梅田雲浜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
梅田 雲浜(雲濱)(うめだ うんぴん、文化12年6月7日(1815年7月13日)- 安政6年9月14日(1859年10月9日))は、幕末期の儒学者。通称は源次郎。名は義質、定明。号は雲浜のほか、湖南。
目次 |
[編集] 経歴
雲浜の号は、若狭国小浜海岸からの由来で名づけたという。小浜藩藩士・矢部義比の次男として生まれ、藩校・順造館で学んだ。天保元年(1830年)、藩の儒学者・山口菅山から山崎闇斎学を学び、その後、祖父の家系である梅田氏を継いだ。小浜で学んだ知識をもって、大津に湖南塾を開いている。天保14年(1843年)には京都へ上京して藩の塾である望楠軒の講師となる。
しかし嘉永5年(1852年)、藩主・酒井忠義に建言したのが怒りに触れて、藩籍を剥奪された。翌年、アメリカのペリーが来航すると条約反対と外国人排斥による攘夷運動を訴えて尊皇攘夷を求める志士たちの先鋒となり、幕政を激しく批判した。しかしそれが時の大老・井伊直弼による安政の大獄で摘発され、二人目の逮捕者となってしまった。
捕縛後は京都から江戸に送られたが、取調べでも箒尻(ほうきじり)で全身を打たれる拷問においても何一つ口を割らず、獄中で病死した。これには、拷問での傷の悪化による死因説もある。享年45。
梅浜の墓は、全国にまたがり、海禅寺(東京都台東区)・安祥院(京都市東山区)・松源寺(福井県小浜市)に置かれている。 安祥院近くにある、坂本龍馬で有名な京都霊山護国神社には雲浜の碑も建てられており、今も雲浜を慕い訪れる人が多いという。
[編集] 辞世の歌
- 君が代を おもふ心の 一筋に 我が身ありとも 思はざりけり

