ニコラウス・フォン・ファルケンホルスト
ニコラウス・フォン・ファルケンホルスト(Nikolaus von Falkenhorst、1885年1月17日 - 1968年6月18日)は、ドイツの軍人。1940年のノルウェーやデンマークへの侵攻作戦(北欧侵攻)の際に計画を立てた。その後、ノルウェー駐留軍(第21軍)の司令官を務めた。
略歴 [編集]
1885年、当時ドイツ帝国のプロイセン王国領だったブレスラウ(現ポーランド共和国ヴロツワフ)に生まれた。家はシレジアの古い貴族で軍人家庭だった。元の姓はヤストジェムスキー(Jastrzembski)といったが、少尉時代の1911年に「フォン・ファルケンホルスト」に改名を許されている。
1907年にプロイセン王国陸軍に入隊。第一次世界大戦にも従軍。一級鉄十字章・二級鉄十字章や戦傷章黒章を受章した。ドイツ敗戦後の1919年に義勇軍(フライコール)に参加し、この後、ヴァイマル共和国軍(Reichswehr)にも残留した。1925年から1927年までドイツ国防省の作戦部で勤務。1933年から1935年にかけてはプラハやベオグラードやブカレストのドイツ大使館に駐在武官として勤務した。1935年7月1日に少将(GeneralMajor)に昇進するとともに第3軍参謀長となった。1937年に中将(Generalleutnant)に昇進。1939年に歩兵大将(General der Infanterie)に昇進した。
第二次世界大戦初頭のポーランド侵攻では第XXI軍団を指揮。1940年には北欧侵攻の計画を任されたが、この計画はトップシークレットで彼には十分な図表などは与えられなかった。彼はベルリンの店から購入した図を使ってホテルの部屋で北欧侵攻計画を立てているような状態だった。それにもかかわらず作戦は成功に終わった。この作戦の際のドイツ軍の大きな損失はオスロ・フィヨルドで沈んだ重巡洋艦「ブリュッヒャー」ぐらいであった。この戦功により騎士鉄十字章を受章。
その後、1940年から1944年12月にかけてノルウェー駐留軍の司令官の地位にあった。1941年2月、ベルリンの軍事法廷がノルウェー人10名に対しスパイ容疑で死刑判決を下した際、著名な探検家スヴェン・ヘディンの働きかけを受けたファルケンホルストはアドルフ・ヒトラーへの減刑嘆願を取り持ち、ヒトラーの裁定により懲役10年に減刑された。1944年12月18日にノルウェー総督ヨーゼフ・テアボーフェンの方針に反対したため、司令官職を更迭された。
ドイツの敗戦後、イギリスとノルウェーの共同軍事法廷にかけられ、連合軍捕虜を親衛隊に引き渡して死刑においやった罪などにより1946年8月に死刑判決を受けた。ヘディンらの働きかけにより20年に減刑された。さらに1953年7月23日には狭心症を理由にヴェルルの戦犯刑務所から釈放された。西ドイツのホルツミンデン(de:Holzminden)で死去した。
受章 [編集]
- 二級鉄十字章 (1914年版)
- 一級鉄十字章 (1914年版)
- 戦傷章黒章(1914年版)
- 二級自由十字勲章
- 名誉十字章
- 1級司令官白バラ勲章
- 一級鉄十字章略章(1939年版)
- 二級鉄十字章略章(1939年版)
- 騎士鉄十字章 (1940年4月30日叙勲)
- ドイツ十字章銀章(1945年1月20日叙勲)
- 1級及び2級剣付き戦功十字章
- 大十字司令官白バラ勲章