秋山好古

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秋山 好古
1859年2月8日 -1930年11月4日(満71歳没)
秋山好古
渾名 日本騎兵の父
生誕地 愛媛県 松山市
死没地 東京府
所属政体 大日本帝国
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴 1879 - 1923
最終階級 陸軍大将
指揮 近衛師団
騎兵第1旅団
戦闘/作戦 日清戦争
日露戦争
除隊後 北予中学校校長
松山市鷲谷墓地
  

秋山 好古(あきやま よしふる、安政6年1月7日1859年2月9日)- 1930年11月4日)は、日本の陸軍軍人陸軍大将従二位勲一等功二級。幼名は信三郎。また、日本海海戦で、先任参謀として丁字戦法を考案、バルチック艦隊を撃滅した秋山真之は実弟にあたる。

陸軍騎兵学校を参観に来たフランス軍人に「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」と賞されているとおり、日本騎兵の父と言われた。

目次

[編集] 年譜

[編集] 人物像

風貌は特徴的な鼻から「鼻信」とあだ名され、長身で色白、大きな目であり、陸軍大学校時代には教官のメッケルからヨーロッパ人と間違えられたというエピソードがある。 また青年期の頃から眉目秀麗と称賛され、故郷の松山や留学先のフランスでは女性にかなり人気があったという。しかし彼自身は「男子に美醜は無用」という価値観を持っていたため、自分の容姿を決して鼻にかけることはなかったという。

士官学校教授だった作家の内田百間は「意地の悪そうな顔」とも記している。酒を非常に好み、戦場でも水筒の中に入れ持ち歩いていた。それだけでは足りず、従兵が気を利かせて、従兵の水筒にも酒をつめていた。過度の酒好きにより晩年は重度の糖尿病を患っていた。

在りし日の秋山

極度の風呂嫌いで、日露戦争中に入浴したのはたったの2回だけだったと云う。軍服も全く洗濯せずに着用し続けていた為シラミが湧き、近くにいるだけでも異様な悪臭が漂う程だった。部下や同僚が入浴し身体を清潔にする様に何度となく勧めたが「軍人たるもの戦場においてはいつ何時でも敵に対処出来る様にしなければならない(入浴している間に異変があった時対処出来ない)」「風呂に入る為にこれ程遠い戦場まで来たのではない」と言って断っていた。

晩年は自らの功績を努めて隠していた。校長就任時に生徒や親から「日露戦争の事を話して欲しい」「陸軍大将の軍服を見せて欲しい」と頼まれても一切断り、自分の武勲を自慢する事は無かった。

愛媛県伊予市の伊予港(郡中港)にある藤谷元郡中町長の胸像の碑文の原本は、秋山によって認められたものである。

[編集] 逸話

  • 弟・真之が生まれた際、生活苦から寺へ出そうかと話がでたが、「将来自分が豆腐ほど厚い金を稼ぐから、弟を寺へやらないでくれ」と両親へ懇願した。
  • フランス留学中、腸チフスに罹る。医者に診てもらわずに自力で治したためか頭髪が全て抜ける。
  • 非常に質素な生活を送り、贅沢を嫌った。例えば、真之が居候をしたときも食器は1つで使いまわす。足袋を履かせない。他の兄から貰った縮緬の帯を使わせない。下駄の鼻緒を直している暇があるなら裸足で行け、など。
  • 欲の無い人物として知られている。凱旋した際、給料や品の多くは部下に与えていたため、目録や明細書ばかりカバンに入っていた。
  • 第二回万国平和会議に参加。各国委員会による演説が行われても鼾をかいて居眠りをしていた。一緒に参加していた都築馨六から注意されると「演説の要領は分かりましたよ」と応えたという。
  • フランスに騎兵留学中、当時の陸軍の最高位にあった山縣有朋にフランス軍内の高級軍人へのお使いを頼まれたことがあったが、使いの途中の電車内において酒を飲みすぎ、居眠りした揚句、置き引きにあっている。

[編集] 脚注

  1. ^ 編成としては旅団であったが、実際は歩兵砲兵を編入していたので戦闘単位としては「支隊」であり秋山支隊と言った。編成は支隊主力、三岳支隊、豊辺支隊、種田支隊の4個支隊からなる。

[編集] 著作

[編集] 参考図書

[編集] 秋山好古を演じた俳優

[編集] 関連項目


川田正澂を参照

[編集] 外部リンク

先代:
山根武亮
近衛師団長
第13代:1915 - 1916
次代:
仁田原重行
先代:
大谷喜久蔵
教育総監
第10代:1920 - 1923
次代:
大庭二郎
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