ワスカル (装甲艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ペルー海軍時代のワスカルを描いた絵画
艦歴
発注: 1864年8月4日
起工:
進水: 1865年10月7日
就役: 1865年11月8日
退役: 1879年10月8日にチリ海軍に鹵獲編入。
その後: 1897年に退役。
1917年から1930年潜水母艦に使用。
1934年記念艦として再就役。
除籍: 2009年現在も記念艦として在籍。
性能諸元
排水量: 1199トン(1180英トン
全長: 66.9m
全幅: 10.9m
吃水: 5.7m
機関: 型式不明石炭専焼缶
+レシプロ機関1基1軸推進
最大出力: 1,500hp
最大速力: 12ノット
航続距離:
燃料: 石炭
乗員: 170名
兵装: アームストロング10インチ(254mm)連装砲塔1基
アームストロング120mm単装砲2基
12ポンドカノン砲1基
ガトリング砲1基
衝角
装甲: 舷側装甲:64~114mm
甲板:51mm
主砲塔:140mm
イキケの海戦の絵画。右がワスカル。
記念艦となったワスカル(2005年撮影)。

ワスカル(Huáscar。ウアスカル)は、ペルー海軍が保有した装甲艦南米の太平洋戦争チリ海軍鹵獲して編入し、現在も記念艦として保存している。

目次

建造 [編集]

1864年ペルーが、イギリスのレイアード・ブラザース(Laird Brothers)造船所に発注して建造した装甲艦である。当時、ペルーを含む南米諸国とスペインの間ではチンチャ諸島戦争en:Chincha Islands War)が勃発し、海軍力増強の必要があった。

装甲艦のうち、本格的な帆走設備と砲塔を有する、砲塔艦と呼ばれる形式のものである。もっとも、しばしばモニター艦にも分類され、ペルー海軍の公式サイトでもMonitorと表記されている[1]。砲塔はコールズ式砲塔1基を船体中央付近に装備していた。帆装はブリガンティン式である。

1865年10月に進水、翌月に就役した。艦名はインカ帝国皇帝ワスカルにちなみ、ペルー海軍の同名艦としては2代目である。

戦歴 [編集]

ペルー海軍時代 [編集]

チンチャ諸島戦争末期の1866年1月に装甲フリゲートインデペンデンシア」などとともにイギリスを出発し、途中でスペイン側の船2隻を拿捕しながら、同年6月に同盟国のチリに到着した。回航後、停戦まで大きな活躍の機会はなかった。1868年2月にペルーへと移動し、新艦長としてミゲル・グラウが着任した。彼は1876年までの長期間に渡ってその地位にあり、この間の経験が後の南米の太平洋戦争で役立つことになった。

1877年5月に起きた反乱事件で、「ワスカル」は反乱軍に占拠された。「ワスカル」は反乱軍将兵の操縦で、ペルー政府軍艦隊及びイギリス艦隊と交戦した(パコーチャの海戦)。この際にイギリス艦隊のフリゲート「シャー」から、史上初魚雷攻撃を受けたが、命中は免れた。約1ヶ月後にワスカルは政府軍に投降し、艦隊へと復帰した。

ペルー・ボリビア連合軍とチリの間の太平洋戦争では、ミゲル・グラウ提督の指揮の下でペルー海軍の主力艦として活躍し、1879年5月21日のイキケの海戦衝角によりチリ海軍コルベットエスメラルダ」を撃沈した。さらに、通商破壊を行って成果を挙げた。しかし、同年10月8日に起きたアンガモスの海戦でチリ艦隊に破れ、鹵獲された。

チリ海軍時代 [編集]

「ワスカル」を鹵獲したチリ海軍は、すぐさま整備して自国の艦隊に編入した。1880年2月27日にはペルーのアリカ港を攻撃し、ペルー海軍のモニター艦「マンコ・カパック」などと交戦して港に封じ込めた。そのまま同年6月のアリカ陥落まで「マンコ・カパック」の脱出を許さず、自沈に追い込んだ。ただし、「ワスカル」も艦長が戦死した。

1885年から1887年まで改装工事を受けた。汽缶スクリューの換装など大規模なもので、砲塔の動力化も行われた。

1891年チリ内戦では、反乱を起こした議会軍に使用された。議会軍の勝利まで、陸上への艦砲射撃や船団護衛などの活動をした。

1897年に機関部で爆発事故が発生し、一旦は除籍となった。1905年に砲艦としての再生工事が検討されたが実施されず、その後、1917年から1930年までH級潜水艦部隊の係留母艦任務に使われた。

1930年代に修復工事が行われ、1934年記念艦として現役復帰した。1951年から1952年にかけて、1878年時点の状態への復元工事が行われた。1971年から1972年にもドック入りしての大規模な整備が行われ、船体の全面改修や機関の再生産品との換装がされた。その後もタルカワノ(Talcahuano)に係留展示されている。

関連項目 [編集]

外部リンク [編集]