デーヴィッド・ハーバート・ローレンス

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デーヴィッド・ハーバート・ローレンス
DH Lawrence 1906.jpg
21歳の頃 (1906年)
誕生 1885年9月11日
イギリスの旗 イギリス
ノッティンガムシャーイーストウッド
死没 1930年3月2日(44歳)
フランスの旗 フランス
ヴェンス
職業 小説家
活動期間 1907年–1930年
ジャンル モダニズム
主題 性愛、社会、旅行小説、文学批評
代表作

小説: 白孔雀
短編: 菊の香り

戯曲: ホルロイド夫人
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デーヴィッド・ハーバート・ローレンス(David Herbert Richards Lawrence、1885年9月11日 - 1930年3月2日)は、イギリスノッティンガムシャー出身の小説家詩人

1908年にノッティンガム大学を卒業した後、小学校の教員となり、1911年に小説を出している。1912年から1914年にかけてドイツに渡り、1914年イギリスに帰国後結婚した。『息子と恋人』(1913年)、『虹』(1915年)、『チャタレー夫人の恋人』(1928年)など人間の性と恋愛に関する小説を発表したが、発禁処分を受けたものもある。

ローレンスの作品は性を大胆に描写し、また、近代文明が人間生活にもたらす悪影響を主題としているものが多い[1]。易しくぶっきらぼうな言葉で書かれているのが特徴である[2]

日本では第一次世界大戦後の1920年代頃に注目されはじめ、ローレンスが死んだ1930年代には阿部知二伊藤整西脇順三郎らによって広く紹介されるようになった[1]。なお第二次世界大戦後に、伊藤整が訳したローレンス『チャタレイ夫人の恋人』はわいせつだとして罪を問われたチャタレー事件が起きた。

生涯[編集]

若き日[編集]

デーヴィッド・ハーバート・ローレンスは、炭鉱夫の父アーサー・ジョン・ローレンス(Arthur John Lawrence)と教師だった母リディア(Lydia (née Beardsall))の第4子(3男)として出生[3]。幼い頃はノッティンガムシャー州イーストウッド (Eastwoodの炭鉱町で過ごした。ローレンスの生まれたイーストウッド8a Victoria Streetは、今日博物館になっている[4]労働者階級の家庭に育ち、炭鉱夫の組長である父アーサーと教養のある母リディアの仲が必ずしも良く無かったことが、彼の初期の作品に大きな影響を与えている。美しい田園風景と汚れた炭鉱町をモチーフとした風景は、彼の小説の中にも数多く登場している[1]。ローレンスはこの風景を回想し「私の心のふるさと(the country of my heart)」と述べている[5]

若きローレンスは、1891年から1898年の間、ビューバル公立小学校(現在はローレンスを記念し「グリズリー・ビューバル・D・H・ローレンス小学校と改名されている)で学び、初となる州会 (County council奨学金を獲得、州都ノッティンガム近郊のノッティンガム高校に入学する。現在この地にはローレンスの名がつけられた高校の寮がある。1901年に卒業するとヘイウッド医療器具会社の事務員となったが、肺炎を発症して3ヶ月で辞めた。彼は療養のため近くのハッグス農場を訪れ、そこの娘のジェシー・チェインバーズと友好を持った。ジェシーや他の10代の友人は皆読書好きであり、それ以降ローレンスは生涯にわたって文学を愛するようになった。1902年から1906年の間はイーストウッドのブリティッシュスクール(小学校)で代用教員を勤めた。その後ノッティンガム大学で2年間学んで教職の資格を取り、ロンドン南郊の小学校に勤めた[1]。教職の傍ら、詩、短編、小説『リティシア』の草稿などを作っている。1907年の暮れにノッティンガム・ガーディアン社の短編小説コンテストに応募して入賞。

母の死と駆け落ち[編集]

1908年の秋、ローレンスはロンドンに移り住み、ロンドン南部クロイドン (Croydonのデービットソン・ロードスクールで教鞭を取る傍ら、執筆を続けた。いくつかの詩はジェシー・チェインバーズに送られている。やがて彼の作品はThe English Reviewの編集者フォード・マドックス・ヘファー(後にフォード姓,  (Ford Madox Ford)の目に留まるようになった[1]。ヘファーはローレンスに作品を依頼し、『菊の香り』 (Odour of Chrysanthemumsが執筆された。それがロンドンの出版社ハイネマン (Heinemann (book publisher)の注目を引き、さらなる作品が作られることになった。ローレンスの収入は執筆の方が主となっていったが、その後も数年教職を続けている。

『白孔雀』 (The White Peacockを脱稿して間もない1910年にルーイ・バロウズと婚約するが、その後すぐに母が病没。愛する母を失ったローレンスはその後数ヶ月立ち直れなかった。この出来事は彼の重要な転機となっており、その様子が後の1913年の小説『息子たちと恋人たち』 (Sons and Loversでも描写されている。1911年、出版会の大物エドワード・ガーネット (Edward Garnettとその息子デービット (David Garnettと親交を結んでいる。肺炎が再発し、翌1912年にルーイ・バロウズとの婚約を解消する。

1912年3月、ローレンスは就職相談で[1]旧師アーネスト・ウィークリー (Ernest Weekley[6]を訪ね、彼の妻フリーダ (Frieda von Richthofenと3人の子供と出会う。ローレンスはフリーダとミュンヘンへと駆け落ちする。そこでイギリスのスパイと疑われて逮捕、告発されたため、アルプス山脈を超えてイタリアにわたった。1913年には子供に会いたいと言う[1]フリーダとともにイギリスに戻り、しばらく過ごしている。この際にジョン・ミドルトン・マリーキャサリン・マンスフィールドらと知り合う。その後イタリアに戻り、ラ・スペツィアに住む。1914年、この地で『虹』 (The Rainbowと『恋する女たち』 (Women in Loveを執筆する。フリーダは夫アーネストと離婚し、1914年6月13日にローレンスと再婚する。1915年9月に『虹』を出版するが、11月に猥褻だとして発禁処分を受ける[1]。その後、コーンウォールに移る。1917年10月、スパイ容疑でコーンウォールから立ち退きを命じられ[1]バークシャーに移る。1918年にはダービーシャーに移る。1919年、イギリスを離れてイタリアに向かう。この頃には英文学作家として世間に広く知られるようになる。

メキシコ旅行と晩年[編集]

ローレンスは、1922年2月に東周りでアメリカに向かい、東南アジアを経てオーストラリアでモリー・スキナー (Mollie Skinnerと出会う。9月にアメリカに到着し、マーベル・ルーハン (Mabel Dodge Luhanと出会う。ローレンスはアメリカに2年間住み『アメリカ古典文学研究』 (Studies in Classic American Literatureを執筆[7]1923年メキシコに向かう。1925年3月、マラリア結核を併発する。命は取り留めたものの、療養のため同年ヨーロッパに戻る。1926年、イタリアのフィレンツェに住み、その地で『チャタレイ夫人の恋人』に着手、これが最後の長編となる。オルダス・ハクスリーと親交を結ぶ。

タオス近郊にある墓

1928年、『逃げた鶏』を執筆。油絵なども手がけている[8]。この頃、ロンドン警視庁から嫌がらせを受けており、1929年中頃には部屋を荒らされている。1929年、聖書論『黙示録[9]を完成、その後フランスのサナトリウムに移り住む。1930年、妻フリーダらに看取られて死去。彼の遺灰はその後に再婚したフリーダの夫によってアメリカニューメキシコのタオスに納められた。

注釈、出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i 上田和夫訳『新版ローレンス短編集』の解説より、1995年、新潮文庫、ISBN 4-10-207013-3
  2. ^ 武藤浩史訳『チャタレー夫人の恋人』の解説より、2004年、ちくま文庫、ISBN 4-480-42038-X
  3. ^ http://www.lawrenceseastwood.co.uk David Herbert Richards Lawrence
  4. ^ Broxtowe Borough Council : D.H. Lawrence Heritage at www.broxtowe.gov.uk
  5. ^ Letter to Rolf Gardiner, 3 December 1926.
  6. ^ 文献学者で『ことばのロマンス 英語の語源』(寺澤芳雄出淵博共訳(岩波文庫)1987で、日本でも知られる。
  7. ^ 訳書は、野崎孝訳 <D・H・ロレンス紀行・評論選集第4巻>(全5巻、南雲堂)、大西直樹訳 (講談社文芸文庫、1999年)
  8. ^ 創元社(各河野哲二解説)で、大著『D. H. ロレンス絵画作品集』(2004年)、『D. H. ロレンスの絵画と文学』(2000年)に詳しい。
  9. ^ 訳書は、福田恒存訳・解説 『黙示録論』、新版 ちくま学芸文庫。なお福田自身はあとがきに、同書を自分の「思想的原点」と記している。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

伝記[編集]

作品[編集]

評論[編集]

その他[編集]