北条師時

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
北条師時
時代 鎌倉時代後期
生誕 建治元年(1275年
死没 応長元年9月22日1311年11月3日
享年37
改名 師時、道覚
別名 西殿師時
官位 右馬権頭、相模従四位
幕府 鎌倉幕府小侍所別当評定衆
三番引付頭人、執奏、第10代執権
主君 久明親王守邦親王
氏族 北条氏宗政流
父母 父:北条宗政、母:北条政村の娘
養父:北条時宗
兄弟 師時、政助、女子(北条貞時正室)
正室:北条貞時の娘

北条 師時(ほうじょう もろとき)は、鎌倉時代後期の北条氏の一門。鎌倉幕府第10代執権である。父は8代執権北条時宗の同母弟である北条宗政。母は7代執権北条政村の娘。父の死後に伯父時宗の猶子となる。

目次

[編集] 生涯

永仁元年(1293年)、19歳の若さで5月30日に評定衆、6月5日に三番引付頭人、10月20日に執奏、12月20日に従五位上と、鎌倉政権の中枢に抜擢される。従兄弟である執権・北条貞時が平頼綱を永仁の鎌倉大地震に乗じて誅殺して実権を取り戻した平禅門の乱の直後である。引付衆を経ずに評定衆となるのは、得宗家一門と赤橋家の嫡男のみに許される特権とされる。これにより師時は北条氏庶流というより得宗家の一員と見なされていたとされる。またそれが平禅門の乱の直後であり、また父宗政を凌ぐ要職であることから、単に家格だけではなく、兄弟の居ない貞時が、自分にとって一番近い血縁である師時や、もう一人の従兄弟である北条宗方を政権の中枢に引き上げることによって、周りを固めようとしたとも見られている。

正安3年(1301年)8月、貞時の出家に伴い執権に就任。貞時の嫡男である北条高時(後の14代執権)が成人するまでの中継ぎ役として期待されたが、貞時の死の1ヶ月前である応長元年(1311年)9月22日に死去[1]。享年37[2]

[編集] 経歴

  • 弘安7年(1284年)、10歳で小侍所別当
  • 弘安8年(1285年)、11歳で左近将監・従五位下に叙爵
  • 永仁元年(1293年)5月30日、評定衆、6月5日、三番引付頭人、10月20日、執奏、12月20日、従五位上(19歳)
  • 永仁2年(1294年)1月30日、右馬権頭
  • 永仁5年(1297年)7月、二番引付頭人(23歳)
  • 正安1年(1299年)2月27日、正五位下(25歳)
  • 正安3年(1301年)8月22日、執権。9月27日、相模守に遷任(27歳)
  • 嘉元2年(1304年)従四位下
  • 応長元年(1311年)9月21日、出家。道覚と号す。9月22日、卒去。享年37。

[編集] 参考文献

[編集] 脚注

  1. ^ 『金沢貞顕』〈人物叢書〉73頁。
  2. ^ 『金沢貞顕』〈人物叢書〉73頁。
個人用ツール
名前空間

変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語