高階為章

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
高階為章
時代 平安時代後期
生誕 康平2年(1059年
死没 康和5年12月20日1104年1月19日
官位 正四位下木工頭
主君 白河天皇
氏族 高階朝臣
父母 父:高階為家、母:藤原義忠の娘
兄弟 為章為賢為遠源家実室、源有賢室、源雅俊室(掌侍高階業子)、源信雅室?
養子:高階為行
藤原基貞の娘、源業房の娘、藤原時房の娘
仲章宗章雅章時章為子
養子:高階基章
テンプレートを表示

高階 為章(たかしな の ためあき、康平2年(1059年) - 康和5年12月20日1104年1月19日))は、平安時代後期の貴族備中守高階為家の長男。

経歴[編集]

蔵人所雑色を経て、承暦3年(1079年六位蔵人右近衛将監に補せられる。承暦5年(1081年巡爵により従五位下越後守に叙任された。のち、左兵衛佐を経て、応徳3年(1086年白河天皇堀河天皇譲位して院政を開始すると、為章は院近臣として院の身近に仕える一方で、但馬守を兼ね、寛治2年(1088年正五位下次いで従四位下、寛治3年(1089年)従四位上、寛治4年(1090年正四位下と白河院政期初頭に急速に昇進を果たした。

為章は院の寵臣として因幡守藤原隆時と並び称され[1]、二条万里小路の為章の邸宅には、しばしば白河院の御幸が行われた[2]。特に、寛治7年(1093年)春日神人を暴行したとして興福寺衆徒から訴えられ、父の為家が近江守を解かれて土佐国配流となった際、為章は長男であったために縁坐となるべき所、白河院の特別な恩寵によってこれを逃れ、四男の阿波守・為遠のみが官職を停められたことから、人々から専主の非常の断として驚嘆を受けたという[1]

嘉保2年(1095年木工頭を兼ねるが、寛治6年(1093年加賀守、嘉保3年(1096年丹波守と引き続き受領を務める。丹波守在職中には、東寺領大山庄を寛徳年間(1044年-1046年)以後の新立荘園として収公するなど、任国の荘園に対し圧迫の姿勢で臨んだ[2]

父に先立って、康和5年(1103年)12月20日に卒去享年45。最終官位は正四位下行木工頭兼丹波守。

官歴[編集]

注記のないものは『本朝世紀』による[1]

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 『本朝世紀』康和5年12月20日条
  2. ^ a b 『朝日日本歴史人物事典』
  3. ^ 『中御室灌頂記』
  4. ^ 『師通記』
  5. ^ 『慶延記』
  6. ^ 『時範記』
  7. ^ 『平安遺文』1481
  8. ^ 『殿暦』

参考文献[編集]