水島の戦い
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| 水島の戦い | |
|---|---|
| 戦争:治承・寿永の乱 | |
| 年月日:寿永2年閏10月1日(1183年11月17日) | |
| 場所:備中国水島 (倉敷市) | |
| 結果:平氏軍の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| 源氏 | 平氏 |
| 指揮官 | |
| 足利義清・海野幸広 | 平重衡・平通盛 |
| 戦力 | |
| 7,000騎 船数:500余艘 |
船数:1,000余艘 |
水島の戦い(みずしまのたたかい)は、平安時代末期における治承・寿永の乱の戦闘の一つである。寿永2年閏10月1日(1183年11月17日)、備中国水島(現在の倉敷市玉島)[1]において源義仲軍と平氏軍との間で行われた。
[編集] 概要
当時、平氏軍の拠点は讃岐の屋島にあった。平氏を追討するため、寿永2年(1183年)9月20日に源義仲軍は都を出発して屋島方面へ進軍していったが、閏10月1日、四国へ渡海する前に、水島付近で平氏軍に敗れた。義仲軍を率いていたのは、義仲の部将足利義清・海野幸広である。
平氏は、軍船同士をつなぎ合わせ、船上に板を渡すことにより、陣を構築した。源平両軍の船舶が接近し、互いに刀を鞘から抜いて、今にも白兵戦を始めようかという時、平氏の射手が義仲軍へ矢を浴びせかけて戦闘が開始した。平氏軍は船によく装備された馬を同乗させており、その軍馬とともに海岸まで泳いで上陸した。最終的に平氏軍は勝利し、義仲軍は足利義清・海野幸広の両大将や足利義長(義清の弟)、高梨高信といった諸将を失い壊滅、京都へ敗走することとなった。この勝利により平氏軍は勢力を回復し、再入京を企て摂津福原まで戻り、一ノ谷の戦いを迎えることとなる。
なお、この戦いの最中1183年11月24日(寿永2年閏10月1日)に、95%ほど欠けた金環食が起こったことが、「源平盛衰記」等の資料によって確認されている。(参照:「日食」→日本での記録→金環日食)
[編集] 脚注
- ^ 現在、水島といえば倉敷市水島もしくは、水島群島(上水島・下水島)を指すが、合戦当時は、現在の同市玉島にある柏島もしくは乙島(ともに現在は陸地化)、あるいは両島および周辺の島々の総称であったとされる。