央公論新人賞の審査員であった武田泰淳は、「いかなる残忍なこと、不幸なこと、悲惨なことでも、かえってそれがひどくなればなるほど、主人公の無抵抗の抵抗のような美しさがしみわたってくる」[7]と選評し、伊藤整は、「僕ら日本人が何千年もの間続けてきた生き方がこの中にはある。ぼくらの血がこれを読んで騒ぐのは当然だという感じですね」[7]と選評している。

木村東吉は、「おりんは死ぬべき人間として運命づけられており、彼女は自分の死を完全無欠のものにするために全力を傾注している」[8]という、自分の死後に息子たちが困らないようにすべての知識を伝授するそのおりんの生き方に触れ、「自分の本能的欲望を主張しようとする姿はまったくなく、彼女は自己犠牲の道を誇り高く歩んでいるのである」[8]と述べている。また、おりんの生き方や誇りは地域社会の価値体系に合致し、それは無言のうちに辰平や村人に通じているため、彼女は孤独に陥ることなく、自分の行き方を貫くことができ、自己犠牲の生き方ではあったが、十分幸福であったと解説している[8]

そして木村は、このようなおりん像は、作者・深沢自身の母親の像と重なっているとし[8]、深沢が肝臓癌で死んだ母親を、「誇り高い女であった」[9]と述懐し、葬儀の夕方から振り出した雨を、「私は雨をあんなに美しいと思ったことはなかった」[10]と「楢山節考」の雪を彷彿させるようなことを述べているエッセイを引きながら、深沢が母親と同じ肝臓癌で死ぬことを理想としていると述べていたことをも鑑み、「根っこのおりんの生き方は、そのまま作者自身の理想であったと考えられるのである。すなわち、おりんは作者の母の理想化された像であると同時に、作者の夢を託した人物だったということができる」[8]と解説している。

中央公論新人賞の審査員の一人だった三島由紀夫は本作の読後感を、「総身に水を浴びたような感じがした」[7]と選評し、「何かこわいというか『説教師』や『賽の河原』や『和讃』、ああいうものを読むと気分がずっと沈んでくる、それと同じ効果を感じる」[11]と語っている。また、のちのエッセイの中で審査員が新人の作品を読むときの心境を、年々祭の神輿の若い担ぎ手が下手になるのを嘆く町会の旦那衆に喩えつつも、同時にその心境は、「天才の珠玉の前にひれ伏したい気持」を伴っているとし[12]、自分が永年文学賞の審査に携わって来て、ただ一度生原稿を読んでそういった慄然たる思いがしたのは、深沢七郎の「楢山節考」だったと述べ、その時の感動を振り返っている[12]。三島は、いくつかの他の候補作に倦み果てた後に読んだ、そのあまり美しくない字の手書き原稿の「楢山節考」を読んだ時、「はじめのうちは、なんだかたるい話の展開で、タカをくくつて読んでゐたのであるが、五枚読み十枚読むうちに只ならぬ予感がしてきた。そしてあの凄絶なクライマックスまで、息もつがせず読み終ると、文句なしに傑作を発見したといふ感動に搏たれたのである」[12]と述懐している。

しかし三島は、「楢山節考」を不快な傑作だったとし、それは、われわれ人間にとっての「美と秩序への根本的な欲求」があざ笑われ、われわれが人間性と呼んでいる「一種の合意と約束」が踏みにじられているとし、「ふだんは外気にさらされぬ臓器の感覚が急に空気にさらされたやうな感じにされ、崇高と卑小とが故意にごちやまぜにされ、『悲劇』が軽蔑され、理性も情念も二つながら無意味にされ、読後この世にたよるべきものが何一つなくなつたやうな気持にさせられるものを秘めてゐる不快な傑作であつた」[12]と評し、その後の深沢文学に対する恐怖は、「楢山節考」の最初の読後感に源するとしている[12]。また三島は「楢山節考」とは対蹠的な作品だが同種の読後感を持った作品として、アーサー・C・クラークの『幼年期の終り』も挙げつつ、これら読後のいいしれぬ不快感の傑作について、「浄化を目睹してはゐるが、その浄化がわれわれの信じてゐる最終的な矜りを崩壊させることと引代へでなくては与えられぬやうに仕組まれてゐる」[12]とし、「この世には、ただ人を底なしの不快の沼へ落し込む文学作品もあるのである。いはばこれを『悪魔の芸術』と呼ぶことができよう」[12]と解説している。

日沼倫太郎は、「楢山節考」の印象について、孝行息子がはりさけんばかりの悲痛な思いで神の棲む楢山に老母を捨てるという「残酷な行動」と、それに背馳した「肉親間の美しい愛情」とが奇妙にない混ぜられて、「全体として、酸鼻とも明るさともつかぬイメージをみなぎらせている」[1]と評し、その深沢の作り出すイメージの世界のつよさが誰もが認めざるを得ないという理由については、「あらゆる素材が物として処理されているからである。あるいは物としてとらえる存在把握、ないしは存在透視力、ないしはメタフィジックにもとづいているからである」[1]と解説している。そしてその深沢の世界観は、「それ自身としては何の原因もない『自本自根』のものすなわちであり、空間の拡がるかぎり時間の及ぶところ、何時はじまって何時終るとも知れない流転である。万象はその一波一浪にすぎない。あらゆる事象は『私とは何の関係もない景色』なのである」[1]と解説し、その意味で、深沢は、人間本位の近代ヒューマニズムの思想とは対蹠的な地点に立ち、徹底したアンチ・ヒューマニストであることが示されているとし、その作品世界は、ニヒリズムを支柱として構成されていると論じている[1]

大木文雄は、フランツ・アルトハイムが『小説亡国論』の中で説いている要旨を、「ダヌンツィオロレンスの小説は、その中に根源神話を孕んでいるゆえに飼い慣らされた文明を突き抜け、根源にひそむものに触れ得る力を持った文学であること、つまりそれは人間以前の動物的な深淵に触れさせることによって飼い慣らされた文明に風穴を開けさせ、革命させることのできる文学であること」[13]と論述しながら、「楢山節考」の感動の源泉もまた、アルトハイムの説く「根源神話」と同じ次元から来ているとし、「姥捨伝説」は「太古から存在し、現在でも生きている」根源神話であると述べている[13]。そして、「姥捨て」は「高齢者福祉」という文化的な名前を冠して、21世紀の現在大きな問題として存在し、介護施設に入れることは、「楢山まいり」に行くことと同じことではないかと述べ[13]、老人の死の問題は、「まさに『飼い慣らされた文明』を突き抜けてさらに太古にまで溯る動物的な、ロレンスの言う『血と肉』と結びつく根源神話である。子孫のために自ら死を選ぶというありようは、突き抜けると動物の本能にまで溯る。は産卵のために壮絶な死を選ぶ。生のための死。それは自然の根源法則が支配する世界である」と述べ、その世界はゲーテの「至福なる憧憬」の詩の中にある「死して成れよ」Stirb und werde! の次元であるとしている[13]。そして、それはもはや神秘の世界に属し、汚すことのできない神聖な領域であり、「楢山には神が住んでいる」というのはそういうことを意味すると解説している[13]

さらに大木は、「姥捨て伝説はなかった」[14]と主張する古田武彦の根拠の一つである、「親子みんなで、腹をへらしてがんばる、というのが本当じゃないかな」[14]という発言に反論し、「まさにそれは『飼い慣らされた文明』の世界での発言である。誰かが死ななければ子孫が生き残れないほどに生活が苦しい状況に直面したときに、『親子みんなで、腹をへらしてがんばる』という言葉は戯言にすぎない」[13]と断じ、誰にでもある人間の生存本能や死の恐怖を突き抜けた世界は、「それよりもはるかに壮絶な動物的な愛の本能にまで触れる世界」であるとし、「おりんの『楢山まいり』とそれをいやいやながら手助けする辰平の姿は、恐ろしく、壮絶だが、しかしそこには壮絶故の美が宿っている」[13]と解説している。

映画化[編集]

テレビドラマ化[編集]

ラジオドラマ化[編集]

おもな刊行本[編集]

  • 『楢山節考』(中央公論社、1957年2月1日)
  • 新書版『楢山節考』(中央公論社、1958年5月15日)
    • 装幀:高橋忠弥。付録・解説:伊藤整「深沢七郎氏の作品の世界」。カバー袖文:正宗白鳥・中村光夫
    • 収録作品:楢山節考、東北の神武たち、揺れる家
  • 文庫版『楢山節考』(新潮文庫、1964年7月30日。改版1987年)
  • 朗読CD『楢山節考』(新潮社、2009年12月)
    • ケース装画:安野光雅。CD2枚(129分)。
    • 朗読:小沢昭一

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f g 日沼倫太郎「解説」(文庫版『楢山節考』)(新潮文庫、1964年。改版1987年)
  2. ^ 浜野茂則『伝記小説 深沢七郎』(近代文芸社、2000年)
  3. ^ 深沢七郎白鳥の死」(新潮 1963年1月号に掲載)
  4. ^ a b 深沢七郎「あとがき」(『現代の文学31 深沢七郎』)(河出書房新社、1965年)
  5. ^ 正宗白鳥「推薦文」(『楢山節考』帯)(中央公論社、1957年)
  6. ^ 福田宏年「精神医学から見た文学の諸相」(『わが青春 わが文学II』(集英社、1979年)
  7. ^ a b c 「中央公論新人賞選評」(中央公論 1956年11月号)
  8. ^ a b c d e 木村東吉「深沢七郎論―「楢山節考」の夢の崩壊過程について」(広島大学近代文学研究会、1974年2月)
  9. ^ 深沢七郎「柞葉の母」(婦人公論 1957年4月号に掲載)
  10. ^ 深沢七郎「自伝ところどころ」
  11. ^ 伊藤整「深沢七郎氏の作品の世界」(『楢山節考』付録解説)(中央公論社、1957年)
  12. ^ a b c d e f g 三島由紀夫「小説とは何か 十」(波 1970年3・4月号に掲載)。のち『小説とは何か』(新潮社、1972年)に所収。
  13. ^ a b c d e f g 大木文雄「深澤七郎の小説『楢山節考』とフランツ・アルトハイムの『小説亡国論』」(北海道教育大学釧路校ドイツ文学研究室、2003年11月)
  14. ^ a b 古田武彦『〈姥捨て伝説〉はなかった』(新風書房、2002年)

参考文献[編集]

関連項目[編集]