大艦巨砲主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大艦巨砲主義(たいかんきょほうしゅぎ)とは、1906年以後1920年代まで、世界の海軍がその主力たる戦艦の設計・建造方針に用いた考え方である。この時代は戦艦が海軍力の基幹(主力)として最重要視され、列強各国は攻撃力の主力たる巨砲を装備した新鋭戦艦の建造競争を行った。そして戦艦を保有する海軍においては、巡洋艦や駆逐艦などの戦艦以外の艦艇は「補助艦」として扱われ、「主力艦」たる戦艦のサポート役と位置づけられたのである。また戦艦を保有できない中小国の海軍においても、海防戦艦と呼ばれる艦を建造し、せめて戦艦に近い能力を持つ艦を保有しようと努力した例も多々見られた。この時期において戦艦は戦略兵器であり、他国より強力な戦艦を保有する事は、その国の国威を示すものであった。
戦艦の建造競争は1922年のワシントン軍縮会議の締結により一旦中断したが、1937年の条約明けで一斉に再開した。しかし1939年ヨーロッパで第二次世界大戦が始まると、欧州各国では建艦に手間のかかる戦艦の建造が遅れ気味になった。さらに緒戦の航空機の活躍を受けて、大戦中期以後海軍の主力の座を航空母艦に譲り新しい戦艦は建造されなくなった。
この語は、比喩として用いられることもある(→#比喩表現としての「大艦巨砲主義」)。
目次 |
[編集] 本来の大艦巨砲主義
1906年にイギリスで完成したドレッドノートは、従来の戦艦に比べて飛躍的に向上した攻撃力と機動力を有していた。これ以後世界の海軍はドレッドノートに準じた弩級戦艦や更に強力な超弩級戦艦を大量に建造した。戦艦の攻撃力は主砲の大きさで決まる。敵艦より大きな主砲を備え、敵弾に耐えられる厚い装甲を備えた戦艦が海戦では有利である。その結果、戦艦とそれに搭載される主砲は急速に巨大化し、また数量で他国に負けないために大量建造が行われた。日英独は戦艦と同じ巨砲を持つ巡洋戦艦も建造した。戦艦の建造は1922年のワシントン軍縮会議で全て中断されたが、この時期の戦艦の設計・建造方針を「大艦巨砲主義」と呼ぶ。竣工年、排水量、主砲の推移を下記に示す。
| 1902年 | 15220t | 30.5cm砲 | 4門 | 日本戦艦三笠 (大艦巨砲主義の始まる前) |
| 1906年 | 18110t | 30.5cm砲 | 10門 | イギリス戦艦ドレッドノート |
| 1912年 | 22200t | 34.3cm砲 | 10門 | イギリス戦艦オライオン |
| 1913年 | 26330t | 35.6cm砲 | 8門 | 日本巡洋戦艦金剛 (1番艦のみイギリスで建造、また改装後は戦艦) |
| 1915年 | 29150t | 38.1cm砲 | 8門 | イギリス戦艦クイーン・エリザベス |
| 1920年 | 32720t | 41.0cm砲 | 8門 | 日本戦艦長門 |
| 建造中止 | 41200t | 41.0cm砲 | 10門 | 日本巡洋戦艦赤城 (航空母艦として完成) |
建造数については第一次世界大戦中の1916年までがピークで、1910年からの7年間に全世界で竣工した戦艦は100隻を越える。7年間に建造された戦艦+巡洋戦艦の数を国別に列記する。
| イギリス | 40隻 | (チリとオスマントルコが発注した各1隻の戦艦を含む) |
| ドイツ | 25隻 | |
| アメリカ | 14隻 | |
| 日本 | 7隻 | |
| フランス | 7隻 | |
| イタリア | 6隻 | |
| 帝政ロシア | 6隻 | |
| オーストリア帝国 | 4隻 | |
| アルゼンチン | 2隻 | |
| ブラジル | 2隻 | |
| スペイン | 1隻 |
ワシントン条約明け後、列強の海軍は一斉に戦艦の建造を再開した。アメリカ・イギリス・フランス・イタリア・ドイツはワシントン条約に準じた(公称)35,000tクラスの戦艦を建造した。これらの戦艦は主砲として35.6cmから40.6cm砲を採用し、航空機対策として多数の対空火器を装備していた。
また、日本海軍は同時期に他国の戦艦をはるかに凌ぐ、64,000t級の大和型戦艦を建造した(大和、武蔵。三番艦・信濃は途中で空母へ改装)。日本は大和型よりも大型の51cm砲を積む超大和型戦艦の建造を予定していた(戦中に計画中止)ほか、米英仏独ソも35,000トン級を凌駕する巨大戦艦の建造を計画していた。すなわち、当時の各国海軍上層部は依然として「大艦巨砲主義」的な発想を持っていたと考えられる。しかし、直後に始まった第二次世界大戦では、海軍の主役の座は航空母艦に移り戦艦は脇役となった(これは日米の話であり、欧州では大戦後期まで主力艦として扱われていたことに注意)。ワシントン条約期間中に建造されたフランス戦艦ダンケルク級(1937年竣工)以後、第二次世界大戦終了後までの9年間に建造された戦艦は27隻であった。
大和型は6万トンを超す大艦であり、45口径46cm砲という巨砲を備えた大艦巨砲主義の申し子であった。戦艦との戦闘では優位に立てたはずの大和型も航空機には勝てず、大和、武蔵ともにアメリカ海軍航空母艦搭載機の集中攻撃を受けて沈没した。また大和型の他にも連合国・枢軸国を問わず多数の戦艦が、航空機や潜水艦の攻撃で沈没した。
第二次世界大戦前または戦中に建造が開始され、戦後に完成したイギリスのヴァンガードとフランスのジャン・バールを最後に、新たな戦艦は建造されていない。
[編集] 戦艦と射撃システム
戦術的に見ると、大艦巨砲主義の進展は、射撃管制装置とも関連している。ドレッドノートが画期的だったのは、多数の主砲の射撃管制を可能とする射法の完成あってのことであった。1940年頃まで各国の戦艦は、光学式測距儀と方位盤射撃を用いた射撃管制装置を主用していた。だが、米英では1941年以降、レーダーの実用化により、着弾観測については光学式測距儀よりも、レーダーを使用した電測射撃に移行していった。これに対し、米英に格段に劣り、電測測距と併用したものの、光学式測距儀を最後まで実戦で主用したのが日独であった(フランスはすぐに敗戦したため、射撃用レーダーを搭載したものの、その真価は不明であった。イタリアは終戦時まで対空見張り用レーダーのみであった)。
光学式の測距は特に遠距離射撃において誤差が大きく、近距離においても夜間、曇天、悪天候などで視界の悪い時にも、レーダー管制に劣っていた。そのため、水上艦艇同士の戦闘において、電測射撃が行えることは、かなり優位だった。ただ、初期の射撃用レーダーは測距性能は充実していたものの、方位探知角が不足しており、時には光学観測射撃に遅れを取ることもあった。
[編集] 大艦巨砲主義の終焉
他国より大型の戦艦、巨大な主砲を搭載するという、文字どおりの大艦巨砲主義は、ワシントン条約明け後には終焉していたと言ってよい。日本の大和型戦艦を例外として、主砲口径の増大には歯止めがかかり、前代と同程度、あるいはやや小型化した主砲の採用例が多くなった。これはユトランド沖海戦の戦訓を元に、速力・防御力とのバランスの取れた戦艦の設計が重要視されたからである。しかしながら、戦艦が戦略兵器であり、国威を示すものであるという認識は、未だに健在であった。
広い意味で大艦巨砲主義の終焉といえるのは、第二次世界大戦であろう。上述のとおり航空機の発達により、真珠湾攻撃やマレー沖海戦で航空機の戦艦に対する優位が確立し、戦艦の時代が終焉したとされる。戦艦の主な役割は、対地砲撃や防空艦としての機動部隊護衛などへと変わっていった。そして第二次世界大戦終了後は、そういった任務に用いるには戦艦は高価な艦であるとされ、大戦中より建造途中であった艦を除いて、戦艦の新造は全くなされなくなった。
ただし、第二次世界大戦における戦艦の時代の終焉は、いささか時期尚早であったという意見がある。第二次世界大戦において航空機によって戦艦が撃沈された例を見ると、彼我の航空戦力に圧倒的差のあるケースばかりである。航空機の脅威が周知のものとなった場合には、当然ながら戦艦を航空機によって護衛することとなり、その状況において航空機が戦艦を撃沈するのは、極めて困難とされた。それはレイテ沖海戦で実証された。また、20世紀末になっても異論が出ている。SAM及びCIWSによる高い精度の管制対空射撃が可能な現在、それらを搭載するプラットホームとして巨大な上、防御力の高い戦艦は、現代戦においては逆に撃破困難なのではないかというものである。接近さえ許されるのであれば戦艦の巨砲は航空機よりも時間当たりの効率が良い兵器となる。事実、湾岸戦争で米海軍は戦艦を運用した。
しかしながら、それらはいわば戦艦の利用価値を見切る事に対する異論であった。仮にそれら異論が正しいにしても、第二次世界大戦以降も継続して用いられている巡洋艦や駆逐艦などと同様に、戦艦もまた価値を有するという意見に過ぎない。戦艦が戦略兵器であり国威を示すものだという時代、戦艦以外の艦を補助艦とみなし戦艦のみが主力艦として海軍の主役を占める時代が、第二次世界大戦をもって終了した事に対しては、異論は存在しないと言える。
[編集] 日本海軍における大艦巨砲主義
日本海軍では、日露戦争時の日本海海戦において大艦巨砲と艦隊決戦を至上とする考え方が確立され(当時としては日本海軍に限ったものではなかったが)、その後も太平洋戦争後半期まで軍令・戦術上の主流となった。長駆侵攻してくる敵艦隊を全力で迎撃、撃退するのが基本方針であり、その際の主役は戦艦とされ、空母・巡洋艦・駆逐艦等は脇役に過ぎない。結果的に日本海軍が真珠湾攻撃やマレー沖海戦において大艦巨砲主義を終わらせたのは、主役である戦艦を出す前の「露払い」としての航空機が、予想外の戦果を出した事に他ならない。南雲機動艦隊は地球を半周するほど縦横無尽の活躍を見せるが、主役登場以前の脇役の活躍であった。
しかし実際の航空戦力の活躍により、ようやく設計・建造方針における大艦巨砲主義が終焉する。艦政本部を中心に時代の趨勢に沿った方針となり、連合艦隊も空母中心の第三艦隊が中核をなした。しかし、軍令・戦術方針における大艦巨砲主義が依然根強く、あくまでも戦艦中心の第一艦隊があっての第三艦隊という編成であった。1944年2月に第一艦隊が廃され、翌月に第一機動艦隊が創設されたことにより、ようやく軍令・戦術方針においても大艦巨砲主義が終焉を迎え、機動艦隊が最重要視されることとなった。しかし、戦局は既に終盤にあり、退潮の趨勢を変えることはできなかった。
[編集] 比喩表現としての「大艦巨砲主義」
第二次世界大戦の状況を受けて、現在はこの言葉を経済運営や企業経営の分野において、マスコミや経営コンサルタントが批判的に揶揄として使うことが多い。すなわち、過去の成功例にとらわれた発想で作られた、柔軟性に乏しい過大なシステムを『大艦巨砲主義』になぞらえ、失敗例の解説や警鐘を鳴らす場合に比喩的に用いる。また、プロ野球で4番打者(級)などホームランバッターを重視(=足技が使える打者を軽視)したり、そういう打者をかき集めてチームを構成すること(例えば一時期の読売ジャイアンツなど)を「大艦巨砲主義」と呼ぶこともたまにはある。

