万関瀬戸

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万関瀬戸

万関瀬戸(まんぜきせと)[1]は、対馬長崎県対馬市)の中央よりやや南の東部にある延長約500mの運河。対馬西部の浅茅湾(あそうわん)と東部の三浦湾(みうらわん)を接続する。

対馬西岸と東岸を結ぶ運河はもう1本大船越瀬戸がここより約2km南にあるが、万関瀬戸に比べて狭く、浅い。また、万関瀬戸が航路であるのに対し、大船越瀬戸は漁港となっている。このため、多くの船舶は万関瀬戸の方を通航する。なお、万関瀬戸航路は開発保全航路に指定されている。

対馬島の上島と下島の境であり、ここより北部を上島、南部を下島と言う。運河上には国道382号の万関橋(まんぜきばし)というが架けられている。現在の橋は1996年に架けられた3代目。

歴史[編集]

1900年に旧大日本帝国海軍によって、浅茅湾内の竹敷港にあった竹敷要港部から対馬東海上までの所要時間を短縮するための航路として開削された。当時は幅約25メートル、深さ約3メートル[2]であった。1905年に起きた日露戦争日本海海戦では水雷艇部隊がここを通って出撃した[3]

1955年に万関橋が架け替えられた。この2代目の万関橋は綱製のアーチ橋で、バスの通行が可能になった。

1974年7月に開発保全航路に指定され、1975年3月には幅40メートル、深さ4.5メートルに拡張された。

1990年代に航路の再拡張が計画されたが、実現していない。1996年に架け替えられた三代目の万関橋はこの計画に沿って設計されたため、下島側の取付部が内陸に入り込んでいる。また、同様の理由で下島側の道路脇に設けられた公園も運河に面していない。

脚注[編集]

  1. ^ 日清、日露戦役の頃は久須保水道と呼ばれた。
  2. ^ 明治32年3月の工事設計変更によれば「敷幅弐拾四尺(約7.2メートル)、深さ干潮面ヨリ十尺(約3メートル)ノ掘割」とある。
  3. ^ 日本海海戦時に水雷艇隊は久須保水道(万関瀬戸)を通って出撃はしていない。明治37年9月から掘割拡幅のため同水道は締め切られていた。鎮海湾から第一戦隊(三笠)に随伴して出撃した水雷艇隊は波が高かったため、三浦湾に一時避難しただけである。また尾崎湾に停泊中の第三艦隊付艇隊(第41号 水野広徳大尉等)は大口湾口を経て出撃した。

外部リンク[編集]