クリミア自治共和国

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クリミア自治共和国
Автономна Республіка Крим
Автономная Республика Крым
Qırım Muhtar Cumhuriyeti
クリミア自治共和国の旗 クリミア自治共和国の国章
地域の旗 国章
地域の標語:Процветание в единстве
(ロシア語: 統一による繁栄)
地域の歌:Нивы и горы твои волшебны, Родина
(ロシア語: あなたの田畑と山々は魅力的だ、祖国よ)
クリミア自治共和国の位置
公用語 ウクライナ語
主都 シンフェロポリ
最大の都市 シンフェロポリ
政府
首相 アナトリー・ブルドゥコフ
最高会議議長 ボリス・デイチ
面積
総計 2万6200km2N/A
水面積率 不明
人口
総計(2010年 196万2900人(N/A
人口密度 75人/km2
独立
 - 日付
ウクライナより
1992年5月5日
通貨 フリヴニャUAH
時間帯 UTC +2(DST:+3)
ISO 3166-1 UA / UKR
ccTLD .crimea.ua
国際電話番号 380-65
現代のウクライナを中心としたウクライナ語の分布図。
0 ウクライナ語が主に使われている地域
0 ウクライナ語が使われている地域
0 ウクライナ語が使われていない地域
クリミア半島のほぼ全域ではウクライナ語が話されていないのがわかる。

クリミア自治共和国(クリミアじちきょうわこく)は、ウクライナクリミア半島のほとんどを占める、自治共和国である。

首都はシンフェロポリで、人口は約255万人、面積は2万6140平方キロメートル。主な都市はヤルタシンフェロポリケルチバフチサライなど。半島最大の都市セヴァストポリは自治共和国に含まれない。

ウクライナの国内でも特にロシア人及びロシア語母語とするウクライナ人が多数を占める地域で、ロシア人は現在では全人口のおよそ5割を占める。このためソビエト連邦解体直後に独立が図られ、独立問題が終息した後も自治共和国になっている。

目次

国名 [編集]

自治共和国の国名は、ウクライナ語で Автономна Республіка Крим (Avtonomna Respublika Krym)、ロシア語でАвтономная Республика Крым (Avtomnaia Respublika Krym)、クリミア・タタール語でQırım Muhtar Cumhuriyeti といい、いずれも同じ単語をそれぞれの言語で表現しているのみで、まったく同義である。

現在のウクライナでは、ウクライナ語のみが公用語として定められているが、クリミア自治共和国では公的な場合を除き使用される機会は少ない。自治共和国の住民の大多数が母語とするロシア語が広く用いられており、そして先住民であり、全人口の一割程度を占めるクリミア・タタール人の言葉であるクリミア・タタール語も用いられている。

歴史 [編集]

ソ連以前 [編集]

クリミアの地にはもともとテュルク系ムスリム(イスラム教徒)の国家クリミア・ハン国があったが、ロシア帝国はハン国を18世紀末に併合して以来、国策としてスラヴ人ロシア人ウクライナ人キリスト教徒のクリミア移住を進めてきた。この政策の結果、クリミアはロシア帝国の末期にはすでにウクライナ周辺の中でも特にロシア人の占める割合が多い地域であった。

ソ連時代 [編集]

ソビエト連邦の発足後、ここにはクリミア自治ソビエト社会主義共和国が置かれたこともあったが、すでにクリミアの中では人口的に少数派になっていたクリミア・タタール人には十分な自治権は与えられず、第二次世界大戦中のクリミア・タタール人の中央アジア追放、自治共和国の廃止に終わっている。

自治共和国の廃止によりクリミアはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のクリミア州となったが、1954年ウクライナ・ソビエト社会主義共和国へと移管された。この移管は、行われた時点ではソ連の解体は想定されていなかったため問題とならなかったが、40年後のソ連崩壊により、クリミアのロシア人たちは再びロシアへの帰属を求めるようになった。

ウクライナ時代 [編集]

1992年5月5日、ウクライナ共和国クリミア州議会はウクライナからの独立を決議し、クリミア共和国を宣言した。ウクライナ議会は5月15日に独立無効を決議したが、黒海艦隊の基地として戦略的に重要なクリミアへの関心を持つロシアは独立の動きを支持し、5月21日にクリミアのウクライナ移管を定めた1954年の決定は違法とする議会決議を行った。しかし、ロシアで独立を宣言していたチェチェン共和国に対し、1994年にロシアが武力鎮圧を開始(チェチェン紛争)すると、一方で自国からのチェチェンの独立を禁圧しながらウクライナからのクリミアの独立を支持するのはダブルスタンダードであるとの国際的批判が高まり、ロシアはクリミア独立運動への支援を取りやめた。

その結果、クリミア内での独立運動も後ろ盾を失って急速に沈静化し、またウクライナ側でもロシアに敵対的な民族主義政党の活動が和らいだため、クリミア議会もウクライナ共和国内の自治共和国であることを認めるようになり、1998年にクリミア自治共和国憲法が制定された。

このように、ロシア人とウクライナ人の対立は終息に向かったが、クリミア自治共和国ではクリミア・タタール人の故郷帰還と権利回復に関する問題が残されている。ペレストロイカとソ連崩壊によってクリミアへの帰還を許されたクリミア・タタール人は徐々にクリミア自治共和国に還流しており、1990年代には全人口の1割から2割に達した。彼らの先祖の土地返還の訴えや、イスラムへの回帰は地元のロシア人らとの間に軋轢を生み出しており、第2のチェチェン化を懸念する声すらもある。

政治 [編集]

クリミア自治共和国は、「クリミア自治共和国最高会議」と呼ばれる議会(議員数100名)を最高機関とする。かつて自治共和国大統領が置かれていたが、短期間で廃止された。 行政は閣僚会議がつかさどっており、最高会議によって任命される首相がこれを代表する。

行政区画 [編集]

人口 [編集]

2001年ウクライナ国勢調査によるデータ。

  • 総人口&00000000020337000000002,033,700人[1]
  • 都市人口&00000000012743000000001,274,300人(63%);農村人口:&0000000000759400000000759,400人(37%)[2]
  • 性別人口:男性&0000000000937600000000937,600人(46%);女性&00000000010961000000001,096,100人(54%)[3]
民族構成[4]
ロシア人
  
118万0400人 (58.3%)
ウクライナ人
  
49万2200人 (24.3%)
クリミア・タタール人
  
24万3400人 (12.0%)
ベラルーシ人
  
2万9200人 (01.4%)
タタール人
  
1万1000人 (00.5%)
アルメニア人
  
8700人 (00.4%)
ユダヤ人
  
4500人 (00.2%)
ポーランド人
  
3800人 (00.2%)
モルドヴァ人
  
3700人 (00.2%)
アゼルバイジャン人
  
3700人 (00.2%)

経済 [編集]

クリミア自治共和国の主要な産業は、農業観光業である。ヤルタなどのクリミア半島南端の黒海沿岸はロシア帝国以来の保養地として、国際的な観光地になっている。

一方、工業は主に自治共和国の北部に集中している。

脚注 [編集]

  1. ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。ウクライナの総人口” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。
  2. ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。ウクライナの都市人口・農村人口” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。
  3. ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。ウクライナの性別人口” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。
  4. ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。地域別民族構成” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。

参考文献 [編集]

外部リンク [編集]