北条経時

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北条経時
時代 鎌倉時代中期
生誕 元仁元年(1224年
死没 寛元4年閏4月1日1246年5月17日
享年23
改名 藻上御前(藻上丸)、経時、安楽
別名 太郎、弥四郎、左近大夫
戒名 蓮華寺安楽
墓所 鎌倉市材木座の天照山蓮華院光明寺
官位 左近衛将監、正五位下、武蔵
幕府 鎌倉幕府 評定衆、第4代執権
主君 藤原頼経頼嗣
氏族 北条氏得宗
父母 北条時氏松下禅尼
兄弟 経時時頼時定檜皮姫足利泰氏室、
北条時定 (時房流)
正室:宇都宮泰綱の娘
隆政頼助

北条 経時(ほうじょう つねとき)は、鎌倉時代前期の北条氏得宗家の一門。鎌倉幕府の4代執権1242年 - 1246年)である。北条時氏の長男で、3代執権北条泰時の嫡孫にあたる。

目次

[編集] 生涯

天福2年(1234年)3月5日に11歳で元服する。4代将軍藤原頼経が加冠し、その偏諱を賜って経時と名乗った。8月1日、幕府の小侍所別当となる。

父時氏は寛喜2年(1230年)に早世し、その他の北条泰時の子も早世していたため、仁治2年(1241年)、祖父泰時より後継者に指名され、評定衆の一人に列せられた。翌仁治3年(1242年)6月15日、祖父の死去に伴って19歳で執権となる。

ところが、祖父の死と若年の経時の継承により、北条一族内部に執権職を巡っての対立が発生、さらには4代将軍藤原頼経が成人し実権を掌握しようとするなど、反執権勢力が盛り返しを図り、経時は苦境に立たされた。経時はこれを挽回するため、寛元2年(1244年)4月、頼経の将軍職解任を強行し、6歳の頼経の子頼嗣を元服させて5代将軍として擁立した。さらに寛元3年(1245年)5月23日、頼嗣に妹檜皮姫を嫁がせることで、反対勢力の攻勢を一時鎮静させることに成功した。

しかし、前将軍となった頼経はなおも鎌倉に留まって頼嗣を補佐したため、経時は頼経の追放を図ったが失敗。新将軍に擁立した頼嗣は病がちであった。経時は檜皮姫の輿入れ直後の5月末に黄疸を患い、翌月には一時症状は治まるが、9月4日に正室の宇都宮泰綱の娘が15歳の若さで死去。同27日、経時は病が再発して一時意識を失うに至っている。寛元4年(1246年)正月には椀飯の沙汰を努めるが、2月頃には妹の御台所檜皮姫も病に伏せるようになる。

心労が重なり危篤状態となった経時は、2人の息子が幼少のため、寛元4年(1246年)3月23日、弟時頼に執権職を譲り、4月19日出家して4月1日死去した。享年23[1]。その死と同時に、宮騒動が勃発する事になる。

息子たちは出家してとなり、それぞれ隆政弘長3年〈1263年〉死去)、頼助と称した。

[編集] 経歴

※日付=旧暦

  • 天福2年8月1日、幕府の小侍所別当となる。8月11日、従五位下に叙し、左近衛将監に任官。左近大夫と称する。
  • 仁治2年(1241年)6月、幕府の評定衆となる。8月12日、従五位上に昇叙。左近衛将監如元。
  • 仁治3年(1242年)6月15日、執権となる。
  • 寛元元年(1243年)6月12日、正五位下に昇叙。左近衛将監如元。7月8日、武蔵守に転任。
  • 寛元4年(1246年)3月23日、執権辞職。4月19日、落飾し、安楽と号す。閏4月1日、卒去。享年23。 

[編集] 注釈

  1. ^吾妻鏡』では没した時33歳であったと記述されているが、1234年の記述に11歳であったともあり、整合性が合わない。『五代帝王物語』は23歳没、『尊卑分脈』では28歳没となっており、種々の史料の記述を勘案し、23歳没とする見方が強い(奥富敬之『時頼と時宗』 ISBN 4-14-080549-8

[編集] 関連項目

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