藤原扶幹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原扶幹
時代 平安時代前期 - 中期
生誕 貞観11年(869年[1]
死没 天慶元年7月10日938年8月8日
官位 従三位大納言
主君 光孝天皇宇多天皇醍醐天皇朱雀天皇
氏族 藤原北家
父母 父:藤原村椙、母:榎井島長の娘
兄弟 扶幹、景合、済覚
榎井島丸の娘
合間、藤原元名
テンプレートを表示

藤原 扶幹(ふじわら の すけもと)は、平安時代前期から中期にかけての公卿藤原北家右大臣藤原内麻呂の玄孫。駿河守・藤原村椙の次男。官位従三位大納言[2]

経歴[編集]

周防掾近江権少掾中務少丞を経て、仁和3年(887年従五位下叙爵宇多朝では兵部少輔民部少輔を経て、寛平7年(895年信濃守に任ぜられ地方官に転じる。

醍醐朝前半も常陸介上野介と引き続き地方官を務める。またこの間の昌泰4年(901年)に従五位上に昇叙されている。扶幹は藤原忠平の側近で、延喜14年(914年)に忠平が右大臣に昇り太政官の首班に立つと、翌延喜15年(915年)に扶幹も正五位下・権右中弁に叙任され京官に復帰する。こののち、延喜16年(916年)右中弁、延喜17年(917年従四位下、延喜21年(921年)左中弁、延喜22年(922年)従四位上と、忠平執政下で弁官を務めながら順調に昇進し、延喜23年(923年)60歳で参議に任ぜられ公卿に列す。同年4月に忠平の妹・藤原穏子中宮に冊立されると中宮大夫に任ぜられた他、議政官として大宰大弐・左大弁を兼任した。

朱雀朝でも順調に昇進し、承平2年(932年正四位上、承平3年(933年従三位中納言、承平7年(937年大納言に至る。天慶元年(938年)6月辞職を請いまもなく許されて致仕、同年7月10日薨去。最終官位は致仕大納言従三位[2]。また、この間の延長8年(931年)から天慶元年(938年)の致仕に至るまで、源氏長者として淳和奨学両院別当を務めている[3]

人物[編集]

二中歴』に名臣の一人として記載される[4]。また、勅撰歌人として『後撰和歌集』に1首の和歌作品が採録されている[5]

官歴[編集]

公卿補任』による。

系譜[編集]

尊卑分脈』による。

  • 父:藤原村椙
  • 母:榎井島長の娘
  • 妻:榎井島丸の娘
    • 男子:藤原合間
  • 生母不詳の子女

脚注[編集]

  1. ^ 公卿補任』天慶元年条による。同書承平7年条では年齢74歳とあり逆算すると貞観6年(864年)生となる。
  2. ^ a b 『公卿補任』『尊卑分脈』。『日本紀略』天慶元年7月10日条では正二位とするが、贈位か。
  3. ^ 『姉言記』文治4年6月30日条
  4. ^ 『二中歴』13
  5. ^ 『勅撰作者部類』
  6. ^ 或いは13日
  7. ^ 或いは22日

出典[編集]

公職
先代
藤原保忠
陸奥按察使
936 - 938
次代
藤原実頼