ヴェーザー演習作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ヴェーザー演習作戦
Operation Weserübung.jpg
戦争第二次世界大戦西部戦線
年月日:1940年4月9日 - 1940年6月10日
場所:デンマーク・ノルウェー
結果:ドイツの勝利
交戦勢力
ナチス・ドイツの旗 ドイツ ノルウェーの旗 ノルウェー
デンマークの旗 デンマーク
イギリスの旗 イギリス
フランスの旗 フランス
指導者・指揮官
ナチス・ドイツの旗 ニコラウス・フォン・ファルケンホルスト
ナチス・ドイツの旗レオンハルト・カウピッシュ
ナチス・ドイツの旗ハンス・フェルディナント・ガイスラー
ナチス・ドイツの旗ギュンター・リュッチェンス
ナチス・ドイツの旗エデュアルト・ディートル
ノルウェーの旗 ホーコン7世
ノルウェーの旗 オットー・ルーゲ
デンマークの旗 クリスチャン10世
デンマークの旗 ウィリアム・ウェイン・プライアー
戦力
120,000 60,000(ノルウェー)
14,500(デンマーク)
35,000(その他)

ヴェーザー演習作戦(ヴェーザーえんしゅうさくせん、ドイツ語: Unternehmen Weserübung)は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツが実行した、ノルウェーデンマークへの侵攻作戦である。

概略[編集]

1940年4月9日(ヴェーザー日)早朝にドイツ軍はデンマークとノルウェーに侵攻した。侵攻部隊のノルウェー上陸予定時刻(ヴェーザー時)はドイツ時間5時15分(ノルウェー時間4時15分)と定められた。

侵攻の表向きの理由は、フランスイギリスが両国の占領を計画し公然と議論していたことに対する予防的な措置であるとされた。侵攻後、ドイツの大使はデンマークとノルウェー政府に対し、ドイツ国防軍はフランスとイギリスによる侵略から両国の中立を守るためにやってきたのだと述べた。

デンマークとノルウェーの地理や位置、気候は大きく異なっていたため、実際の軍事作戦は大きく異なったものとなった。

デンマークは侵攻初日の4月9日に、クリスチャン10世とデンマーク政府は条件付で降伏した。 ノルウェーは交戦を続けたが、4月29日にはホーコン7世をはじめとするノルウェー王室と政府が国外へ脱出した。5月下旬までノルウェー北部では連合国軍遠征部隊との戦闘が続いていたがドイツのフランス侵攻に伴う兵力再編でノルウェーからの撤退が決定した。撤退作戦は6月8日に完了し、ノルウェーはドイツに占領された。

政治的、軍事的背景[編集]

1939年の春からイギリス海軍本部は、将来のドイツとの紛争においてスカンジナビア半島が戦場になると考えるようになった。イギリス政府は、第一次世界大戦の繰り返しとなりかねない新たな大陸での地上戦には乗り気ではなかった。それ故、封鎖戦略によってドイツを間接的に弱めることを検討し始めた。ドイツの重工業はスウェーデン北部の鉱山からの鉄鉱石の輸入に大きく依存していた。鉄鉱石の大部分は冬季にはノルウェー北部のナルヴィク港から船で運ばれていた[1]。ノルウェー沿岸海域をコントロール下におくことはドイツに対する封鎖を強化することにもなった。

1939年10月、ドイツの海軍総司令官エーリヒ・レーダー元帥は、ノルウェーにイギリスの基地が出来ることによる危険性や、そうなる前にドイツ軍が占領出来るかどうかということをアドルフ・ヒトラーと議論した。海軍は、ノルウェーを占領することでその周辺海域も支配下に置け、将来イギリスに対する作戦を行う潜水艦の基地として利用できると主張した[1]。しかし、その時は陸軍や空軍は興味を示さなかった。ヒトラーも北欧諸国が中立政策の維持すれば侵攻することは当初考えておらずむしろ低地諸国への攻勢に注力するよう指示しただけであった。

11月下旬、戦時内閣の新しいメンバーになったウィンストン・チャーチルがノルウェー沿岸海域への機雷敷設(ウィルフレッド作戦)を提案した。それは、ドイツの鉄鉱石輸送船が沖合いを航行せざるを得ないようにすることで、イギリス海軍によって、その航行を阻止できるようにするというものである。チャーチルの考えでは、ウィルフレッド作戦はノルウェーでのドイツ軍の反応を引き起こし、そうなった時は、連合国軍はR4計画を実行しノルウェーを占領し、ウィルフレッド作戦は後に実行されることになる。ネヴィル・チェンバレンエドワード・ウッドアメリカ合衆国などの中立国の間で反感が生じるおそれがあるとして、チャーチルのこの考えに反対した。 11月にソ連フィンランドとの間で冬戦争が勃発し外交状況が変化すると、チャーチルは再び機雷敷設計画を提案したが、それも却下された。

12月、イギリスとフランスは、冬戦争でソ連から攻撃を受けているフィンランドへ援助を送ることを本気で計画し始めた。その計画は、スウェーデンの鉄鉱石の主要な輸出港であるノルウェー北部のナルヴィクへ部隊を上陸させ、ナルヴィクとボスニア湾沿岸のスウェーデンルレオとを結ぶマルムバナンという鉄道をコントロール下に置くことを求めていた。都合の良いことに、この計画では連合国軍がスウェーデンの鉄鉱石鉱山を占領することも可能であった。この計画はネヴィル・チェンバレンとエドワード・ウッドも支持した。彼らは、ノルウェーの協力を期待していた。それは法的な問題を軽減できるからである。しかし、ノルウェーとスウェーデンに厳しい通告が発せられたことで両国の態度は硬化し、否定的な意見が強くなった。遠征の計画は続けられたが、1940年3月に冬戦争が終結するとそれを正当化する理由もなくなってしまった。

計画[編集]

連合国がスウェーデンからの鉄鉱石供給に対する脅威となることを確信したヒトラーは、1939年12月14日に国防軍最高司令部に対してノルウェー侵攻計画の素案策定を始めるよう命じた。Studie Nordと名づけられたその計画は、陸軍の1個師団のみしか参加しないものであった。

1月14から19日の間に、ドイツ海軍はその計画を拡張した。海軍は二つの重要な要素を決めた。一つ目は、ノルウェーの抵抗を減らすために奇襲が必須であること。二つ目は、低速の商船ではなくより高速な軍艦を兵員輸送に用いるということである。新しい計画では、陸軍は1個山岳師団、1個空挺師団、 1個装甲擲弾兵ライフル旅団、2個歩兵師団が動員されることになった。作戦目標は次の通りである。

また、計画ではデンマークとノルウェーの国王を速やかに確保することも求めていた。そうすれば両国が速やかに降伏することが期待できるからである。

1940年2月21日、ニコラウス・フォン・ファルケンホルスト将軍に対し作戦の指揮権が与えられた。ファルケンホルストは第一次世界大戦においてフィンランドで戦っており、極地での戦いに精通していた。しかし、ヒトラーは統一司令部の設置を望んだもののファルケンホルストは陸上部隊のみの指揮権しか持っていなかった。

1940年1月27日、最終的な計画にヴェーザー演習作戦というコードネームが付けられた。それは、第21軍団司令部の元で第3山岳師団と5個歩兵師団が参加することになった。歩兵師団はどれも実戦経験がなかった。第1陣は3個師団で残りは第2陣であった。また、飛行場攻略のため空挺部隊も3個中隊投入されることとなった。さらに、後日第2山岳師団の投入も決定された。

Uボートも作戦の支援にまわすため、大西洋でのUボートの作戦ほぼすべてが停止された。何隻かの訓練用のものも含め投入可能な潜水艦はすべて、ヴェーザー演習作戦支援のHartmut作戦に投入された。

最初はノルウェーには侵攻するとともに外交手段でデンマークの飛行場を確保する計画であった。だが、ヒトラーは3月1日にノルウェーとデンマーク両方に侵攻するよう指示した。それは、戦闘機基地と航空警戒所の確保を目的としたドイツ空軍の要求によるものであった。デンマーク侵攻のため、2個歩兵師団と第11装甲擲弾兵旅団からなる第16軍団が編成された。また、約1000機からなる第10航空軍団が全作戦の支援を行う予定であった。

前段階[編集]

ドイツ船アルトマルクから運び出されるドイツ人の遺体

2月、イギリス駆逐艦コサックが、捕虜を救出するためノルウェー領海内でドイツ船アルトマルクへの乗り込みを行った(アルトマルク号事件)。それはノルウェーの中立を侵す行為であった。この事件を、ヒトラーは、イギリスはノルウェーの中立を侵すことも辞さない明らかな兆候であるとみなした。そして、侵攻への考えをより強くした。[1]

3月12日、イギリスはノルウェーへの遠征軍派遣を決定し、遠征部隊は3月13日に乗船を開始した。しかし、冬戦争終結によりフィンランドへの支援の必要性がなくなり作戦中止となった。代わりに、イギリス内閣はノルウェー海域への機雷敷設を続行し、それに続いて兵員を上陸させることを決めた。

ノルウェー侵攻に参加する、最初のドイツ軍侵攻部隊の艦船は4月3日にドイツを出発した。

その2日後、長い間計画されてきたイギリス海軍のウィルフレッド作戦が実行に移され、巡洋戦艦レナウンに率いられた艦隊がスカパ・フローから出撃し機雷の敷設に向かった。機雷敷設は完了したが、海中に転落した乗員の捜索に向かった駆逐艦グローウォームがドイツ海軍に捕捉され、重巡洋艦アドミラル・ヒッパーおよび駆逐艦2隻との戦闘で失われた。

4月9日、ドイツ軍の侵攻は実行中であり、R4計画も開始された。

デンマーク侵攻[編集]

ドイツ軍のI号戦車。デンマークのオベンローにて、1940年4月9日。

戦略上、ドイツにとってのデンマークの重要性は、ノルウェーでの作戦の足場としてであった。そしてもちろん何らかの方法で支配下におく必要がある隣国としてでもあった。バルト海との関係でデンマークの位置を見れば、ドイツやソ連への航路の支配という点でも重要であった。

狭く比較的平坦なデンマークの国土は、ドイツ陸軍の作戦において理想的なものであった。そして、デンマークの小規模な陸軍には希望はほとんどなかった。だが、朝早く少数のデンマーク軍がドイツ軍と交戦し、16名の死者と20名の負傷者を出した。ドイツ側の死傷者数は不明であるが、12両の装甲車などが破壊され、戦車4両が損傷した。また、ドイツの爆撃機1機も損傷した。[2]短時間の戦闘の間、二人のドイツ兵が一時的にデンマーク側に捕えられた[3]

1940年4月9日の最初のドイツ軍のデンマーク侵攻の直前、ドイツの駐デンマーク大使Renthe-Fink(de:Cécil von Renthe-Fink (Diplomat))はデンマークの外務大臣en:Peter Rochegune Munchに電話をし、会談を求めた。20分の会談後、Renthe-Finkは、フランスとイギリスの攻撃からこの国を守るため現在ドイツ軍はデンマークに向かっていると述べた。そしてRenthe-Finkは、デンマークは抵抗をすぐに止め、デンマーク当局とドイツ軍との間で連絡を取るよう要求し、もし要求が入れられない時はドイツ空軍が首都コペンハーゲンを空襲するであろうと述べた。[3]

ドイツ軍の装甲車Sd. Kfz. 223Sd. Kfz. 222ユーラン半島にて。

ドイツの要求が伝達された時、第1陣のドイツ軍は既に進軍を開始しており、4時15分にGedserにフェリーで上陸した部隊が北へ向かっていた。降下猟兵は抵抗を受けることなくオールボーの二つの飛行場やStorstrøm橋、Masnedøの要塞を占領した。[3]

現地時間4時20分にドイツ軍の歩兵1000名が機雷敷設艦Hansestadt Danzigからコペンハーゲン港に上陸し、抵抗に会わずにthe Citadelのデンマーク軍駐屯地を素早く占領した。またデンマーク王族拘束のためドイツ軍は港からアマリエンボー宮殿へ向かった。ドイツ軍が到着した時、デンマークの近衛隊は既に警戒態勢にあり、別の増援部隊も向かっている最中であった。アマリエンボー宮殿に対するドイツ軍の最初の攻撃は撃退され、国王クリスチャン10世と大臣達は陸軍司令長官William Wain Priorと協議する時間を得られた。議論中、He111Do 17の編隊が幾つか街の上空を飛行しOPROP!ビラを投下した。コペンハーゲン市民に対する爆撃の虞に直面し、戦闘継続に賛成なのはPrior将軍だけであり、8時34分に国内のことについての政治的独立の保持を条件にクリスチャン10世とデンマーク政府はすべて降伏した。[3]

5時45分、ドイツ軍のBf 110シェラン島Værløseの飛行場を攻撃した。デンマーク軍の対空砲火にもかかわらず、ドイツ軍は11機の航空機を破壊し、14機を大破させた。[3]

デンマークの戦いは6時間未満で終わった。デンマークが素早く降伏したことで、しばらくの間は独特の寛大な占領政策がとられる事になった。

ノルウェー侵攻[編集]

侵攻の動機と戦闘序列[編集]

ノルウェーは主に次の二つの点でドイツにとって重要であった。一つ目は北大西洋で通商破壊を行うUボートなどの海軍部隊の基地として、二つ目はナルヴィクから運び出されるスウェーデン産の鉄鉱石の確保であった。北部の長い海岸線は北大西洋へのUボートの出撃拠点として適していた。また、90パーセントがナルヴィクから運び出されるスウェーデン産の鉄鉱石にドイツは依存しており、連合国による妨害を心配していた。

ノルウェー侵攻を行うのはニコラウス・フォン・ファルケンホルスト将軍指揮下の第21軍団で、以下の部隊から構成されていた。

  • 第163歩兵師団
  • 第69歩兵師団
  • 第196歩兵師団
  • 第181歩兵師団
  • 第214歩兵師団
  • 第3山岳師団所属の2個連隊

最初の侵攻部隊は海軍艦艇で運ばれた。参加した主な艦船は次の通りである。

ドイツ軍の上陸場所

主な出来事[編集]

ナルヴィク[編集]

グループ1は途中までグループ2と共に航行した。途中、イギリス海軍のG級駆逐艦グローウォームを撃沈。4月9日にグループ1はナルヴィクのあるオフォトフィヨルドに入り、ナルヴィクなどに兵員を上陸させた。また、ナルヴィク港ではノルウェー海軍ノルゲ級海防戦艦エイスヴォルノルゲを撃沈した。4月10日と4月13日にイギリス艦隊がフィヨルド内に入り、第1次ナルヴィク海戦第2次ナルヴィク海戦が発生。この2度の海戦でグループ1の駆逐艦は全滅した。

トロンハイム[編集]

 上陸作戦を支援していたドイツ軍重巡「アドミラル・ヒッパー」は4月8日、主力部隊からはぐれたイギリス軍駆逐艦「グローウォーム」に遭遇。「グローウォーム」は何と「アドミラル・ヒッパー」に体当たりを敢行。被弾炎上しながらも「グローウォーム」は「アドミラル・ヒッパー」に突入した。「グローウォーム」は沈没し、「アドミラル・ヒッパー」は小破したが上陸作戦には影響しなかった。
 後にチャーチルは自らの著書で「グローウォーム」の健闘を讃えている。

ベルゲン[編集]

4月8日、ポーランド潜水艦オルセルがグループ3の輸送船リオ・デ・ジャネイロを撃沈した。ノルウェー駆逐艦オーディンが救助した生存者から、彼らがベルゲンに向かっていた兵士であるとの証言が得られたが、この情報は生かされなかった。

クリスチャンサン、アーレンダール[編集]

オスロ[編集]

オスロフィヨルド

4月8日夜、グループ5はオスロフィヨルド入り口に到着した。そこでアルバトロスがノルウェーの哨戒艇ポル3を撃破した。オスロフィヨルド内に入ったグループ5は4つに別れ、オスロ、ホルテンラウエイ島ボレルネ島の攻略に向かった。オスロへはブリュッヒャー、リュッツォウ、エムデンなどが向かったが、途中のドレーバク水道でノルウェー軍の要塞から攻撃を受けブリュッヒャーが撃沈されリュッツォウも損傷したため引き返した。これによりオスロ占領が遅れ、ノルウェー政府や王族の脱出を許す結果となった。

ホルテンではノルウェーの機雷敷設艦オーラヴ・トリュグヴァソンが抵抗し、R17が失われた。

夜明け後、ドイツ空軍が攻撃を開始し、空路運ばれた部隊によってフォルネブ飛行場が確保された。各地のノルウェー軍は順次降伏した。

4月11日、オスロから帰投途中のリュッツォウがイギリス潜水艦に雷撃され損傷した。

エゲルスン[編集]

そのほかの場所[編集]

侵攻後[編集]

ドイツ軍の侵攻後、連合国軍がナムソスやÅndalsnes、ナルヴィクに上陸し、ノルウェー軍と共にドイツ軍と戦った。しかし、4月29日にはノルウェーの国王と内閣とがモルデからトロムソへ脱出し、5月1日のÅndalsnesからの連合国軍の撤退をもってノルウェー南部での抵抗は終了した。

ホーコン7世オーラヴ王子や内閣は6月7日にイギリス重巡洋艦デヴォンシャーでトロムソを離れ、イギリスへ向かった。

北部では5月28日にドイツ軍がナルヴィクから追い払われたが、フランスでの戦況悪化により連合国軍は撤退(アルファベット作戦)した。

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c The Illustrated History of World War II. Owen Booth and John Walton. Chartwell Books, Inc. 1998. Pages 44 - 49
  2. ^ Hooton 2007, p. 31.
  3. ^ a b c d e Gert Laursen: The German occupation of Denmark

外部リンク[編集]